日本の成人の多くが民主主義を理解していない | JetClipper's Bar

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東京生まれですが、沖縄、多摩ニュータウン、横浜、尼崎、川崎を経て、三鷹市民になりました。

今朝の産経新聞の一面のコラムに古代ユダヤでは全会一致による決定は無効とする決まりがあったと、イザヤ・ベンダサン、つまり山本七平氏が「日本人とユダヤ人」という著書で紹介していたという話が出ていた。全会一致は全員が誤りを犯している可能性があり、それを検証できないからだそうだ。
産経新聞ではその後に北朝鮮の選挙の話に展開していくが、私の思考が別の方に進んだので今まで考えていた事を含めて書いてみようと思う。

民主制ないし民主主義といわれるものは古代ギリシャや古代ローマ等でも採用されていた統治システムであり、かのサー・ウィンストン・チャーチルも「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」という位、多くの欠点を内包しながらも人類はこれより良い政治形態を発見する事が出来ないでいる。

民主制を支えるのは多数決による決定を原則として、その前に多様な意見を持つ者同士の譲り合いや理性ある対話というプロセスを必要とし、多数決によって意思決定されたことにはたとえ反対であっても従う、というのがルールとしている事が基本中の基本である。
つまりポイントは
①意思決定は多数決によって決定
②多数決前に理性的な対話に基づく多様な意見の調整を行う
③多数決で決定された事はたとえ決定に反対しても従う
ということだ。

勿論、難しくしていけば、普通選挙で公正・公平な選挙が行われるとか、その為に表現の自由や結社の自由が認められなければならないとか、立法・行政のプロセスを公開するとか、健全に報道するマスコミの存在とかまあ、色々な条件がつくだろうけど、基本的には上記の3つがなければ民主制とは言えない。

つくづく思うのだが日本の義務教育でこの原理原則をきちんと教えていないのではないかと。
多数決は少数派の意見を無視する暴挙だとか、少数派の意見もちゃんと反映させよとか、理性的な議論ではなく感情論でしか議論しないとか、まあ、問題は右にも左にもある。マスコミもこの原則を忘れている節がある。

多くの日本の成人は①の多数決=民主主義だと思っていて、少数意見の尊重だとかそういう本来枝葉末節どころか原則にもなり得ないことを教えられてきていると思う。確かに多数によって少数を排除・排斥・差別するという行為は起こりえる。だから多数決の前に多様な意見の存在を認め、譲り合い、理性をもった対話を必要とするのだ。また③の多数決の決定にはたとえ反対でも従うという当たり前のことも教えられていない。中山成彬氏ではないけど、日本の教育を歪めてきた日教組に代表される左翼勢力の責任は万死に値すると私は考えている。

民主主義の原則も理解していない上に、まともに政治経済について考える事もせず、新聞すら読まず、組織の推薦する候補に無条件に投票するならまだましで、感情論で目先の事だけ考えて投票するという無責任な行為や恒常的に棄権するという日本国籍を剥奪してもいいのではと思うくらいの輩もいる。
結局、民主制が維持される為には、投票権をもつ国民がある一定以上の知的教育を受け、知的水準に達して、ある程度の長期的な視点で理性を持った投票行動をする国民が大多数であるという事が絶対条件だろう。残念ながら日本は民主主義という言葉だけが独り歩きして、それを維持し守り継承するという重要な事を疎かにして、国民の知的水準を高めるという事を忘れているのではないだろうか。

そういう努力を怠ると民主制は堕落し、最悪の独裁政治を生み出す。ヒトラーにしても、カエサルにしても、アウグストゥスにしても、民主制のプロセスを通過して独裁者になっている。カエサルやアウグストゥスはまあましな独裁者だからよいとしても、ヒトラー等の独裁者を生み出したのは少なくとも一義的には国民の責任だ。

傑作なのは会社の取締役会。
あれも一応民主制の仕組みで動いているのだが、取締役にとって都合の悪い話が上がってきた時に、「その話を聞きたくなかった。」という御仁がいたり、「私はこの議案に反対だったから従わない。」と平気で言う御仁がいるとも聞く。反対だったと議事録に記録されても間違った決定をしていれば、取締役としての責任はもしかすると軽減されるかもしれないけど、必ず存在して、株主代表訴訟の損害賠償を求められる被告になる。

先日のブログでも書いたが、やはり日本を建て直すには成人以上の再教育も必要なのではないだろうか。子供達の教育だけでは不十分。それを育てる親やその上の世代を含めて再教育しないと、まともに民主主義も機能しない。

忙しいから、という理由だけで新聞すら読まない、今問題になっている事について意見を持たない、決められた法律を知らない、というのは自ら選択して貧困の道に進むのに等しい。少なくとも自分は中流・中流以上だと人様に主張するのならば最低限、論理的に理性的に意見を述べられるように、新聞を読み、その法律を知らなかったという事がないようにするべきだ。

私が年金問題について一種冷淡なのも、法律で定められた事を知らなかったという人まで保護しなければならないという事がおかしいと思うからだ。
何度も言うようだが、少なくとも義務教育を終えればそれくらいの最低限の法律や政治経済の仕組みを理解し、よき国民であるように努力できる人になっているようにならなくては意味がない。それが出来ない義務教育なら今すぐ改革しなければならない。

また、新聞も読まない、考えない、理性と論理を持たない、感情的な決定や扇動に惑わさせるような人に選挙権を与えない為に何らかのテストを義務化したほうが良いのではないかという考えも浮かんでしまう。
思考停止や知的怠惰は社会人としては本来恥ずべき行為だと認識してもらいたいくらいだ。