次の日は、稲佐の浜〜出雲大社へ。
朝、ホテルのフロントから見える美しい海
松の木や造作物が、邪魔だなぁ・・・
ホテルロビーの中央部の観葉植物や柵を撤去すれば、ここのホテルのイメージは一新する。
朝ごはんのバイキングにカニ🦀が出たのにはビックリ・・・時間がなかったので半身程度しか食べれませんでしたが・・・ずっと食べていたかったなぁ〜🤭
足立美術館がメインだった、今回の私の目的。
イヤイヤながら出雲大社へ行くことに。祖父母と一緒に旅行した50年ぶりの訪問。
どうやらこの浜の砂を取って、出雲大社で砂を交換するらしいです。
お宮のとこ下に何やら砂が置いてあります。
そこで交換するのですが、持って来た砂も一緒の場所ですから・・・うーん🧐
画像は、下記参照しています。
私には、ほぼ意味がない儀式ですが・・・取り敢えず、参加者のご多幸祈り🙏見守ることに。ここは、多分舞殿(神楽殿?)
これは、下り参道入り口にある『二の鳥居』
入ってすぐのところに2軒だけテント小屋のお店がありました。おばぁさんお二人が店番をされていましたが・・・何と丁寧な謙遜な対応でしょう・・・感動しました。
丁度欲しかった、竹製の調理ヘラ(本来は大量寿司用しゃもじ?)が売っていたので購入。おしゃもじは、夫と二人で京都の岩清水神社で買った以来・・・。
参道は、通れないらしい。
何だか、面白い造作物が・・・
なるほど・・・
一人であちらこちら見て回ったいたら・・・こんな建物が。千家国造館?永職館?千家って何?
えっ⁉️出雲大社教??
どうやら、二つに分かれた祭祀職が世襲制で棲み分けながら、出雲大社を運営しているそうです。
帰りのパーキング🅿️エリアで、生の花を見たら・・・ホッとして生きた心地がしました。生きてる・・・生かされている私達。
生きている物と、死んだ造作物・・・天と地ほどの違いがありますね。動かない『物』を神として崇めた日本古来の文化・・・
dan 5:23あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。
50年前の祖父母との旅行の際に買い求めた『黒柿のコースター』今でも売ってました。その時一緒に買い求めたお土産『弓浜絣の提灯手提げ袋』も共に現役で使っています。
『観光地でのお土産』って、使える物じゃ無いとね
飾る物は、要らない。物は使ってこそ命が宿る。
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それにしても日本人って、本当に宗教心の厚い方達が多いと思います。仏教やキリスト教、その他の八百万の神を信じ、子供と高齢者にはほとんどの人に『畏敬の念(謙遜)』があります。
ただ18才〜45歳くらいは、もう一人の自分(自我)に目覚め、自己の有能感(傲慢さ)で一杯になり『私が一番、私が正しい、私に従え』と内心思っています。
残念ながら、世の中はそんなに甘くはなく・・・40代後半頃から、自己の不完全さや未熟さに不安を感じ始めます。
そこから、自我を超えた、人間を超越した存在があるのでは無いか?と気付くのですが、なかなか本物と出会えません。
本気で『本物に出会いたい』と願えば、振り向くだけ(光の方を向くだけ)ですから必ず出会えるのですが・・・振り向くと虚勢を張って隠し通して生きてきた自分の本当の姿・・・誰も知らない愚かでどうしようも無い自分の本当の姿・・・を目の当たりにしてしまう事が判っているので、振り向けないのです😖
・・・で、どうするか?・・・何かをするDo。
お墓参り、参拝、お守り、言い伝えの儀式、他者や社会や仕事への奉仕etc・・・と次々と上塗りして、立派な衣装に包まれる訳です。
社会からも、他者からも、家族からも立派に見えるかもしれません・・・でも自分だけは気付いています。本質は何も変わっていない事を。
それでも、立派に社会に貢献し、家族をこの世に送り出し、慎ましやかに地域で生きて行く・・・もうそれだけで、神様は最大限の拍手を送って下さると思います。
何も出来無かった人も、多くの事をやり遂げた人も、依怙贔屓なく神様は拍手で迎えてくださるのですから・・・本当にありがたいなぁ・・・
出雲大社に参拝する皆様を見ながら、ここに来られた人も、来れなかった人も、キリストはそれらの全てを超えて、いつでも、どの国のどこの人であっても、一人も漏れなく祝福してくださっているのだなぁ・・・と感じました。
acts 17:23私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。acts 17:24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。acts 17:25また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。