おはパンツは別々に洗って!
すっかり長くなりました。
発作マグナム的に書き出しました『歎異抄』第9条ですが
明日全訳を載せて一区切りにします。
昨日は
「らせん階段の踊り場」
のお話をしました。
(踊り場領域図)
たとえば
これまで「1-100」の波動域にいた人が
何かのきっかけで「100」を超えました。
(踊り場に到達)
するとその人は、次に
「101-200」の波動域で喜びの体験していきます。
「101-200」で十分に体験を終え
何かのきっかけで「200」を超えた時
(踊り場に到達)
その人は続いて「201-300」の波動域へ進みます。
っていうイメージです。
このたとえの「100」「200」「300」という波動域の境目は
「らせん階段」の「踊り場」のイメージで
一度次のステージ(踊り場)に上ったら
基本的にもう下がることはありません。
らせん階段を上がりっぱなしなので
あなたはいつだって
「過去最高のあなた」
なのです。
(数字は便宜上分かりやすく用いただけで何の意味もありません)
これを踏まえたうえで
『歎異抄』第9条の例のところを
今一度眺めていただけますか?
今日は①②のところの再確認です。
【ジーナ意訳】
①唯円「師匠!躍り上がるような喜びが湧いてこないっす」
②親鸞「唯円、お前も?俺もだよ」
この部分は
このシリーズの初回に述べた通り
「かつて躍り上がる喜びをした体験者同士」が
「今は湧き上がらないね?」
「だよねー!」
っていう楽しい会話でした。
そして
「躍り上がる喜び」ではなくて
喜びは喜びでも、その反対の
「静かに落ち着いて湧き上がる喜び!」
が楽しいよねーってことです。
なので、ここの会話は
「現時点の心境」の肯定であり、
「かつての心境」を経て「次のステージ」に来たね!
という2人の喜びの会話なのです。
・・・おやや?
そうですそうです!
お二人は「踊り場ライン」の話をしていたのです。
『歎異抄』成立当時はもちろん
「踊り場」や「ライン」
などといった表現はありませんが
表現はなくても体感や体験は現代人と同じです。
雑なたとえですが
「100」の波動領域のときは
「私ねえ、パパと結婚するの♪」
なので
「一緒にお風呂入るぞー!」
っていうのも
「うん、やったー!」っていう
「躍り上がる喜び」
だったのです。
お嬢さんが高校生や大学生になり
「200」や「300」の波動領域におりますと
「い、一緒にお、お風呂入る?」(←すでに挙動不審w)
「はぁ?」
となるのです。(←お巡りさんこっちです)
あまり良い例えではありませんでしたw
かつては「躍り上がる喜び」だったものが
現在は次の波動領域の
「静かに落ち着いて湧き上がる喜び」
になっているわけです。
これまでは2次元波動図で考える場合が多く
これでは「上がる」か「下がる」か!
でしか表現できませんでした。
「2次元波動図」
人間の波動を記述する際
3次元の「らせん階段」
で考えますと理解しやすく、また
「踊り場ラインは下回らない」
という性質を理解しやすいのですね。
(「波形」と「らせん形」は視点が違うだけで同じものです)
ちなみに
肉体が日々アップデートしているように
こうしたスピ的な情報もアップデートしています。
それは「概念が増える」からです。
たとえば、「アップデート」という概念も
20年前の人たちにはなかったので
「使えなかった」わけです。
10年前の人に
「スマホで調べたら?」といっても
「ふぁ?」という顔をされるだけです。
スピ的な情報もアップデートされていないと
「原理主義」
に陥りますのでよくよく留意しましょう。