極東軍事裁判において、戦勝国である連合国からA級戦犯として絞首刑になった七人のうち、政治家としての責任を問われたのは首相であった東條英機と、首相で外務大臣だった広田弘毅である。

 

広田弘毅については、ニュルンベルク裁判で絞首刑に処せられたナチスドイツのリッベントロップ外相との均衡を図るためといわれてきた。

 

しかし、最も大きな罪状とされたのは、一九三六(昭和十一)年三月五日からの首相在任中起きた日華事変と南京事件での責任だが、広田が戦線拡大に反対していたことや、南京事件の存在自体の不確かさからその責任の有無には疑義があるとして国民の間に助命嘆願運動がおこり、一説によると絞首刑は偽装死で、その後も生存していたという情報もある。

 

一方、東條英機に関しては、日米開戦時の直接の首相として、裁判を通して自己弁護一切は行わず、「この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しない」としながら、「この戦争の責任は私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ他の者に一切の責任はない」とし、とりわけ天皇への責任追及を回避するため一身にその責を負った。

 

ところで、大東亜戦争(本稿では太平洋での対米戦争である太平洋戦争を含めてこう呼ぶ)、就中、日本の敗北を決定づけた対米戦争に至るには東條内閣以前にその伏線があり、国際謀略を担った様々な人物が跋扈、暗躍し、あるいは裏切り、敵との内通するなど、日本を敗戦に導くシナリオがあった。

 

このようなシナリオを担った人物は政治家、軍人、官僚、財界人、さらには元老にも及ぶが、本稿では戦線を東西に分断した海軍の山本五十六(背後にいた米内光政、永野修身含む)、国家機密を敵側に筒抜けにした外務官僚の吉田茂、そして彼らを総合的にコントロールした首相の近衛文麿の関係を“売国奴のトライアングル”とし、その中でもとくに周到に敗戦シナリオを描き、戦後も実権を握ろうと企んだ近衛文麿に焦点を当てて、約10回にわたり大東亜戦争の本質を論考する。

 

(次回に続く…)