最近、小さい頃から通ってきた教会を離れて違う教会へ通い出した。
なんとこんな世界があったとは、、、!!!
衝撃すぎて。
返せよ。
あの尽くした時間、労力、金銭、心血を注いできたのに。
ここには対等さ、自由さ、選択の自由、楽しさ、平等、愛が溢れている。
こういうのが欲しかった。
ずっと求めてきたのに!
なんで神様は初めから良いものをくださらなかったのだ。
ヒエラルキーなんてない場所がよかった。
上であれ下であれどちらにとってもいいことない。
まずコミニュケーションが全然違う。
発する言葉の純度(作っていないありのまま感)、言葉のチョイス、すごすぎて泣く。
メッセージや賛美の至る所に神様の愛を感じてまた泣く。
神様と私の間に教会が挟まらない。
なんか、、、モラハラ夫から逃げてきた気分。
でも久々に以前の教会に行ってみたときに思った。
ああ、愛されてなかったわけじゃない。
これがこの人の精一杯なんだ。
この人が家庭で受けてきた「愛」での理解を、ここで実行しているだけのこと。この人の築いた家庭もまたその「愛」なのだろう。
その「愛」を受けて育ったお子さんたちは自己肯定感が低いように見える。
解放を祈らずにいられない。
本物の愛を受けてほしい。そしたら人に流せるから。教えることができるから。
新しい教会では、言ってることとやってることの一致してる感じがあって、一貫性や本物さも感じる。
そしてこうなりたいと願った。
やはり口に出さなくても非言語でのメッセージってすごく肌から吸収されている。
怠け者は悪、とかね。
うっすらみんなに浸透して、みんなうっすら苦しい。
続く