これは、主観と客観の違いになるので取り上げるつもりは無かったのだが、御要望のメールも頂いたので検証可能な物について検証する事にする。


まずはこれ。

http://www.youtube.com/watch?v=FwT1TxSWcmQ&feature=related


タイトルは「幅寄せを仕掛けてくるBMW」

画像から読み取れる事がある。


それは、撮影アングルから見た白線の位置、それでこの車の走行ラインが読み取れる。

注目すべきはBMWに追いつく手前の白線の位置。


白線を基準にしてBMWの走行ラインを見ると、白線とBMWの間隔は一定であり、真っ直ぐ走っている。

逆にこの車は白線を踏んで走っているか、白線からはみ出して走っている。


白線の映り方から見ると、幅寄せしているのはこの車の方である。


その証拠に、追いつく直前に映っている映像でも、BMWはちゃんと白線の内側を走行しているのが映っている。


車や自転車を運転する時、顔を向けた方向にハンドルが動いてしまう。

自転車を運転しながら、右を振り向けば自然にハンドルは右に切られ、真っ直ぐ走る事は出来ない。


それは車でも同じ。

試しに、椅子に座りハンドルを持つ格好をして、右に振り向くと、若干だが左手は上に、右手は下に動こうとする。


普通の運転では横を見ていても、前を見直すときに修正されるが、運転しながらビデオ撮影に夢中になっていれば、運転が疎かになり自分から寄って行く事になるのは当然の事である。


次はこれ

http://www.youtube.com/watch?v=Z-wWoMKDmmY&feature=related


最初に「加害車両」と書いて走り去る車が映っている。

しかし、映像から読み取れる事は、路側帯の白線よりかなり車道側に進入して撮影している。

夜に、車道の中程でビデオを持って撮影して、轢かれそうになっている様に見える。


スーパーの店内で「俺のタイミングに合わせてレジの操作音」と書いてあるが、蛍の光が流れている所からすれば、閉店間際のレジ閉めの最中にこの人が入店しただけの話だろう。

レジ閉めは、どんなスーパーでも閉店間際や提示には毎日行なわれる物で、そのタイミングでこの人が入っただけだろう。


閉店間際のスーパーの店員を撮影しながらのレジ・・・

こんな事されてムッとしない奴はいないだろう。

自分がされたらどんな気持ちになるのか?

店員は、早く仕事を終わらせて帰りたいだろうに、レジを撮影して出て行かない奴がいればどう思うだろう。



次がこれ

http://www.youtube.com/watch?v=AVmbln6-48I&NR=1


まあ突っ込み所が満載なのだが、特に2つ目の映像に注目しよう。

二つ目の映像のタイトルは「長時間の待ち伏せ ストリートシアター」と書いてある。


そして「遠方に車が停車している」と言う文字。

そして一直線に車に向かって歩いて行く。

その歩数をざっと数えると110歩以上。

1歩80センチとして計算すると88m、撮影開始前から考えると100Mを超えている。


その100M先の停車している車にターゲットを絞り、自分から近付いて行っている。

こうした行為は、通常「探し求める」と言う。


また、自分に対して移動してくる相手であれば「自分に対して」と言う概念がが成り立つが、相手に対して自分が移動して行く場合は「自分に対して」と言う概念は成り立たない。

この映像のように、停止している相手に自分が移動して行くのであれば尚更である。


もしこの人が出歩かなくても、ゴミ収集車は作業するし、人々の生活活動はこの人とは関係なく行なわれている。

例えば、もしゴミ収集車がこの人の言うように犯人だとしたら、この人が出歩かなければゴミの収集活動は行なわれないと言う事になる。


そうなれば、町はゴミで溢れかえるだろう。

しかし、この人が出歩こうが出歩くまいが、ゴミは片付けられている。


それは、無関係の証でもある。




では次の動画を見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=0b0pFcqA7iQ&feature=related


この映像は実に面白い。

これが「認知」と言う物の違いだろう。


3つのカメラで映されている映像。

一つは室内、一つはベランダから向かいの駐車場、もう一台は別の駐車場に向けて撮影している。


室内にいる自分、駐車場で車に乗る隣人、家の近くを通りかかる車、そして通行する人。

それを、気分の「行動に合わせてと」認知しているか、無関係に動いていると認知しているかで意見の違いを見るのだろう。


まあ、それをどう認知するかは人それぞれ、それに付いてどうこう言うつもりは無い・・・但し誰にも迷惑をかけなければが前提だが。


ただ、この人の言う「加害行為」の無い世界を考えてみよう。

この人が、この映像のように2台もカメラを近所に向けて撮影し、自分の行動に合わせて誰かが何かをする事が「嫌がらせ」なら、この人の視界にいるご近所の人は身動き一つ、物音一つ出してはいけないと言う事になる。

何故なら、人間は動物であり動く生き物であり、この人とは関係なく必ず生活活動をしている。

この人が何かをした時に、誰かが何かをしたり、視界に入る事が「加害行為」になるならば、「加害行為をしない」と言う事は、この人の視界に入らないと言う事しか有り得ない。

また、一旦視界に入ってしまえば、身動きする事が加害行為になってしまい、それは動くなと言う事になる。


もしこの人が、町中にカメラを設置すれば、町中の人は身動き一つ物音一つ出してはいけないと言う事になる。

それは、自分以外の存在を認めないと言う事でしかない。


この映像を、逆の視点から見て見よよう。

最初の「雨戸を開けた途端に、隣人がドアを閉めエンジン始動、発車する」が嫌がらせなら、相手側から見るとこの人は「車に乗ると雨戸を開けて嫌がらせをして来る隣人」でもあるのだ。


嫌がらせや加害行為を前提にした視点では、どちらの側から見ても加害行為になってしまう。

これが「他人を信じない」「他人を認めない」人の見え方になってしまうが、お互いが認め合い、お互いが許しあえば、この人の感じる「加害行為」なる物は存在しなくなる。

それが「人を信じる」と言う社会性の原点である。


では、この人の望む世界を作る方法を考えてみよう。


この人が何かをする時に、誰かが何かをすれば「加害行為」と見なされるならば、まず周囲の人が常にこの人の動向を知り、この人が何かをする時には隠れるか行動を止めなければならない。


その為には、皆が24時間この人を見続け、この人の動向に合わせて身を隠したり、この人のお気に召す行動を取らなければ「加害行為」なる物を無くす事は不可能なのだ。

その不可能な事を求めている。


そう、これがこの人の無意識の深層願望であり、世界観である。

それは「私を見て、私に関心を持って」と言う事に他ならない。


そして、私が「被害は願望の裏返し」と言う所以でもある。


こうした事を認知出来なければ、この人の言う「加害行為」なる物は消える事はない。

何故なら、地球に住んでいるのは自分一人ではないのだから・・・


そして、深層願望を知れば、更生プログラムを作る事も可能だ。


しかし、こうした認知は人に教えられた物ではなく、自ら気付き、自ら導きさした答えでなければ意味は無い。

サポートする人は、言い聞かせるのではなく、自ら答えを導き出せるように誘導するに留める事だ。

集団ストーカーやガスライティングと言う概念。

こうした言葉は、自分の願望を満たし、孤独から開放してくれる。

一人で悩んでいた事が、悩んでいるのは一人ではないと言う安堵感を与える。

被害者と言う立場になれば「同情」と言う注目を浴びる。

そして、同じ事で悩む人達が集まれば、自分の話を聞いてくれる。

それは、自分の願望が満たされる世界。


それは、こうした人達にとって麻薬に等しく、一度染まれば抜け出す事は容易ではなくなる。
しかし、麻薬は一時的な快楽を与えるだけで、麻薬を止められなければ悲惨な末路しか残されていない。





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