僕の日記

僕の日記

イエス様が大好きな中島豊です。
神様に教えられている聖書の御言葉と
神様のみわざを綴っていけたらと願っています。



毎週土曜日は、関西聖書学院KBIで「集会実習」という授業がある。

それは、礼拝を想定したメッセージ、司会、祈り、朗読などの奉仕があり、

学生、先生から批評されるという授業だ。

 

毎回、この授業で教えられることがあるのだが、今日は、メッセンジャーの語っていたみことばに心触れられた。

 

それは、ホセア6:1-6。

 

私たちは御前に生きる。

私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。

主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。

地を潤す、後の雨のように。6:2,3

 

わたしが喜びとするのは真実の愛。

いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。6:6

 

豊かな、雨が降る。

そのために、主の御前に生き、主を知ることを切に求める必要がある。

地を潤していくのちの雨…。

神様は私たちにご自身をさらに開示してくださる。

さらに、さらに深く。

 

今朝、起きてカーテンを開けると、眩い朝日が、冷たい空気を切り裂き、

眠たいまなこを覚まし、心を温めてくれた。

そして、大雨の土砂降りの日のように、マジで主は来るんだ。

潤す雨は、植物を成長させるように僕達を成長させる。

まじでめっちゃ成長させてくださる。

 

それは、僕らが、主といることを喜び、

主の話をよく聞き、主ご自身を求めて歩む時に起こる化学変化だ。

 

言い換えるなら、主とデートすること。

 

この箇所を思い巡らす中で、主を知ることを切に求めて生きていきたいって思った。

そうするなら、主は力強くご自身を表してくださるんだって。

神様は、僕達のいろんな捧げ物よりも、ただ、神様ご自身を知ってほしいって思ってる。

 

そんなことを思わされて、午後マクドで主と過ごした。

心を注いで祈り、聖霊様の御声に心の耳をかっぽじって、書き出して。

みことばを開きつつ、聖霊様の御声を聞くひととき。

それは、大きな力と平安を与えてくれた。

 

夜、布団の上でケータイを開いてSNSを開いた。

だけど、なんか自分が主の御前にさらに生きることを主が願っている気がして。

聖霊様に押し出されて夜道に飛び出した。

 

祈る中で、なぜか、主の臨在の奥深くにいけない気がして。

なぜかなって思って、とりあえず異言で祈り始めた。

異言で祈り始めると、自分の霊が燃やされていく。

家族、教会、地域、日本、世界、関わっているコミニティーや働きのために

色々な祈りへと導かれて、家に帰る頃には心が燃やされた。

 

主のために生きていきたい、何かしないではいられない!という

フレッシュな、聖霊様の喜びと情熱がメラメラと心に燃え上がった。

 

主を知りたい。。。

 

それを求めて、祈り、みことばを開き、聖霊様の声に心を開いていく時、

主はご自身をさらに示してくださる。祈りの中で、細い御声をもって

語りかけ、強め、励まし、新しい力をくださり、聖霊に満ち溢れさせてくださる。

喜びの霊が、知恵と悟りの霊。力と愛と慎みの霊が溢れ出す。

いのちの泉が、心の奥底から泉のように湧き溢れる。

 

ますます、聖霊様に燃やされ、熱く、熱く、主を愛し、隣人を愛し、

主にどこまでも喜び持って仕え、ついていけますように!

このブログを読んでくださる全ての方に、聖霊様の愛と恵みが豊かに豊かに

満ち溢れますように!イエスの御名で祈ります。アーメン。

 

 

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、

 生ける水の川が流れ出るようになります。」ヨハネ7:37,38

 

「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。

 私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、

 再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、

 力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」第二テモテ1:6,7

 

「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」

 第一コリント14:4

 

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」ローマ12:11,12

 

 「ああ、主を知りたい。 さらに主を求めよう。 そうすれば、必ず夜明けが訪れ、 早春の雨期がくるように、必ず答えてくださる。』 


いけにえはいらない。 わたしを愛してほしいのだ。 ささげ物もいらない。 わたしを知ってほしいのだ。」ホセア書‬ ‭6‬:‭3‬, ‭6‬ ‭リビングバイブル

 

 

 

 

 

 

先日、ある友人と過ごした。

彼は、ドイツにあるASMという神学校で学び、日本に帰ってきて関西に住んでいた。

出逢ったのは千葉に住んでいた時で、賛美集会GLORYを始めた頃だった。

メンバーの紹介で出会った彼の名は、りゅうまくん。約3年ぶりの再会だ。

彼は医師となるために勉強をしていたが、キリストの愛に出会い、

医師の道ではなく宣教師として生きる決断をして、ドイツにある神学校に行くことにしたのだ。

また、そのASMという神学校はできたばかりで、聖霊様の働きを歓迎し、

信仰に燃やされ用いられている世界的なリーダーたちが講師として教えている学校だった。

彼はドイツに1年以上滞在し、訓練を受けてきた。

そんな彼が、関西にいることを知り、ぜひ、ドイツでどのようなことを主から教えられたのかを聞いてみたいと思ってアポを取った。

 

難波駅で待ち合わせて、グリコの側にあるベトナム料理店で、

美味しいフォーを啜りながら、彼の歩んできた歩みを聞いた。

 

 





この日、彼から学んだことは本当に大きかった。

彼がASMというドイツの聖霊様バリバリの神学校に通っていたことを聞いていて、すごく気になっていた。僕も英語を学びたくて、そこに行って聖霊の働きを学んでみたいという思いがあった時期もあったからだった。ASMという学校は路傍伝道を毎日しているようなベンさんという方を主が用いられて、スタジアムイベントを開催した。そして、ASMという神学校までできたらしい。しかし彼の話を聞くと、スタジアムイベントには限界があることを教えてくれた。

確かに沢山の人が集められ救われる、しかしその後、イエス様の弟子として繋がるためのフォローができていないことを聞いた。「教会に繋がってください」、と救われた信者を教会に紹介して、終わるらしい。僕はスタジアムイベントに憧れていた。

今でも憧れているし、日本中のスタジアム、世界中のスタジアムで賛美集会をしたいと願い、祈っている。

しかし、スタジアムイベントだけではいけないことを学んだ。

大切なのは、キリストの弟子を育てることだと教えられた。

 

りょうまくんがドイツで滞在した、ホストファミリー老夫婦との関係の中で、

愛を受け過去の傷が癒やされていった話を話してくれた。

そして、彼は家の教会のような愛の交わり、小さなコミニティーを通して主のために仕えていきたいという話をしてくれて、本当に励まされた。

そして、弟子訓練の重要性について改めて教えられた。

 

振り返ると僕自身も、神の愛で愛してくださった信仰の父親的なメンターの存在によって神の愛を知り、主のために生きる者へ変えられていった。

大切なのは、関係性であるという結論に至った。

 

救われた人が、真に主の弟子となるためには、一対一の個人的な交わりが、

継続的な励ましと祈りを伴う関係性が必要不可欠だと思う。

このことは、イエス様が実践された弟子訓練にも共通している。

 

この学びは今後の人生でも大切な学びになるだろう。

伝道は急務。しかし、弟子訓練も急務なのだ。

そして弟子訓練とは、イエスさまに倣い、その人を愛し尽くすことに尽きる。

 

『世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。』ヨハネ13:1

 

彼の話でアメリカで主に用いられているJesus Imageの

Michael Koulianosの話が本当に好きだったと話してくれた。

彼は、牧師であったが、パッとしなかったらしい。

小さな教会だった。でも色々な人に助言を求め、主の臨在をひたすら求めることにしたというのだ。火曜日は朝8時から17時までひたすら主の臨在を求め、祈り、賛美し、聖書を読んだらしい。すると、人が集まり、今のようなJesus imageに成長したらしい。

その話を聞いて、主の臨在を求めることが本当に大切なのだと教えられた。

そしてこれから主の臨在を求めていこうと思った。

聖霊様あなたによって主の臨在をますます求める者としてください。

イエスの御名で祈りますアーメン。

 

『一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。

 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思い巡らすために。』詩篇27:4

 

 

また、大きな大会でのAwakening Europeでのインタビューで、Michael Koulianosが

「教会の中心がイエス様ではなく、イエス様が教会のすべてです」と、話していたらしい。

その言葉を聞き、すごく励まされた。

教会の真ん中だけがイエス様ではなく、

教会のどこをとっても、イエス様が満ちている…。

世界中のすべての教会が、イエス様がすべてである教会へと変えられていきますように。

イエス様をただ求めていかせてください。イエスの御名で祈りますアーメン。

 

『教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が

 満ちておられるところです。』エペソ1:23

 

Jesus image -Yeshua

この曲、祈る時とかに凄く良い。


 ポッドキャスト 

最近聞いて、恵まれている。

英語の勉強にもなるのでおすすめ✨




 

 

 

 

 

 

7/20-28にかけて関東を回り、福音を伝えつつ休暇の時を持っている。
この旅に行く前に、神様に「この旅で何をしたいですか?」と祈り求めた時に浮かんできたイメージが、松戸駅だった。
ここで伝道するように、との想いが与えられて今日、JR松戸駅へ行った。
灼熱の暑さ。気温は36度。
湿度もかなりあって、賛美を始めると汗が滝のように流れた。

大学時代、奉仕神学生として千葉県千葉市にある千葉栄光教会という韓国人教会で1年間仕えていた。その時に、伝道師でお世話になった斉田先生が今は松戸で牧師をしているので連絡すると来て下さった。娘さんと、さらに教会の方4人。でみんなで7人。そのうち子どもが3人で。


一緒に賛美して、興関心を示してくれている人に津田梅子の伝道トラクトと教会案内を渡した。

暑すぎて、1時間はもたなかったけれど、本当に良い時間だった。
路傍で主を賛美していると、イエス様が笑顔で喜んで下さっていることを強く感じる。霊の目でイエス様が喜んでいるのを肌で感じる。イエス様は私たちの存在をいつも喜んで下さっている。
しかし、福音を伝える時に、イエス様は本当に本当に喜ばれているのだと思う。
命をかけて十字架で示されたその愛を届ける手段として、主は私たちを選ばれた。その愛を届ける管として生きる時に、僕も嬉しくなる。

主はどれほど私たちの存在を喜んでおられるのだろうか。このみことばが、
神の私たちへの愛を鮮やかに語っている。

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」ゼパニヤ3:17



主が大いに喜び、私に歌っておられるという真理を聖霊により悟ることは、

どれだけ大きな平安を与えるだろうか。


伝道後に手を置いて祈ってくださった。



祈っていただけるのは本当に嬉しい。
愛する神の家族の存在が、僕の喜びだ。

夕食時に斉田先生と交わっている中で、自分の今抱えてる葛藤を分かち合った。
その葛藤とは、やるべきタスクをこなし、祈りの時間もやるべきことの知恵を求めたりしていて、神様ご自身を喜ぶというより、やらなきゃいけない事のように祈りとみことばの時間がなっている事だった。始めの愛に戻って生きたい。

また、熱く祈り込めない時、どうすれば良いのか、という事も悩んでいた。

彼と話す中で、みことばに自分はどのように向き合っているのか。ということを問われた。みことばこそ力の源であり、
新しい力を与えるものである、と。
祈りも、みことばがあってこそ、祈れるということ。

その話を聞きながら、自分のみことばへの向き合い方が過去の自分よりも冷めているなと思った。時間的にもみことばに向き合う時間は短くなり、期待感も薄れている自分にハッとさせられた。

この暗いトンネルの解決は、みことばへの飢え渇きが鍵なのかもしれない、と思った。

夜、スタバに行き聖書を開いた。
聖霊様に教えて下さいと新鮮な気持ちで求めつつ、第一テモテの手紙を開いて読んだ。

特に励まされたのが、第一テモテ1:14。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。



主の恵み、主の御心を行う恵み…。。
それは、信仰と愛によって溢れ出す。

主の満ち溢れる恵みの中を生きたいなら、信仰と愛が必要だ。


信仰とは、神の言葉を聞くことから始まり、実践すること。
愛とは、祈り、相手を思いやり、行動で伝えること。

そのような生き方に励む者であらせてくださいと祈らされた。

そしてもう一つ励まされたのが、第一テモテ1:18。

私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。



預言が、信仰と健全な良心を保つ。
そして、立派に戦い抜ける。
自分に今まで与えられてきた預言を思い巡らしてみた。
パソコンを開き、過去の預言をまとめて見た。それを読む中で、励まされ、自分の使命と神様の計画に励まされた。

預言を握りしめて立派に戦い抜く。
これから預言データを印刷して、常に持ち歩き神様の約束に心をグリップして、勇敢に、立派に信仰の戦いを戦って生きたい。

私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。第二テモテ4:7



主よ、立派に勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したパウロのように私も、私たちもそう歩ませてください。イエスの御名で祈りますアーメン。


みことばばで励まされ、力を受けた。

やっぱり、みことばは素晴らしい。

みことばなるイエス様。

すべての力はここから湧く。

今日、奈良福音教会のACTSという名の祈祷会に参加した。夜の19時半から21時までひたすら賛美と合間に祈りの時間。御霊に導かれるまま祈り、賛美した。その賛美と祈りの中でとても深い主の臨在へと導かれた。主の御前で素直に祈った。「最近、祈りたいけど熱く祈れてなくてごめんなさい」って。

最近、あまりにも暑いというのを言い訳にして散歩して人々のために熱くとりなす祈りをサボリ気味だった。そして霊的な活力が奪われている感覚があった。夏バテかなと思っていたけれど、

どうも活力が出なくて、昨日の日記には、

神様に霊的な熱さがない事を告白して謝って眠っていた。

しかし今日、その祈り会の中で素直に神様に、熱く祈れないのですが…。と話すと、「それはあなたがするのではないよ、わたしの恵みによって、聖霊によって熱く祈れるのだ」と励ましてくれた。「祈らない弱さもわたしに委ねなさい。わたしの恵みよって、聖霊により祈りなさい」

異言で祈ることにした。

すると、自分の心の奥底から活力が湧き上がる感覚があった。

そして、今週休んでいた、

みことばを語ること、証しをすること、賛美をすることを主が再開するようにと、そしてみことばによってそれを行うことが主の御心であると励まして下さった。

主の御心通りに歩めるように聖霊様お助けください…。


賛美が終わると牧師の緒方先生がみことばを分かち合ってくださった。分かち合われたのがイザヤ62:1,6,7


シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために沈黙はしない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。「エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、彼らは、一時も黙っていてはならない。

思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、休んではならない。主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとするまで。」イザヤ書 62:1,6,7


特に、「主を休ませてはならない」という箇所がフォーカスして語られた。主を休ませ無いほどに祈っているだろうか。主を休ませて、自分が眠っていないだろうか。

熱く、主を休ませ無いほどに熱心に祈っていきたい‼︎と思った。


参照聖句のルカの箇所も開くとこうあった。


まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」ルカの福音書 18:7,8


昼も夜も神に叫び求める者達…。

そのような者となることを、神様は私に期待している。

そして信仰を持って生きる事を期待しておられる…。


昼も夜も、神に叫び求める」。

その熱心さ、その聖霊の炎をわたしに注いでください!


集会後、家に着いて

祈りに行くか、家に留まるか迷った。

そして聖霊様に尋ねた。

「今祈りに行きますか?」「ゆたか、祈りに来て欲しい」「でも行きたく無いです」「行きたくなければ行かなくてもいよ。でも、本当に私について来たいなら、祈りに来なさい」

神様はいつも選ばせてくれる。

主についていくか行かないかは、僕の選択だ。

でも、こう言われるとどうしてもついて行きたくなる。自分の力で頑張って主についていくことはできないから、聖霊様にお願いする。

「聖霊様、祈りに行けるようお助けください」

そうすると力がみなぎって来て、外に飛び出した。


アップルミュージックで激アツ賛美のプレイリストを流して、祈りながら夜道を歩く。

夜は気温が下がってて、気持ちよかった。

何より、聖霊によって祈りの深みに入る中で、

霊が解放され、主の圧倒的な平安と喜びが心を満たした。


なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

ローマ人への手紙 14:17


聖霊様による義と、主との平和、

主の喜びが心に溢れた。

神の国が私の心を支配し、御霊による力強い祈りの中で、神の国が前進していく確信と

言葉にならない平安に包まれて帰宅。


祈りはやはり素晴らしい。

今も生きておられる神様と直接繋がって、

祈りを通して神様の御心が前進していく。。


ますます聖霊に燃やされて祈っていきたい。

聖霊の炎、祈りの炎に燃やされて、

ますます熱く主の御心を祈っていけますように‼︎


神よ 沈黙していないでください。

黙っていないでください。

神よ 黙り続けないでください。

詩篇 83:1


神よ!沈黙していないでください!

黙っていないでください!!

と叫んだダビデの祈り。

同じように、主に叫び求め、

主の御心が力強く成されるように、

祈っていけますように!

聖霊様、私に、

今このブログを読んで下さっている

すべての人に、聖霊様あなたの炎を、

祈りの炎を注いでください!

聖霊に燃やされてあなたの御心をますます熱く 祈る者としてください!

イエスの御名で祈りますアーメン!


シャローム!🕊✨❤️‍🔥


兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。ローマ人への手紙 15:30

 

KBIの図書室。今、生駒を一望できる街を見つめながら。

楽しそうに話し合っている学生を横目に。

パソコンを前にして、書き出している。

 

 

どうしても書いていかなきゃいけないという、僕を駆り立てる思い。

なぜ、このように文章を書くことを駆り立てられているかといえば、

「あなたの考えていることは大切なことだ、あなたの感じていることは大切なことだ」と教えられたからだろう。

先ほど、近藤由美先生の「読書会」という授業を受ける中で、

自分に与えられている五感を用いて活用していく必要性について分かち合われていた。

見ること。聴くこと。嗅ぐこと。話すこと。肌で感じること。

人には、神様から与えられている賜物があって、その一つが五感である、と。

 

「自分は感じて良い。それは私。他の人と違うことを考えても良い。」

 

この言葉を聞き、みんなユニークで、自分が考えることはみんなと違うんだと思った。

 

「自分の感じたことを表現し、言い表すことに恐れを感じてしまう。

 人を通して、神の言葉が伝えられていく。その人じゃないと伝えれない神の性質がある。」

 

自分が感じたことを表現する時、僕も恐れを感じることがある。

でも、語らなければ、神様の素晴らしさは人々の心に届かないのだ、と教えられた。

 

「今日、私はなにを感じているのだろうか?」

 

僕が感じていること、それは、学んでいることを「言語化して伝えていきたい!」ということだった。そのことばを通して、人々が神様の素晴らしさを知って欲しい…!と。

 

「応答するのは、自分の全存在を使わないとできない」

 

もし、僕が人々に伝えていこうと思うなら、僕の全存在を使っていく必要がある。

「生きる」とはそういうことだ。

 

「見て、悟ること。聴いて応答すること。」

 

今、自分が見ていること。聴いていること。悟ったこと、それに応答して生きたい。

 

「皆さんは、どれくらい自分が思っていることを言葉化する力があると思いますか?」

 

僕には、言葉化するチャレンジが必要だ。

インプットするだけじゃなく、アウトプットしていこう。

それによって、さらに自分自身が学ぶことができ、恵みを分かち合うことができる。

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ1:1

 

神様は、言葉であった。

そして、言葉によって、世界は造られた。

ことばという賜物を人間は受けている。

 

僕は、最近、様々なことを考え、様々なことを感じている。

また、自分の日記を毎晩書いている。しかし、最近は開示していなかった。

それはなぜか。

その最たる原因は、人からの評価、人からどう見られるのかという恐れからくるものだった。

もうひとつの理由は、時間がかかること。

 

しかし、たとえ、恥をかいても、人からどのような評価を受けたとしても、時間がかかっても、

言葉を紡いでいかなければ、人の心に届くことはない。

そして、今、僕が感じて、主から教えられていることが、

このブログを読んでくださる方の心に届き、励ましとなることを願っている。

 

言葉によって人は救われ、神の素晴らしさに出会う。

このブログという媒体を通して、言葉を紡いでいこうと思う。

 

神様が言葉で創造されたように、

僕も言葉を届けていきたい。

 

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

ヨハネ1:1