一方、人事面においては、石原莞爾の更迭と入れ替えるように、昭和研究会のメンバーでもある元朝日新聞記者の風見章を、側近中の側近として第一次近衛内閣の内閣書記官長(現在の官房長官)に迎えるが、ここでは、近衛の思想を理解する上で風見の正体を明らかにする。

 

風見章(かざみあきら)は明治十九年二月十二日、茨木県水海道に生まれ、早稲田大学政経学部を卒業後、大坂朝日新聞や国際通信の記者を経て長野県の信濃毎日新聞の主幹となり、昭和二年「女工哀史」の発火点となる岡谷製紙争議に加わり、共産党員とともに連日反体制運動論を展開する。

 

その中でも昭和二年十二月から三年一月まで「マルクスについて」との記事において「共産党宣言」に最大級の賛辞を表している。

 

すなわち「この宣言書は実に重大な意義を歴史的にもつものである。その重大さはどんな言葉を用いても誇大とはならぬものである。それは実はヨーロッパ社会史、というよりも世界的社会史、人類社会史上に新しい出発点を与えたものである。労働者たちをして、最初にまず彼らの持つところの歴史的使命とその尊厳さを感得せしめたものは、実にこの宣言であったのである」とし、日本国中に大きな反響をもたらした。

 

風見は普通選挙制度最初の衆議院選に出馬、落選したが二度目の挑戦で当選、以降連続四回当選を果たして反体制の旗手として全国に名を馳せた。

 

昭和十二年六月、第一次近衛内閣の発足にあたって近衛は、自分と思想信条や政治的展望が一致し、かつ、マスコミ対策に強い人物を側近としての内閣書記官長にあてることを考えており、風見を“意中の人物”として抜擢した。

 

なお、風見は、のちに「ゾルゲ事件」で逮捕される同じ朝日新聞出身でコミンテルンスパイの尾崎秀実とも昵懇(じっこん)で、尾崎が死刑になった後の昭和二十六年、雑誌「改造」八月号に、「尾崎秀実とゾルゲは国家による残虐行為で殺されたマルクス主義の殉教者で、今やその気迫が辺りに振り撒きつつ、高然と絞首台に上った姿を瞼に浮かべるとき、私の胸は鬼神も泣けと疼きだすのである」と讃えている。

 

近衛は、このような確信的な共産主義者を政権中枢に入れて、共産主義者たちが画策する“敗戦革命”を、自らの覇権獲得に利用しようとしたのである。

 

また、当時の陸軍内部には、荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にして、軍・政・官・民の各界に蟠踞(ばんきょ)する奸臣を一掃して軍政(統制)より現地での作戦を優先し、天皇とその側近による親政を実現して国家の再建を図ろうとする「皇道派」と、宇垣一成らを中心に国家総力戦体制を敷くために、軍・政・官・民それぞれが抱える対立を解消して軍政(統制)を強化しようとする「統制派」の対立があった。

 

 

皇道派が反天皇制を掲げるコミンテルン(ソ連)との決戦を主張(北進論)したのに対し、統制派は来たるべき英米との決戦を暗黙裡に想定(南進論)していたことから、皇道派は統制派のことを「アカ(共産主義者)」だと批判していた。

 

したがって、本来なら近衛らにとって皇道派こそ天敵のはずだったが逆にこれに近づき、二・二六事件関係者の恩赦を求める等したのは、自分たちは共産主義者ではないとのポーズであったと考えられる。

 

(次回に続く…)