ニーチェの「神は死んだ。私たちが殺したのだ。」という言葉は有名ですよね。ツァラトゥストラはかく語りきの一文で科学が進歩して今までの拠り所のキリスト教の神は価値がなくなってしまったというのが背景にあるのですが、問題としたいのはその後の「超人思想」というものを打ち上げたこと。

いわば己が光たれという高説と言えるようなものなのですが、

ここで自分が思ったのは「神を否定し虚無主義を唱えつつも、その先に超人という新たな神を設定してはいないか」、です。


ちょっと前置きが長くなりましたが、ニーチェ自身もこの世に絶対的真理はないとしながらも真理的な「心の楔」みたいな思想を打ち立てるという自己言及のパラドックスじみたものになっているなと。


ですがそれが絶対悪的な扱いにしたいわけではないんです。むしろそれが行動出来るパワーとして現実の某かに作用するポテンシャルがあるわけですから。

それでも心の楔がない状態で前進する力というものがこの世にあるのか知らと思うわけです。


話の流れ的に察してもいると思いますが、私はこういう前進するための楔が欠けてるかどこかに紛失したかしたのだと思います。

というか楔という物の品質を信じられなくなってると言った方が近いのかもしれません。

どんなに高潔な人物の楔であろうと通り魔のナイフから身体を守ってくれる防御力はない、コロナ禍で人生が狂わないようにする呪符のような力はない、いやそれらさえ持ち出さずともそのような守りの力はない。そんなケースを知らぬ内に聞きすぎたからでしょうか。


案外神に代わってしまった寄る辺はひょっとしたら「そんな保証はないが保証があるかのように扱うべし」って側面があって、自閉症的な性格には想像よりも扱いというか付き合いがべらぼうに難しいという気さえしてきますね。


もう少し言葉を尽くせば何か見えてきそうなんですが今の自分では尽くせば尽くすほど脱線してしまいそうなので今回はこの辺で