さて 前回の記事『 原因 』を書き終えた段階で もうすでに自分の頭には なんの理屈もなく なぜか哲学者カントが漂いはじめた

最初それはただ単なる雑念とみていたが、考えてみると 因果律の話をしたわけで、いわば当然の結果として 関連してでてくる分野が西洋哲学だ

また同時にツィッター上での静寂の騎士マーギーのカントへの呼びかけが何故か頭をめぐるのだ(^^;) はぃはぃわかったでござる

そして 新時代の具体的な幕開けを願うなら 事はただ単に1個人の瞑想世界や幸福に酔いしれている場合ではない

やはり自分には片方でどうしても 瞑想者以外の要素が頭を駆け巡る カント哲学を吟味しているとすぐ次にでてくるのはドイツ観念論哲学だ

カント ⇒ ヘーゲル ⇒ ・・・ という流れこそ 現代の社会哲学の基礎であり 現代人の世界的社会合理性を無意識のうちに実現するのに一役かっていることは

疑いようのない真実だ

したがって自分は、これを徹底して再定義しないことには 真の新時代はありえないと思っている

さらに厳密にいえば カントは現代においても50%は先進的であり立派だ、自分が最もわけが悪い哲学者だとおもうのはズバリ それはヘーゲルである

https://youtu.be/y1NocHwnBXE

そしてその次に共産主義思想の基本となったマルクスといえるだろう また カントも残り50%はとても怪しい部分がある

まずは カント ⇒ ヘーゲル を徹底分析してことにあたりたいとおもっている

今 気づいたが この 西洋観念論哲学 でもっともわけの悪い流れというのは、実は同じ現象が宗教哲学でもこの日本で起きていた

それは、別に自分は仏教が全てを網羅している※とは全然思っていないが 仮にヴェーダ・ウパニシャッド的高度な流れをさらに洗練して社会に溶け込ませていった功績という点でいうなら 最も大きな流れであり その歴史は物語としてみても勉強になることは言うまでもない

(※自分は言葉で表現されている 永遠に続く「空」の定義をめぐり無意識の論争状態にある仏教は 哲学的には言葉遊びの机上の空論の産物と化していると思っている
そしてその言葉遊びの歴史~行事宗教~新興宗教となり果てている仏教にはさぼど値打ちを置いていない )

自分は過去に 密教が北伝と南伝にわかれ 空海ひとつ前の恵果阿闍梨で集合して さらに空海で完全に統合され完成形をみたというこの点に感銘を受けた

そして密教は日本でこそ 多いに花開き 脈動を開始したが その真意獲得が難しく即座に様々な宗派が出現し 超局所的に縮小していく憂目にあったわけだ
(事実真言密教の奥義というものはおそらくほんのわずかな人しか辿り着くことができないというのがそれを証明している)

そしてこの「分裂分派」の法則は 非常におかしなことに思想の劣化を生み出すはめになる なんといってもそのでかい1つが

民間庶民宗教としての 浄土宗 ⇒ 浄土真宗 という流れであり そこに そのあたりの 飲んべぇとさして変わりない低たらくな 他力本願でかつ人の可能性を最低レベルにまで落とし込んでしまった 女好きなただ単なる遊び人 のんべぇおっさん 親鸞の登場があげられる が

以前自分はこれが大嫌いで、このような教えをこの世から消滅させてやるとさえ思っていたが マハラジを知ることで これもまた宇宙の究極の実在の現れであり

全宇宙を因として出現した特定の「形」とみなすことで もはやそこまでの批判精神はなくなった

しかもなんと「火事」の後 自分達を救ってくれたのは、家系の行事宗教がこの浄土真宗の家々は多数あり、明らかにこれに救われた側面はでかい
よって今は以前のような敵視する気持ちは消え失せたが

それでも人は相性というものがあり 完全に他力本願を根底に掲げる宗派でかつ 人の内なる規律をほとんどなんでもありにしてしまう親鸞はあまり好きではない


なぜにこれらを 引き合いにだしたかといえば カント ⇒ ヘーゲル という流れは、人の厳密な意味での 思想 という範囲で

これら 真言密教 ⇒ 浄土真宗 という流れと ちょっとにているのだ 厳密性という意味で!

つまり真面目堅物の後には、ぐうたら がでてきてめちゃくちゃにして世に広めるというパターンだ

へんな話 自分という人間は、この両極端な性質をより極端にもっているからそれが嫌というほどわかるのだ 自分でもなぜこうなんだろう?とおもうほど両極端な相矛盾する性質が内面を占めている それは2重人格というものとは全く違うのである 完全に共存しているのだ

(^^; う~ん 確かにこれは難しいね そう! 全てのジャンルを超えて考えてみると なんで自分はこの相矛盾する両極端な2つの性質を平気でもっているのか?
これって この部分のみをみれば 自己統一性がとれてないね そういえば今まできづかなかったな う~ん これはおかしなことに気づいたな
いや! でもさらにいうならば 誰でもそうだね 考えてみると、ただ自分は極端なほうだということだ

元へ!

つまり ヘーゲル という、おんさん は哲学のもつ 超厳密性 を 強欲な政治家や商売屋レベルに落とし込む のんべぇ哲学者であり 最悪のぐうたら社会思想を演出したのである

詳しくはいずれ記すことになるが、カント⇒ヘーゲル という認識プロセスにおいて ヘーゲルはもはや人の精神を凡庸な荒枠でしかとらえていないのだ

よってヘーゲルは、カントの意を受けてという解釈は確実におかしく 全く別な思想家・・・というよりただ単なる社会思想家である

なんといっても 精神をカントみたいに厳密にとらえず あれやこれや述べている つまりヘーゲルにおいてカントは完全に消えている

当然 ヘーゲルが カントを 最低レベルの 居酒屋談話に切り替えたわけだから その後でてくる哲学者 マルクスやハイデッガー サルトル などなど

厳密性ということでは、ちょっとどうどうめぐりをしているフシがある

よって カント ⇒ ヘーゲル という哲学史の流れを分析し それらがどのように経済学に響いていったのか? このあたりを徹底究明する必要がある

そうすることで 金で構築される社会が如何に粗雑であり真理を内包しない社会となるか?

また 人類を失望のどん底に叩き落とす これら社会価値の決めつけを徹底して再定義して 新しい社会価値を生み出すにはどうしたらいいか再定義が可能であり

それが成しえる 新しい価値基準により 我々は完全な 創造自然主義社会 を構築することができる

そして カントの残り50%や、ヘーゲルの粗雑極まりない哲学 を 禅やマハラジ級の宇宙因果律回転認識論で 徹底して紐解き

※ ”自然に反する最も自然 ”な 意識生命創造自然主義 を確立したいと思うのである

(※ 自然に反する最も自然 な というのは、言葉遊びの皮肉をいったまでであり、自分の中に芽生えている自然の転変をいっている
さらに詳しくいうなら 今まで全人類の社会流通政治経済は 自然淘汰の社会結果に継ぎ接ぎ「その場しのぎ」をする方法論のため完全にその限界を迎えている
それに対し それに気づきまくってきた社会意識は、自らを脱皮して 継ぎ接ぎではなく 社会をどこまでも自然に殉じて厳密に再定義した上で社会流通機構を生み出すことをいっている)

しかし それをするには、図書館でもいって カントとヘーベルをもう1度研究しなければならず とくに カントの残り50%を占める

区分けの重要性を説いている部分を徹底認識する必要があるため またしばらく ブログの "主流の流れ" を休まざるおえないとなる

それはあくまで 主流の部分であり 数個前の記事「 現象という流れ 」の終わりに挙げた項目 などは別だ

その他 日々感じることは多いため しばらくは、主流とは違うものを記すとする

https://twitter.com/hermitregion