香港でいきなり強権が発動された、という。

一気に畳みかける背景には、あるグループの人たちの経済的思惑もあるのかもしれない。

 

日本ではTVでSNS禁止令などが出るのでは・・・と言われている。

中華人民共和国のSNS禁止や規制は日本でも報じられており、流れの中で起きやすくなる可能性はあるだろう。

 

ただ、それは、民主主義ではない。香港でも日本でも台湾でも反発する人たちはいるはずだ。

 

ただ、香港のデモを見て、日本人がどう思うかについて・・・

日本は、デモが起きづらい、起きない国である、という現状もある。

最近は言論の幅も少なくなってきたし、財政的な支援もあるわけでもない。

特に地方では、デモなどあまり起きないのである。

 

家永裁判(教科書訴訟)。というように、日本では、過去、裁判に訴えることが良くあった。

そして、その支援者がいて、ホームページなどで「おかしい」という話が出てくるようなこともあった。しかし、議員を含めて、最近は、裁判に訴えることも少なくなったのである。あるいは、裁判に訴えてもマスコミがあまり報じない状況もある。

 

また、議会の陳情、という方法も取られてはいるが、議会の陳情も実際の問題にくらべ「かなり」少ない。

目立つと何かしら被害にあう。という思考もそうさせている。

目立たなくてもある程度以上問題が解決すればそれに越したことはない。そういう思考もある。

無論、その中で、圧力を加えられて泣いている人もいるだろうし、あるいは、ナイフなどで刺されて殺されずに孤独死している人もいるだろう。

 

そして、これらのことは、高度情報化や海外の政治情勢や経済的な状況を含めたうえで起きているのではないか。ということである。

 

香港のデモを見て、日本がどう思うのか。

日本人は支持するだろう。というコメントもあるだろうが・・・

 

「お祭り」好きの香港人が何かやっている。

あるいは

「お祭り」好きの香港人の心理を利用して、何者かが何かしら経済的な理由で相互で闘争をしているだけで、その中で1名が何かの理由で警察官の服を着た人に殺されそうになった。(通常、天安門事件のように、警察が人民を蹂躙するなら、何人もの人々が殺されているはずだ)

 

的な感覚もある気はしているのである。ただ、こういう意見は、言論に上がってくることは少ないかもしれないが、デモが報じられなくなる理由がそこにあるのだろう。

 

日本のデモはプロ市民の・・・

 

という意見は、デモ自体、地方ではかなり少ないだけでなく、デモ参加自体が閉鎖的な面がかなり強いからである。

 

そしてそれは・・・千葉の災害で苦しんでいる、という報道の報じられ方にも影響しているのではないか。

災害発生後の事後談がなぜ少ないのか。も含めて、そんな感じもしていたりしている。

 

うちの地方には関係ない

俺らの生活は苦しい

 

そういう意識の蔓延。そういう心理にさせたものは当然にいるわけだが、

 

高度情報化社会 と セキュリティ と 公共の守護 と 経済問題 と 思想信条の自由等の権利擁護や法治主義の問題

 

という中で、

 

「国民の」基本的人権(医療や生活保障を含む)の乏しい国に香港の民主主義を伝えて何になるの?

 

というリアルな現実を記述しつつ、 マルチン・ニーメラ(ナチスドイツ時代のキリスト教の弾圧がほかの勢力の弾圧の放置から続いてきた) や レイチェル・カーソン(沈黙の春) (教科書に記載されていた)を記載して、この話を閉めようと思う。

 

我が国で、あるいは、世界で、少なくない人が、報道外で、サラリーマンや自営業者として、あるいは、社会保障を受けて、ある程度平和にご高齢でも活躍していると信じたい、ということも願いつつ、香港デモで民主主義を訴えている人が、日本の、ある面で法治主義が弱まっていくほんとうの現状を見るとどう思うのかな、と正直思っている。