明治二十四年十月十二日、東京市麹町区の屋敷で、五摂家の筆頭当主・篤麿の子として生まれた近衛文麿は、学習院中学から第一高等学校を経て京都帝大法科に入学するも、同じく学習院出身の木戸幸一や西園寺公望の秘書となる原田熊雄らとともに河上肇のマルクス経済学に惹かれこれを学び、オスカー・ワイルドの『社会主義者下の人間の魂』を翻訳、『新思潮』に発表する。

 

この論文では、「私有財産制を諸悪の根源」と説いて社会主義を理想として賛美した上で、「人類の目的は労働ではなく教化された安楽にあり、科学と社会主義は新しい個人主義(自由主義)によって使いこなされるべきだ」とし、権力や刑罰を否定し、一種のアナーキズム(無政府主義)を志向している。

 

世襲侯爵議員として貴族院議員だった京大時代の近衛は、英米派の元老・西園寺公望に気に入られ、大正七年に京大を卒業したのち西園寺の口利きで内務省文書課に就職、この間自らの考え方をまとめ、『英米本位の平和主義を排す』との論文を雑誌に発表する。

 

その内容は、「英米は正義だ人道だと大義を掲げているが、実はそれは英米本位の平和主義であり、欺瞞に過ぎない」と批判し、ついで「英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来のごとく渇迎する国内の態度あるは、実に卑屈千万にして正義人道よりみて蛇蝎視(だかつし)すべきものなり」と、日本国内の風潮も批判している。

 

その後、近衛は父から受け継いだ東亞同文書院(大学)の院長となって支那を訪問した後帰国、昭和六年一月に四十歳で貴族院副議長に就任するが、九月に起こった満洲事変などの国際情勢の激変を背景に再び論文『世界の現状を改造せよー偽善的平和論を排す』を発表、「日本は漫然たる国際協調主義に終始せず、世界の動向と日本の運命、国民の運命の道を深く認識し、常に軍人の先手を打って革新の実を行う以外にない」との「先手論」で軍を煽り始める。

 

このような近衛の頭の中には、「日華事変から対米開戦、そして日本の全面的敗北による天皇退位と米軍進駐、近衛による親米政権の樹立」という将来的な野望があり、仮に米国の取り込みに失敗した際には“敗戦革命”による親ソ政権の樹立という奥の手を隠していたのである。

 

(次回に続く…)