ともあれ、昭和八年六月、四十一歳で貴族院議長に就任した近衛は、昭和九年五月十七日に横浜港で大々的な見送りを受ける中、米国訪問の旅に出る。

 

滞米中の近衛は、大統領のルーズベルト、フーバー元大統領、ハル国務長官、ホーンベック極東部長、ハウス大佐、それにモルガン商会のトーマス・ラモントら各界の要人と会談する。

 

この中でも特にラモントは、国際的非政府組織である太平洋問題調査会(IPR)の中心人物であり、日本政府も財政支援をしていた日本IPR(支部)を通じて、民間レベルでの満洲国承認問題の解決を模索していた。

 

ソ連建国の最大のスポンサーでもあったロックフェラーが財政支援する太平洋問題調査会には、ラモント以外に蒋介石政権の顧問のオーエン・ラティモア、ソ連通のジョセフ・バーンズ、支那で宣教師をしつつ中共を熱烈支援し、戦後近衛の尋問を担当したトーマス・ビッソン、「日本ファシズム国家論」を主張したハーバード・ノーマンらがおり、ほぼ全員が共産主義者やそのシンパ(米国共産党)だった。

 

 

一方、日本側の随員には、東大教授でマルクス思想家の蝋山政道、日本IPRのメンバーで近衛の秘書となる牛場友彦、同じく日本IPRメンバーで新聞連合社専務理事の岩永祐吉など、のちに近衛のブレーン・トラスト昭和研究会のメンバーになる人物が同行した。

 

ところが、極東の現状維持を求めて満州国承認を拒否するラモントと近衛とは意見対立し、とりわけ近衛が帰国後、「ルーズベルトやハル国務長官は外交のことは何も知らず、特に極東の事情には全く無知だから…」とのラモントの人物評を雑誌に暴露、米国共産党の機関紙デイリー・ワーカーにも転載されことからこれを知ったラモントは激怒、「近衛は信頼(利用)できない人物だ」との評価を定着させて、近衛からみた米国観との間にズレを生ぜしめ、“米国への相乗り”を狙った近衛の戦略を狂わせることとなる。

 

これを受けた近衛は、「日米関係は無条件の楽観を許さず重大な問題が山の如く控えている。故に政党政治など復活すべきではなく、強力な挙国一致内閣を作れ」としたうえで、国際連盟、不戦条約、九か国条約、海軍軍縮条約への日本の参加に疑問を呈し、徐々に日米開戦への機運を煽り始めたのであった。

 

(次回に続く…)