アジア解放のための戦争などなかった | 爺庵独語

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爺庵の独善的世相漫評

 戦後71年目という8月15日に、昭和16年12月8日に始まり、71年前の今日昭和天皇の肉声による終戦の詔書朗読がラジオで流されるまで続いた米英等連合国との戦争の、その歴史を振り返ってみる。

 政治権力によるメディア恫喝が公然と行われ、カルティックな極右が防衛大臣に就任するような現今のこの国には、その戦争がアジア解放のための戦争であったなどという妄言がまことしやかに語られるようになっている。そうした愚かな歴史改竄に対して、少なくとも自分自身は正気を持ち続けたいとの意図に発するのである。

 一般に太平洋戦争と呼ばれ、右翼は大東亜戦争と呼びたがるその戦争を、ここでは取り敢えず対米英戦争と呼ぶことにしよう。

 対米英戦争は、ざっくり言うなら、植民地帝国日本が他国の植民地を横取りしようとした戦争である。

 歴史を遡行するなら、日本の対米英開戦の最終的原因となったのは、いわゆるハル・ノートである。米国から日本に対する最後通牒となったこのノートが発せられるまでには、半年以上にわたる日米間の交渉があったのだが、その交渉のさなか、日本は南部仏印進駐を敢行し、これに反撥した米国等は日本資産凍結、対日石油輸出禁止などの経済封鎖策を取った。戦略物資の確保ができなくなった日本は、米英蘭などが支配する東南アジアの植民地の資源を軍事力をもって奪うために、無謀な戦争を起したのである。

 南部仏印進駐もまた、日本の同盟国ドイツが突如ソ連との戦争を始めたその間隙を縫って行った火事場泥棒的な行為であったし、その前段にあった北部仏印進駐はドイツの傀儡たるフランスのヴィシー政権下でのことで、日本の資源確保や、当時重慶に立て籠もって抗日戦争を戦っていた蒋介石の中国国民党軍への援助ルートを断つのが目的であった。

 さらに遡行するなら、日本と中国との戦争は何の戦争目的もない、突発した事変が無制限に拡大していっただけの愚かというのも虚しい戦争であったし、中国が盧溝橋事件以後の日本の侵攻に屈服することなく抵抗を続けていたのは、満洲事変を契機とした日本の傀儡国家樹立やそれ以後引き続いた日本軍による華北分離工作などの侵略行為への反感があったからである。

 こうした歴史上の事実が、アジア解放というお題目は、植民地争奪のための戦争という真相を糊塗するために、当時の日本の為政者たちがでっち上げた厚化粧のスローガンに過ぎなかったことを証明している。

 爺庵は、日本がアジア諸国を西欧の支配から解放したという言説、そのための戦争が対米英戦争だったという言説を信じない。長年西欧諸国の植民地であったアジア諸国が、第二次世界大戦の後、独立を回復していったのは事実であるが、それは日本が解放したのではない。なんとなれば、日本はそれらの地を支配していた西欧諸国に完膚なきまでに負けたのだから。

 日本がアジア諸国を植民地という立場から解放したという言説には、爺庵は決定的な誤謬があると思う。それは、日本は自らの植民地たる朝鮮を決して植民地の立場から解放しようとはしなかった、ということである。日本がアジア解放の救世主であったかのような言説は、その一事によって一蹴されるのである。

 アジア主義者などと呼ばれ、アジア諸国民の独立運動を支援したと言われる人たちも、決して朝鮮の独立運動の支援などはしていない。そのことによってアジア主義者の金メッキも剥がれざるを得ないのである。

 爺庵の知る限り、日本人で植民地朝鮮の独立を叫んだのは、福岡筥崎宮の神官であった葦津耕次郎ただ一人に過ぎなかったのである。