ヤキュハラなる言葉があるそうだ。野球おたくが野球に全く興味のない人に野球の話を聞くことを強要することとか。ハラスメントなる用語が登場したのはセクシャルハラスメントを起源とするようだが、パワハラなる新語が登場したときも仰天したし、アカハラなる言葉はアカペラと混同して何がいけないかと首をひねった。ハラスメントブームで創造された言葉を眺めると要するに不愉快なことに耳を塞ぐレッテルのような気がする。世の中、たしかに不愉快なことは多すぎるし、不愉快な言辞には耳を塞ぎたいのは人情だ。しかし、愉快な心地良い言葉ばかりを聞いて人生を送ることは幸せなのか。あるいは、愉快な言葉だけを聞く環境に身を置くことは果たして可能か。そのような状況が可能なのは裸の王様くらいであろう。人間、負荷をかけられてこそ成長する。むかしむかし、くそおもしろくもない老人の話をひたすら耐えながら聞いたが、何十年かを経て、苦痛だった話が珠玉に聞こえる。負荷がかかる状況をすべてハラスメントとかたづけるのはいかがなものか。心地良い状況に常に身を晒すと進歩もくそもないだろう。ヤキュハラなど客の自慢話にひたすらつきあい不条理なクレームやを聞く際の鍛錬にもなろう。クラブのホステスのようにくそおもしろくもない客の話題に合図地をうったり、あたかも興味があるかのように振るまうのは、ハラスメントを逆手にとった商売だ。そうか。ハラスメントは対価も得ていないのに不快な思いをさせられることに対するプロテストか。つねに人間行動に対価を求める昨今の風潮をここでも垣間見える気がする。