「おバカ」考(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

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★今日のベビメタ

本日8月7日は、2010年、結成されたばかりのさくら学院が、第1回東京アイドルフェスティバル(TIF)@品川ステラボールに出演し、小学5年生の水野由結と菊地最愛が「転入」した日DEATH。

 

さて、あなたは、おバカタレントが好きですか?

最近は少し減ってきたようにも思うが、バラエティ番組やトーク番組には、必ず一人か二人、美男美女なのに常識がない、口の利き方がおかしいといった「おバカ」なタレントが出演している。

「おバカ」というテーマは、長年モヤモヤしてきたもので、ベビメタロスの憂さ晴らしに、ちょっと考えてみたい。

現在の日本のテレビ界において、「おバカ」は、「アイドル」やハーフモデル、若い男性俳優など、タレントを魅力的に見せるキャラクターのひとつとなっている。

2012年6月24日に放送された「新堂本兄弟」(フジテレビ)で、AKB48の「総監督」だった高橋みなみと、ももクロのリーダー百田夏菜子が、“Most BAKAアイドル”の座をかけて対決した抜き打ち漢字テストは、2010年代の“アイドル戦国時代”を彩る名シーンであった。

ちなみにこの対決では、10点満点中、高橋みなみ2点、百田夏菜子1点で、百田夏菜子がMost BAKAアイドルに輝いた。

現在トップアイドルの地位にいる乃木坂46の最新曲「ジコチューで行こう!」センターの齋藤飛鳥は、アンダー時代に「乃木坂ってどこ」のクイズで、「人間の体全体に網目のように広がるごく細い血管のことを何血管というでしょう」という問いに対して「焼肉!」と答え、それが不正解だとわかると「バーベキュー!バーベキュー!」と叫んだ。ほかの子が正解を出した後、「飛鳥ちゃん、何で焼肉だと思った?」という司会者の突っ込みに対して、「だって、網目っていってるから」と不満顔だった。

もっとも乃木坂46には和田まあやというモンスター級のおバカがおり、クイズになると常人には思いつかない珍解答を連発したあげく、最後は奇跡的に正解を出してオイシイところをかっさらっていくという得難いキャラクターを持っている。

BABYMETALのメンバーについても例外ではなく、さくら学院時代の学年末テストでは、中元すず香の「職人が力をこめてねったうどん」「少年よ、土地を抱け」「ハリーさん」「デロリアン」、水野由結の「パフパフ」「福田さん」、菊池最愛の「エラ呼吸」「7月4日は最愛のたんじょうび」などの珍解答を連発し、たまらない魅力を放っていた。

つまり、「おバカ」であることは、「アイドル」にとって、可愛さや純真さを表現する必須アイテムであるとさえいえる。

しかし、若く美しい女の子が「おバカ」であることが、プラスの意味を帯びたのは実はつい最近のことなのである。

今から13年前、2005年に「ヘキサゴンⅡクイズパレード」(日本テレビ)という番組が始まった。司会は島田紳助。

2002年にスタートした前身の「クイズ!ヘキサゴン」は、複雑な心理ゲームの要素があるクイズ番組だったが、「ヘキサゴンⅡクイズパレード」(2005年~)になると、司会の島田紳助が里田まい、木下優樹菜、スザンヌ、つるの剛士、野久保直樹、上地雄輔ら、無知をさらけ出す出演者の珍解答をイジることで人気を博し、島田プロデュースで、男性三人組の「羞恥心」も結成された。

それまでは、美男美女のタレントにとって、公共の電波で、学業成績が悪いこと、常識を知らないこと、無知であることが露見するのは、ある種のスキャンダルであり、「恥」だったからだ。

大衆芸能始まって以来、芸能人のキャラクターといえば「美男美女は当然賢い」、「お笑い芸人や不細工は当然バカ」という暗黙の了解があった。

しかし2005年以降の日本ではそれが見事に崩れ、「美男美女でもバカはバカ」、「語彙豊富で頭の回転が速くないとお笑い芸人は務まらない」といった価値観がテレビからお茶の間に浸透していった。

お茶の間の視聴者にとっては、「私でも知っている常識」を知らない、無知な美男美女は笑いの対象であり、だが憎めない、親しみやすく安心できるキャラクターになった。

「おバカキャラ」は人気者になるという新発見は、他のトーク番組、バラエティ番組にも波及し、2005年以降、日本列島に「おバカタレント」ブームが起こった。

芸能人に常識テストを課し、順位と得点を発表し、珍解答をイジルというフォーマットは、それ以前の2000年にスタートした「めちゃイケ」(フジテレビ)の抜き打ちテストが嚆矢であろう。

だが、同番組では2004年ごろまで、レギュラーメンバー、お笑い芸人およびフジ系列アナウンサーなどが出演者の中心であり、まだ人気モデルだった若槻千夏が出演して最下位になったのは2004年の第6回、同じくトップモデルの梨花が最下位になったのは2005年の第7回、「アイドル」であるAKB48の小嶋陽菜、秋元才加の出演は、実に2011年まで待たねばならない。

だから、やはり「おバカタレント」は「恥」ではなく、親しみやすい人気者という価値観が広まったのは、2005年の「ヘキサゴンⅡクイズパレード」以降なのである。

AKB48(2005年~)、ももクロ(2008年~)、さくら学院(2010年~)、乃木坂46(2011年~)などの多人数「アイドル」グループの結成は、そのトレンドの上にある。だから「おバカ」は、20世紀のアイドルと、21世紀の「アイドル」を区別する指標ともなる、プラスのコンセプト要素なのである。

しかし、ぼくの考えでは、「おバカ」をプラスに見る価値観は、近代社会の成り立ちを根底から覆す可能性を持っている。

近代社会とは、構成員=国民が政治や経済の主体として、法の下に平等な権利を持ち、その権利を行使して運営される社会のことである。

市場は、競争原理と自由な取引によってものの価格が決まる場所だし、国民は等しく投票権を持ち、公正な投票によって、国会や地方議会のメンバー、つまり法律の制定者を選ぶ。

そこでは、国民が情報や判断力を持ち、理性的に決断し、行動することが前提となっている。

それ以前の社会あるいは独裁国家では、王様ないし独裁者がすべての権力を握り、民衆は自分で判断することを禁じられ、命令に従うしかない。王様ないし独裁者にとっては国民が何も知らずバカな方が、都合が良いからである。

しかし、「法のもとに平等」な近代社会では、まず国民が、法律書に書いてあることを読み、理解してくれなくては成り立たない。すべての国民に投票権があるのだから、みんなが一定の常識を持ち、正しい判断を下す能力を持っていなくては、衆愚政治になってしまう。

近代民主主義国家にとって、国民がバカなのは、致命的なのである。そのために、近代国家では公教育制度があり、教育を受けることは国民の権利であり義務になっている。

しかし、世界有数の民主主義/資本主義/近代国家である日本では、2005年以降、73年前に日本がどの国と戦争したかも知らない「おバカ」が非難されることはなく、むしろ「カワイイ」ということになっている。

慌てて言っておくと、ぼくはそういう「おバカ」な「アイドル」を批判しているのではない。見ていて確かにカワイイのだし、「なんて馬鹿なんだ」と大笑いすることは、つらい毎日の清涼剤になり得る。

しかし、それはあくまで限定的な「テレビの中のこと」であって、現実社会で、例えば自分の娘が「おバカ」でいいかといえば、決してそうは思わない。社会人として、ちゃんとした常識を身につけさせ、判断力を育てるのは親の義務だと思う。

むしろ、「おバカ」とされたタレントが、その後成長してメジャーリーガーの奥さんになるとか、資格を取って女優になるとか、英語で6万人の観客を煽るようになった軌跡を称揚すべきなのであって、問題は「おバカ」をイジるフォーマットをいつまでも便利に使い続けようとするテレビプロデューサーやディレクターの志の低さや、それをカワイイと思ってしまうぼくら自身の心情にあるのではないか。

いったいぼくらは「おバカ」をどう考えればいいのか。

「おバカ」は、追求していくと、とんでもない深さと重みをもったテーマだった。

 

「おバカ」が人間社会にとって、どんな意味を持つかという問題が歴史上最初に現れたのは、約2400年前のギリシア・アテネだった。

西洋哲学の祖プラトンの師ソクラテスは、当時の有力な政治家や著名な弁論家、詩人、職人といった人々と対話を試み、「無知の知」というロジックで論破してしまい、彼らの代表者数名に告訴されてしまう。

裁判は、告発者とソクラテスが公開討論を行い、500人の民衆による投票という順で進み、30票差でソクラテスの有罪―死刑が確定してしまう。

日本人のぼくには、余りにもねばっこい議論で、ついていくのが大変なのだが、論点をまとめると次の通り。

 

<告発者側>

ソクラテスは、デルフォイの神託で「人間で一番賢い」と言われたことを鼻にかけ、立派な功績ある人々を侮辱し、青少年に害を与えている。

<ソクラテス>

有名な政治家や弁論家や詩人や職人と対話したが、彼らは「物知り」である分、「傲慢さ」を併せ持っていた。私は、自分が「知らない」ことを知っている分(「無知の知」)、彼らより謙虚であり、賢い。有力者でも青少年でも、私は謝礼も取らず、神に与えられた使命=教え諭すことを続けてきただけである。

 

たかがこんな経緯で、ソクラテスは裁判にかけられ、結果、死刑になったわけである。

ただ、ソクラテスの発言を読んでいると、有力者への忖度を一切せず、ただただ己の論理を押し通す頑固一徹、もっといえば他人がなぜ怒るのか理解できないアスペルガー症候群的な印象があり、告発者たちの怒りも理解できるような気がする。

民衆の投票による判決はわずか30票差で有罪となり、その後行われた量刑投票では、ソクラテスが「死を恐れない」と述べたため、圧倒的に死刑求刑が多くなり、ソクラテスは毒杯をあおいで死ぬ。

この経緯を書いたのが弟子プラトンの『ソクラテスの弁明』であり、最晩年の『ティマイオス』まで、プラトン哲学は約2400年に渡って読み継がれ、哲学はもちろん、キリスト教や科学思想にも影響を与え、西洋文明の思考の枠組み(フレームワーク)を形成することになる。

さて、問題は2つある。

ひとつは「無知の知」は、「究極のおバカ」ではないかということ。

これは、「おバカタレント」とは、ぼくら自身の理想の似姿なのではないかという問いに変換できる。

もうひとつは、民衆の投票による判決は有効なのかどうかということ。

こちらの方がわかりやすいので、先に片づけてしまおう。

現代の消費社会にあって、ぼくらは、新譜が出るたびにそれを選び、消費しているわけだが、その結果がチャートや売り上げ枚数になって、アーティストのランキングが決まる。

しかし、チャート成績や売り上げ枚数は、本当にアーティストの価値を正しく判定しているのか。これは民意は常に正しいのかという問いと同じである。

AKB48グループや坂道グループがミリオンセラーになるのは、握手会や推しメンへの支援の表明という要素が大きく、音楽としての価値そのものとは、ややズレている。とはいえ、ファンにとっては、○○ちゃんが選抜で歌っているということそのものが、何物にも代えがたい価値ある音楽だということもあり得る。

逆に、BABYMETALは、CDの売り上げランキングや枚数でAKB48グループ、坂道グループのはるか後塵を拝しているが、それは音楽の質やアーティストの才能とは関係ないことだとぼくらは思っている。

つまり判断基準が違うファンによるチャートやランキングは、人気投票に過ぎず、絶対的な価値を表したものではない。

ギリシア時代は、政治と司法と哲学的価値観が未分化だったので、死刑に関わる判決を投票で行ったのである。

それは取り返しのつかない誤りであり、ソクラテスの理不尽な死刑事件を弟子のプラトンが『ソクラテスの弁明』として記録したからこそ、西洋では、民意=政治と司法との分離が大原則になったわけである。

法を制定する立法府の議員を選ぶ選挙は、構成員=国民が十分な常識と判断力を持ち、不当な圧力がなく、厳正な手続きで行われなければならず、その結果は尊重されなければならない。

さらに、行政や司法はあくまでも法律に基づいて行われねばならず、

政府=権力者の圧力や、民意=政治状況によって、事後法ができたり、判決が変わってしまったりしてはいけない。

この原則が近代社会を形成するルールだ。

逆に言えば、国民が十分な常識や判断力をもたない「おバカ」であったり、人気だけでものごとの絶対的価値が決まってしまうようになれば、近代社会が成り立たなくなってしまうということである。

前者の「無知の知」は究極のおバカではないかという議論については、もう一人、別の哲学者の議論を参考にしてみよう。

(つづく)