知恵を求める人のためのブログです。
神社に祀られているご神体は、
見てはならないものとして一番奥の部屋に隠されています。
人が近寄ってその場所を汚すことがないようにするためです。
つまり、
居場所ははっきりしていますが見えないようにしているのです。
ご神体は、
昔の神話や伝説に基づいた石や、刀や、何か謂れのあるものが多いようです。
(そういう物に力があるとは考えにくいですが、
神話や伝説を信じていることが多いようです)
あるいは、
明治神宮(明治天皇)や
乃木神社(乃木希典)や天満宮(菅原道真)などのように、
昔の人物を神格化した神社もあります。
また、
高野山金剛峯寺は空海が
比叡山延暦寺は最澄が
開創した寺社ですが、
各々空海、最澄を慕って参拝する場所となっています。
寺に祀られている仏像は姿を様々な形(空想上の人物が多い)で表しています。
神社の社殿などの横に狛犬(一対の獅子に似た獣の像)を配置し魔除けとしています。
(神と悪霊とを分けて考え、悪霊が入り込まないようにしているのです)
あるいは、
稲荷神社のように、狐の像を配置しているところもあります。
商売、五穀豊穣を祈願する神社として全国各地にあります。
日本は至るところに、
神社や寺社が点在しています。
中には人目に付かないところにさえあるものもあります。
容易に人がいけないところにあるものもあります。
おそらく、
外国でも同様だと思います。
神様は「人目に触れてはならないもの」という認識が強いようです。
昭和の敗戦までは、
天皇は「神」扱いのため、
庶民は見てはならないものとされていました。
伊勢神宮や鹿島神宮のように、
パワースポットとされているところもあります。
しかし、
多くは、
神は見えないまでも「居場所」ははっきりさせているものです。
人はやはり見えない神よりも居場所がはっきりしている神の方が信心し易いようです。
日本人は信心深いのか、
なんでも「神」にしてしまうことがあります。
例えば、
500年、1000年の大樹を神としているところもあります。
石や岩などを崇める対象としているものが多いようです。
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「神出鬼没」という言葉があります。
これは、
神や鬼がたちまち現れたり隠れたり、
出没が変幻自在であることを示しています。
(中国の『淮南子(えなんじ)』が出典とされています)
ですから、
神や悪霊たちは「特定の場所」にいる訳ではないと考えている人の方が多いので
す。
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なのに、
人々は、特定の神社や寺社や、
あるいは、
キリスト教の「大聖堂」のようなところに「行って」
いわゆる「参拝」をしているのです。
理由は、
日本の神社や寺社は、
各々、「ご利益」が異なるからです。
つまり、
人々が「神」として崇める対象に、
各々特定の「能力」しか認めていないということです。
例えば、
この神社の神は「縁結びの神」だとか、
天満宮や天神は「学問の神様」だとか、
あるいは、
「安産」「家内安全」「五穀豊穣」などを銘打った神社が多いものです。
実際、
天満宮という名の神社は全国に100ヶ所かそれ以上あります。
日本人は「怨霊」を祓うとか「頭が良くなりたい」という「気持ち」が強いようで
す。
「盆踊り」という行事は先祖を供養するための「踊り」とされています。
墓参りもしますが、「盆踊り」もするのです。
(しかし、盆踊りに参加する人の多くは、
祭りや踊りを楽しんでいるだけのように「見えます」)
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神社や寺社というはっきりした場所を作るのは、
見えない存在に対する「人間の知恵」かも知れません。
つまり、
その「特定の場所」に天から降りて来て「願いを叶えて欲しい」との思いが込めら
れているのです。
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イスラエルの神、エホバがモーセと接見するのに、
1 人里離れた山(シナイ山、ホレブ山、)の奥、頂き
2 幕屋(後の神殿)の至聖所
荒野では「組み立て式」の幕屋でした。
ソロモンの時に神殿を建設しました。
3 ヨシュアはゲリジム山とエバル山の間で、
イスラエル国民に、「エホバに誓い」を立てさせました。
という「特定の場所」でした。
荒野では、
エホバがイスラエル国民と共にあることを示すために、
昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」で民を先導しました。
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しかし、
神との接見を許されていたのは、
モーセやヨシュアや大祭司だけだったので、
神の民と言われたイスラエル国民は、
人々自身が直接見える神(偶像)を崇拝するようになり、
その都度、神に罰を与えられています。
(日本の場合、
神社では宮司が、
寺では住職が、
祈祷を行いますが、
比叡山延暦寺のように、
天台座主(僧侶の最も高い地位)や多くの僧侶が行うところもあります。
高野山金剛峰寺では、
空海は「今でも生きている」とされているため、
天台座主のような存在はいませんが、
僧侶は学侶、行人、聖の三つに区分されていると言われています。
祈祷は、
多くの場合僧侶が行います)
キリスト教でイエス・キリスト像を用いたりマリア像を用いるのは、
見えない存在より見える存在の方が「崇拝し易い」ためでしょう。
そして、
「誰でも、それらの像」に対し「祈る」ことが許されています。
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崇拝の対象ではありませんが、
宗教的な壁画や絵画も沢山あります。
ただ、神そのものの像や絵画はありません。
誰も神を見たことがないからです。
もし、誰かが描いたとすれば、
それは空想によるものです。
例えば、
悪魔の絵がそうです。
悪魔を見た人はいません。
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また、
人は、
ある特定の生きている人を
神のようだ、あるいは、鬼や悪魔のようだなどと表現することもあります。
現実に、
神も鬼も悪魔も見たこともないのにです。
これは、
姿形ではなく、
各々の性質を似ていると言っているのですが、
ただ、
善いことは神の性質で、
悪いことは鬼や悪魔の性質である、
と人々が認識していることを示しています。
また、時には、
災害があると「神様の祟り」だと考える時代もありました。
現代ではこのように考える人は殆どいないと思いますが。
残虐な出来事は悪魔のせいだと思う人も少なくありません。
例えば、
プーチンやスターリンやヒトラーを悪魔の化身と考える人もいるでしょう。
人は、
理解出来ない出来事や残虐な行為を神や悪魔に結び付けて考える傾向にあるようで
す。
あなたもこのように考えたり思ったことがあるのではありませんか?
こうした人類の特徴は、
人間に信仰心が「初めから備わっている」という証拠になるでしょう。
聖書の中でも、
神による「裁き(罰)」として、
大洪水、地割れ、疫病、飢きん、雹、雷(稲光)、天からの火と硫黄、
など自然災害と思われるような出来事が記述されています。
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ところが、
文明や科学が進歩した現代では、
この信仰心が薄れていることは確かです。
(文明とは、
生活水準の向上、近代的な社会や生活、
更には、
宗教、道徳、学芸などの精神文化よりも、
人間の技術や物質を重んじることを言います)
文明とは、
人間の「知恵」と「工夫」の結晶のようなものです。
つまり、
科学の産物です。
科学とは「神仏」に関わらないということでもあります。
現代は、
科学中心の時代ですが、
年末年始なのど「初詣」などの人口を見て見ますと、
国民の9割ほどの人々が、
何らかの形で「神頼み」をしていることが分かります。
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かつて、
ノアの大洪水前、
神は、
「人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧
になった」
「地は[まことの]神の前に損なわれ,地は暴虐で満ちるようになった」
と言われています。
この時の人間は「何でも、やりたい放題」なことをしていたのです。
神のことなど「全く考えていなかった」か、
あるいは、「神を軽視していた」のです。
地上が暴虐で満ちたため、
神は大洪水で「その時の世を滅ぼした」のです。
その同じ神が、
現代の人間の態度を見過ごすでしょうか。
有り得ないことです。
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ロシアによるウクライナ侵攻だけではなく、
パレスチナ(ハマス)とイスラエルとの戦闘も激化しています。
ロシアやハマスやイスラエルは、
民間の施設を攻撃しています。
ウクライナはロシアの軍事施設だけを攻撃しています。
ただ、
ウクライナ以外の
反ロシア勢力は、ロシアの民間施設も攻撃しています。
場合によっては、
イランがイスラエルを攻撃するかも知れません。
ハマスに武器や資金を供与しているのがイランだと言われているからです。
インドと中国がチベット付近で戦争を始めるかも知れません。
こうした「雰囲気」というのは、
世界中に拡散(伝染)し易いものです。
世界中に「小さな小競り合いが拡散」するかも知れません。
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ロシアがウクライナ侵攻をする前、
世界は「平和に向かっている」かのような雰囲気でした。
犯罪が多発していましたが、
地域の安全保障の連携や経済や科学が政治課題の中心だったからです。
正に、
人々が「安心」「油断」している状況の時に、
悪魔の仕業のような出来事が起きたのです。
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悪魔は現実に「存在」しているのです。
悪魔は、
信仰や救いに関して「光の使い」として現れる時もあり、
残虐な事柄や災いだけではないのです。
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あなたも見えない神よりも見える神の方が良いですか?
真の神も悪魔も悪霊も「見えない」のです。
「見えないことがら」を信じるには、
「信仰」と「確信」が必要です。
これは、
あらゆる「自然の法則」の存在を信じることに似ています。
「自然の法則」そのものは「見えません」が、
その出来事は観測出来ます。