フー・ツォンの評伝《望郷のマズルカ》を書く過程で翻訳した冬暁(トン・シャオ)氏のインタビュー(1980年頃)です。

 フー・レイ、フー・ツォン父子の人生を語るとき、キー・ワードとなる「赤子の心」について率直に語っています。

 

 真摯に文学と芸術を追求し、自国の政治体制に適応しようと努力しながら、最終的に自ら命を絶つことになったフー・レイ夫妻の死に、フー・ツォンは複雑な想いを抱えていたのだろうと思います。

 

    《赤子之心 ~ 傅聡(フー・ツォン)、傅雷(フー・レイ)を語る》

 

                            冬 曉  (トン・シャオ)

 

 北京飯店の広く長く続く廊下を歩きながら、馮亦代(フォン・イータイ)氏と私は、すぐに傅聡(フー・ツォン)氏の部屋を見つけた。私達は、彼が病気静養中の間に、ゆっくりお話しさせてほしいと頼んでいたのだ。ドアを開けると、傅敏(フー・ミン)氏が出迎えてくれた。そして、ベッドの上には、笑顔の傅聡氏が座っていた。

 

 これは、思いのままに心ゆくまで語り合った記録である。祖国への深い愛と淡い憂い、人生に対する思考と探求、芸術に対する誠実な愛情と追求、父母への思慕と懐かしさ....。物静かに見える傅聡氏だが、語り始めると、時に激しく興奮する。音楽を命としている彼は、哲学者の頭脳も持っているようだ。

 ある文章の最初の言葉を思い出した。「傅雷は傅聡の父、傅聡は傅雷の息子」。そう、彼らは同じ「赤子之心」を持っている。

 

〈中国知識人の典型の証明〉

 

冬曉:『傅雷家書』が三聯書店から出版されましたが、どのようなご感想をお持ちですか?何か読者におっしゃりたいことはありますか?

 

傅聡:父が亡くなると、ヨーロッパのいくつかの雑誌の責任者が、これらの書信について問い合わせてきました。何故なら、外国の多くの友人達が、父が私にたくさんの手紙を書き送っていたことを知っていたからです。当時の私の妻も、彼から多くの手紙を受け取っていました。ある出版社は、度々私に、高い値段でそれらを買い取ると言ってきましたが、いつも断りました。それは、父のこれらの手紙には、永久不変の価値があり、ある特殊な中国の知識人の典型の証明だからです。私は、それを、好意にしろ悪意にしろ、いかなる政治勢力の道具にも使われたくなかったのです。現在、三聯書店から出版され、とても嬉しく思っています。しかし、まだ時々少しのdoubtがあります。

 

馮亦代:疑念?

 

傅聡:この言葉は訳しにくいのですが、誰かに対して、あるいはあることに対して疑念を抱いているというのではなく、自分の思想の上でのことなのです。ちょっと違うんですよ。訳すのが難しいな。

 私の父は、何も包み隠さない人でした。私に対してだけではなく、友人達に対しても。心の中に思ったことを、そのまま書いていたので、彼の精神生活は、すべて手紙の中に映し出されています。しかし、これらの手紙は、50年代、60年代のもので、当時の時代の雰囲気や彼の心境や情緒も反映されています。彼は、ずっと書斎に閉じこもっていた人でしたが、彼の手紙からは、彼の思想が当時の社会生活と密接に結びついていることが読み取れます。ですから、一部の考え方については、彼がもしまだ生きていれば、全く違ったものになっていたでしょう。

 

冬曉:それは、当時の条件の下での一人の知識人の思想と感情なのですね。

 

傅聡:これらの手紙の価値は、まさにそこにあります。私は、先ほどまだ少しdoubtがあると言いましたが、彼はある時期、非常に多くの自己分析を試み、自己批判をしていました。しかし、今ならば、またもとの自分の考え方を肯定していたでしょう。1954年、1955年の社会の中で、国家全体が盛んな勢いで建設に励んでいる光景を見て感動し、解放戦争や革命戦争の時期の小説を読み、彼の以前の「目的だけ問えば、手段は問わなくてもよいというわけにはいかない」という認識は書物の上だけののだと感じ、考えを改めたようです。しかし、私は、彼のもとの考え方は、正しかったと思います。文革中の10年の災禍を経て、さらには1957年以来の歴史を考えると、目的のために手段を選ばずというのは、誤りだったということがわかります。手段を選ばないということ自体が、目的を否定しているのです。たぶん私のdoubtは、杞憂にすぎないかもしれません。父は、国内の文学界で名声を得ており、多くの人々が彼を尊敬していましたが、この『家書』が出版され、一部の内容が、本質から離れて理解されたり、表面的な理解になってしまったりしないでしょうか?

 

冬曉:皆、正しく理解していると思います。当時、彼の手紙の中に語られていたのは、一人の老いた知識人の党と国家に対する忠誠心と熱愛でした。彼は、急いで新しい時代に追いつき、自己を新しい時代の中に融合させようとしていました。自己改造に努力し、自己を否定したのは、真摯な気持ちからだったのです。

 

傅聡:私はたぶん西側に長く居すぎたのでしょう。私は、すべての信仰は、常に懐疑の中で練磨されていなければ信用できないと思っています。そうでなければ、それは迷信です。私達知識人は、現代の迷信に対して責任があります。知識人は、風雨の来襲を最も早く感知する鳥のようでなければいけません。知識人は、最も敏感でなければならず、時代の一番先を歩いていなければいけないのです。しかし、私達は、現代の迷信に参画し、知識人としての責任を全うしていません。

 父は、「主観的にすべてのものを熱愛し、客観的にすべてのものを理解せよ」と言いました。私は、それだけでは足りないと思います。中国は、どうしてこんなに回り道をしたのでしょうか?それは、まさに中国人が主観的にすべてのものを熱愛し、客観的に疑ってみることをしなかったからです。疑っていれば、あのような盲目的な災いは起こらなかったでしょう。父は、基本的に懐疑主義者でした。彼の言う「すべてのものの理解」には、懐疑も含まれていました。理解には、分析が必要です。分析するには、まず疑いを抱かなければなりません。まず、疑問符を出さなければいけないのです。彼は、ある手紙の中で、「私は真理に固執し、死んでも懐疑の態度を持ち続ける」と言っています。目の前の真理ばかりを大切にしていると、停滞に陥り、より多くのより進歩した真理を得ることができなくなります。教条を後生大事にして手放さないという態度は、絶対によくありません。不断に新しい真理を探し求めなければならないのです。

 

〈赤子之心〉

 

冬曉:『家書』の中の最も本質的な思想は、何だとお考えですか?

 

傅聡:「赤子之心 」です。父の手紙に、最初から最後まで貫かれている最も本質的なものは、これです。これらの手紙を読むと、彼がどのような人間だったか、こんな一言で言い表すことができます。「彼は一生の間、一分たりとも死んでいるような時間は過ごさなかった。彼の頭はいつも思考し、彼の心はいつも感受性豊かだった」。

 彼は、中国の最も優秀な伝統に深く根をはる知識人(私が言う最も優秀な伝統とは、屈原から始まり現在に至るまでの伝統です)で、「五四運動」で目覚めた世代です。彼が受け入れた西洋のものは、表面的なものや生活習慣上の些細なことではありません。現在、国外で多くの中国人が完全に西洋化した生活を送り、洋服を着て革靴を履き、家の中でも中国語を話さないような人もいますが、彼らが西側の文化を真に理解していると言えるでしょうか。父は、西側の文化を深く理解し、真に掌握していました。それは、彼が中国文化に深く根をはっていたからです。

 私の父は、自分に対しても他人に対しても要求が厳しく、非常に謹厳な人でした。これは、一方で東方の文化に根ざしながら、もう一方で、西側の文化から学んだ科学的な態度によるものでしょう。強い論理性を持ち、原則を曲げないというのは、西側の文化の長所です。彼は、これらの長所を持っていました。彼が『ジャン・クリストフ』を翻訳した時、この本から大きな影響を受けたと言っていました。ロマン・ロランは、一人のヨーロッパ人として、こんな理想を持っていました。彼は、ドイツのゲルマン民族とラテン民族の二つの文化のそれぞれの長所でお互いの短所を補い、一つの輝かしい文化を創造しようと考えていました。私の父が一生かけて追求していたのも、東方の文化と西方の文化の長所と短所を補い合って融合させ、新しい絢爛たる全人類の文化を創造することでした。

 先ほどお話した「赤子之心」に戻りましょう。私の父には、たくさんの欠点もありました。彼はとても生き生きとした豊かな人間だったので、欠点も長所も普通ではありませんでした。どちらもとても大きかったのです。たとえば、彼が癇癪を爆発させると、しばらく興奮して手がつけらず、皆驚いて呆然としたものです。

 

傅敏:しかし、彼は同時に絶対に冷静で、理性的で、謹厳だった。

 

傅聡:その通りです。すべてが強烈で、振幅が大きかった。最も重要なことは、私の父は完全に本物だったということです。これは、知識があるとかないとか、品性があるとかないとかといったこととは、関係ありません。

 

馮亦代:私が初めてあなたのお父さんに会ったのは、鄭振鋒先生のお宅でしたが、その時、鄭先生は、「彼は一生“赤子之心”のために苦労するだろう」と言っていました。

 

傅聡:彼のそういうところは、一つの特殊な典型だと言えると思いますが、最後には、彼はやはり一人の中国人なのです。中国人の特殊な点は、感性を一番大切にしているところです。そして、その感性の底には、「赤子之心」があります。彼は、一面でとても謹厳でしたが、同時に彼は大慈大悲の人でした。彼の思いやりの心はとても広く豊かで、いろいろなところで他人のために考えていました。一番小さなところでは息子のために、少し大きなところでは友人のために、さらに大きなところでは国家や政府のために考えていました。彼の手紙の中から、そういう態度がたくさん窺えます。そういう態度を持ちながら、さらに科学的な分析能力があるから、優秀な人間なのです。そういう人間がたくさんいれば、その社会は理想の世界になるでしょう。しかし、中国人の多くは、感性の部分が多すぎて、理性の部分が足りません。盲目的な信仰や事なかれ主義が多くて、疑ったり考えたりすることが少ないのです。信仰は、懐疑の中で鍛えられなければいけません。

 私は毎回帰国するたびに、ほんの小さな出来事で心が暖められ、すぐに楽観的になるのですが、それも、私に中国人の心があるからでしょう。感情は、やはり中国人のものです。もしも、東方の人間がこの「赤子之心」を持ち続け、西方の理智と科学の精神、論理性、を学べば、私の父が一貫してたゆまず追求した世界文化の理想に近づくでしょう。

 

〈最も大切なのは人であること〉

 

冬暁:傳雷先生のあなたに対する最も貴重な影響と援助は何でしたか?

 

傅聡:彼が最も強調したのは、人であることです。それがなければ、芸術も語れないし、音楽も語れない。何も語れません。私は、国家もそれと同じだと思います。国家が良くなりたいと思うなら、まず人間の素質が良くなければいけません。人間の素質を、子どもの劇のように、これは良い人、あれは悪い人というように単純に説明するのは危険です。良い人と悪い人の区別は、そんなに簡単ではありません。人類社会が、どのような段階に発展したとしても、矛盾があるものです。人間に智力があったとしても、品性には様々な矛盾があります。後天的に人間の素質に影響を与える要素として、感性的なものは大きいですが、たとえば、新中国が建国したばかりの頃の全中国に満ち溢れていたあの雰囲気、あの頃はすべての中国人が突然良い人に変わったような気がしました。しかし、それは多分に感性的なものでした。単に感性的なものだけではだめで、理性的なものがなければなりません。私の父が一生をかけて追求していたのは、感性を理性に融合させようとすることでした。それは、まさに私が先ほど言った信仰と懐疑の問題と同じです。

 あなたは、父の私に対する影響の最も大きなものは何かと尋ねましたが、それは、こんな一言で言い表すことができます。独立した思考、自分の頭で考えることです。彼自身が生きた手本でした。何事に関しても、他人の言ったことの受け売りをせず、絶対に盲従しませんでした。盲目的な信仰は恐ろしいですが、もっと恐いのは、自分が自分を騙すことです。

 父は、ルネッサンス期の人物のような人でした。ヨーロッパの近代文明は、4世紀以上の眠りを経てルネッサンスから始まりましたが、経済的基礎を分析して、経済機構、制度全体が封建社会から資本主義社会の萌芽に向かっていたと言える以外に、もう一つ最も重要なことは、人間が覚醒したことです。当時のヨーロッパの資本主義はまだとても弱く、人々は、他人が言うことを鵜呑みにすることに不安を感じ始め、宇宙に対して疑問を抱き、何のために生きているのかを考えるようになりました。私達も、それを考えなければいけません。父の手紙に、最初から最後まで語られているのは、そのことです。この基礎があってこそ、はじめて揺るぎない進歩があるのです。それこそが、真の進歩です。