思へばこの世は常の住み家にあらず 

 

 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし 

 

 金谷に花を詠じ、榮花は先立って無常の風に誘はるる 

 

 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立って有為の雲にかくれり 

 

 人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり 

 

 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか・・ 

 

 

 

 

 天眞正自源流兵法第27代宗家上野源心の子として生を受け、令和4年、齢68歳の年を迎えた。

 

 

  

 

 

 令和5年は、昔ながらの数えであれば【古希】となり、人生は、まさしく光陰矢の如く過ぎ去った。

 

 三才の頃より真剣を手にして、父より自源流の手解きを受けたが、物心がついた頃には、自由自在に抜刀納刀動作をこなし、自源流の形動作も一通り身に付いていた。

 

 小学校1年生の頃には、真剣で竹や巻き藁を斬り、父に同行して多くの演武会にも出演していた。

 

 東京浅草の一等地に建設された「天眞正自源流兵法/綜合武道尚武舘」が完成したのは、昭和39年(1964)私が10歳、小学4年生の時である。

 

 

 

 尚武舘武道場が出来る前は、自宅8畳間が自源流の稽古場となり、毎日真剣を振る稽古が日常的に行われた。

 

  

 

 

 全国各地で行われた演武会などにも、父や弟と共に良く参加した。

 

 

 

 幼稚園年長の頃からは、講談社野間道場に剣道をする為に通い続けた。

 

 私は、朱塗りの竹胴を付けていたので「赤胴鈴之介」とあだ名をつけられ、生意気だったのだろう・・先輩や先生方にいつも*ボコボコ*にされていた。

 

 

 

 そして、道場が出来ると、月水金は【剣道/自源流】、火木土は【柔術/空手】、土日は【父から直伝の自源流】、休みなどなく、稽古は熾烈を極めた。

 

 

 

 

 小学1年生の頃より始めた【立木打】は、小学3年生になると、次第に打ち込みが増えて朝夕1000回を超える様になっていた。

 

 道場が出来てからは、庭の立木が処分されたので、ホットしたのも束の間、道場内部に折り畳み式の立木が、大工さんによって作られていた。

 

 

 

 10歳の頃には、手の内に出来た豆がつぶれ、何十何百も再生されたせいか、柔らかいはずの手の内の皮膚が、足の踵の様に固くなり、風呂で柔らかくしてから、剃刀で削り取っていた。

 

 日々繰りかえす【抜刀納刀】動作の修練は、特に右手の内、親指付け根側の皮膚が破れ、出血してこびりついてしまう。

 

 稽古が終わっても、柄から手を離すと再び出血するので、真剣を手に、祖母が用意してくれた、お湯が入っている桶に刀の柄ごと右手をつける。

 

 しばらくすると、手の内にフワッとした感じが伝わる頃、お湯から右手を出して、柄からゆっくりと剥がすのだが、失敗すると大惨事となる。

 

 その様にして、とんでもない【武術修行】の日々が繰り返されるが、稽古そのものは、何の苦痛でも無く、寧ろ鍛えるという事に快感すらあった。

 

 柔術空手の稽古は、年がら年中、脱臼、骨折の繰り返しで、今でもレントゲンを撮れば、体中に骨折箇所を確認する事が出来る。

 

 

 その・・日常的な修行も、中学3年生の15歳までであった。

 

 父が脳溢血で倒れ、道場は閉鎖、家族全員で埼玉県越谷市に転居した。

 

 

 中学3年で越谷市立西中学校に編入、僅か5ヶ月の転校生であったが、剣道部に入部して、高校進学を目指した。

 

 高校への入学が決まったが、人生初体験の入学金と学費の問題が浮上した。

 

 横浜の叔父に入学資金を借りて、他の学費は全てアルバイトで賄う事にした。

 

 そして、高校3年間は、アルバイトと剣道部で充実した青春時代を活き粋と過ごし、帰宅すると毎日の報告を父にするのが日課になっていた。

 

 大学進学を決めたその年、重篤であった父が他界した。

 

 

 何という偶然、何という運命、父は19歳で天眞正自源流兵法の第27代宗家を継承したという。

 

 私も、父と同じ年齢で、天眞正自源流兵法の第28代宗家を継承する事になろうとは、考えてもみなかった。

 

 父の一周忌を終えて、遺言通り19歳となってから・・父の故郷、鹿児島県出水市にある上野家の菩提寺を尋ねた。

 

 

 菩提寺の住職は、父から預かっていると云い、大きな桐箱を私に返すと言って渡してくれた。

 

 桐箱の中には、天眞正自源流兵法の伝書巻などを始め、流儀伝承の全てが大事に包まれて、保存されていた。

 

 父は、19歳で天眞正自源流兵法を継承、其の後、戦争動乱の時代になる事を予期して、流儀伝承の全てを桐箱に納めて戦地に赴いたのであろう。

 

 桐箱に納められていた中に、私の未来を決める手紙も残されていた。

 

 その父の手紙には、父の兄弟子の存在と住所が記されていたが、尋ねるかどうかは、後継者に任せるというものであった。

 

 また、もう死んでいるかもしれないとも、記述されていた。

 

 父の手紙は、私が生まれる前に書かれたものであり、戦後、帰国した時に書かれたもので、昭和22年7月18日の日付があった。

 

 

 

 この父の遺品ともいうべき天眞正自源流兵法の遺産をどうするべきか、菩提寺の住職に尋ねると『貴方のものですから、好きにすれば、宜しいのでは・・』と、云われてしまった。

 

 住職には、少し考える時間を貰い、鹿児島市に赴き、東郷示現流宗家の東郷重政先生にお会いして、父の他界を御報告させて頂いた。

 

 父方【溝口・薬丸・瀬戸口】と東郷家は、歴代に亘る確執があったが、その確執を解消する事も私の代の責務であると教えられてきたからである。

 

 その兄弟子は、鹿児島県鹿児島市に生きていた。

 

 関口龍吉と云い、天眞正自源流兵法第26代溝口玄心の一番弟子であり、父より5歳上の当時66歳の血気盛んな老人であった。

 

 

 父の死を伝えると、『そっか、まさば~死によったが・・』と黙ってしまい、ふと、私を見ると『よく・・似て居るがな、ノオ・・』と言った。

 

 龍吉先生は、怖くて気さくなお人柄で、稽古ともなれば、容赦ないのは父と同じであり、父と同じ雰囲気と匂いを漂わせている不思議な人であった。

 

 その後、龍吉先生が御他界されるまでの約18年間、師弟のご縁を頂き、父亡き後の父の如く、天眞正自源流兵法の集大成をこの関口龍吉恩師より教わった。

 

 勿論、相伝書の解析などもご教示を頂き、その博識と流儀の神髄をご教示頂いた・・我が人生・・真の第二の恩師である。

 

 大学生活は、高校と同じ様にアルバイトと剣道部、そして、空手・合気道・・の武道三昧となったが、ある日突然・・人生の目的を失い・挫折・・大学3年の終わりに退学届けを提出した。

 

 

 その現実は、誰のせいでもなく、友人・恩師・剣友・母にも・・皆に止められたが、自分自身の決断によるものであった。

 

 父を失い、剣道バカ・武道バカ・で突き進んだ結果・・人生の目的を失い、未来への希望を失い、何も考える事が出来なくなっていた時代であった。

 

 そして、迷いに迷った挙句・・龍吉恩師に相談したら大変な事になった。

 

 『この大バカチンが!!!!!』とどやされた挙句。

 

 『おまんが、自分の為に生きとるから、そうなる、一度死んでみたらよか、人の為に生きんで、どげんすか、この馬鹿ちんが・・』と怒つき回された。

 

 【人の為に生きる・・・???】

 

 その翌年、海外青年協力隊の一員として、イエメンに派遣され2年間のボランティア活動を行った。

 

 人の極限、生きる事の儚さ、悔しさ、悲しむ事さえ出来ない人もいる事を知り、涙が尽き果てる人がいて、本当の絶望のどん底にいる人の姿もあった。

 

 難民キャンプでは、死んだ母の内臓を食い散らかすハゲタカの傍で、泣き叫ぶ子供の姿も見た。

 

 生きる意味を失い、何もかも捨てて逃げて来て、死んだ子供を背負いながら、夢遊病者の様に歩く、避難民の母親の姿が、脳裏にこびりついている。

 

 己の甘さを知り、自分の人生を振り返った。

 

 たかが「挫折」・・目的を失ったなどという次元の甘さ、うぬぼれも甚だしい、先進国の日本人が、ボランティアなどという名目で、上から目線の愚か者に何が出来るのだ・・と。

 

 そして帰国、しばらくして、再び・・真剣を取った。

 

 父の弟子達が、天眞正自源流兵法の継承演武会を正式にしましょう・・という事になり、真剣を手に自源流兵法を再開した。

 

 

 以前とは、全く違う感覚がそこに存在していたが、その頃の自分には、それが何だったのか、理解する事は出来なかった。

 

 武術には、動性二境といわれる不思議な境地が存在する。

 

 

 スポーツでいう<メンタル>ではない、心と術の融合であり、心と肉体の均衡であり、内省感覚の平穏である。

 

 それは、理性や狂気でも無い、生死の狭間にある己の真実かもしれない。

 

 

 武術は、戦国時代に生まれ、速やかに、如何に、人を殺傷するかの・殺人術であって、その中でも真剣操法は、最も効率的に殺める技術が集約されている。

 

 故に人を殺さずの概念が生まれ、それが戦国武術の教えとなって「殺人刀、活人剣」の教義が生まれたのである。

 

 天眞正自源流兵法開祖、小瀬與左衛門尉長宗公の教えにある御流儀の神髄は【心和】であり、我心平穏と人和であり、決して争いを好むものではない。

 

 如何様にして、その境地に辿り着いたのかは、知る由もないが、動静二境に於ける心と肉体のバランスは、正に【心和】を根本義とするものである。

 

 

 決して争う事無く、常に【護動體】である事が日本伝統武術の本質である。

 

 天眞正自源流兵法《家秘一子相傳无目碌》の一節に【霊妙剣】の教えがある。

 

 人は【霊=魂】と【血=肉】の結晶であり、其の生を得た人生を・・如何に生きるかを【霊の妙】と説いたのである。

 

 即ち【霊妙剣】とは、剣の極意であり、人の極意でもあるが、そこには・・霊魂と肉体の因果関係なくして、生きる事も、死ぬ事も、人生そのものさえも、存在しえないという真実がある。

 

 天真正伝香取神道流の大竹利典健之先生は、神道流の極意を「平法」であると教示してくれた。

 

 

 

 善も、悪も、、時代・次第、世が平和なら、人を殺せば、法の裁きを受け、戦国の世なら、武勲となり、報奨を受ける愛国者となる。

 

 故に、サムライは【自法己裁】の精神を構築し、主君と民の為に、己の生命と人生を守護神として捧げたのである。

 

 武士だ、サムライだ、武士道だ、などと、言葉にするのは誰でも出来るが、その道を歩み、轍を残す事は、並大抵の努力で出来る事ではない。

 

 もの心が付いた時には、真剣を使い、流儀の神寶となる・・抜刀納刀を自在にこなす自分が居た。

 

 残る人生に【一日一生】をかけて、その日に出来る修行を呼吸尽きるまで、駆け抜けたいと願う。

 

 

 私の命を育み 

 

 人生の糧となる道を与え 

 

 愛と真心で歩む事を教えてくれた 

 

 

 天眞正自源流兵法第27代、13世宗家 

 

   我が父、上野靖之源心師父に・・。 

 

 

 父亡き後、我が人生の指針となり、

 

 流儀の神髄を教えてくれた偉大なる恩師 

 

  我が第二の父、関口龍吉恩師に・・。  

 

 

  残る人生を( 心和仁愛 )貫き通し

 

 天眞正自源流兵法一門會の同志一門と歩み続けます。 

 

 心からの感謝を込めて、有難う御座います。

 

 

 

 

 

令和4年12月30日