1、「安倍氏」は「安曇氏」と「海部氏」の合族

 

安倍晋三総理の祖先・安倍晴明の出自については謎が深く、実は、縄文日本人で海人族の安曇氏と海部(あまべ)氏にそのルーツがあり、しかも朝廷内でも"陰陽師"という天皇を陰で補佐する立場にあったことを明らかにします。

 

「安倍(阿部)」姓の全国分布図を見てみると、1位が宮城県、2位が北海道、3位が東京、4位が神奈川、5位が山形と、極端に東日本に偏ってるのがわかります。これは安倍一族がかつて東日本に勢力を誇っていた傍証ではないかということです。

 

 

一方、古代支那の正史「随書」には、当時九州北部には「倭国」があり、その王家の姓は「阿毎」と記されています。この「阿毎」は、当時の中国語で「abei(アベィ)」と発音したとされます。

 

 

この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

 

ところで、縄文時代以前の新石器時代には、度重なる天変地異を避けるため、多くの源流日本人が新天地を求めてアジア大陸を中東まで移動したといわれています。その後彼らは、何波かに分かれて日本列島に"出戻り"してきましたが、

 

その初期の一団が、海人系古代ユダヤ人「海部(あまべ)氏=物部氏」で、「安倍(阿部)氏」一族の安倍姓は、「安曇氏」と「海部氏」が合族してできた姓だという説も有力です。

 

 

また、有力氏族の出自を記録した「新撰姓氏録」によると、安倍氏は、「記紀(古事記、日本書紀)」で記載が削られている第二代から第九代天皇までの、いわゆる"欠史八代"のうちの第八代・孝元天皇の子・大彦命の後裔とされています。

 

"欠史八代"については、後の「南朝皇統」をなす縄文海人族+物部氏系の天皇が存在しましたが、同じく後に長く主導権を握った騎馬民族系秦氏、藤原氏を中心にした「北朝皇統」の始まりとされる第十代・崇神天皇以降の勢力によって、「都合が悪い」として削られたと考えられます。

 

2、二つに分かれた「安倍氏(物部)」一族

 

⑨さて、話を縄文海人族「倭国」に戻しますが、「竹内文書」や「宮下文書」「九鬼文書」「和田家文書」「神伝上代天皇紀」などの「記紀」で封印された古史古伝によると、大和朝(神倭朝)以前の日本には、「白山王朝」、「富士王朝」などが三万年以上続いていたとされていることはすでに述べたとおりです。

 

そのうち、最後にあった「鵜芽葺不合朝」では、九州の「倭国」や「奴国」などを始めとして、「出雲国」「吉備国」「日高見国」など全国の有力豪族による 連合国家が形成されていたとあります。ちなみに、俗に言う「"烏合"の衆」とは、後に「不合朝」が離散したため「"鵜合"の衆」からきた俗語です。

 

 

その後、「不合朝」は、最有力豪族「出雲国」での「大国主」亡き後の後継者争いを引き金により揺らぎます。この間隙をぬって九州・倭国の王・磐余彦(イワレヒコ)」が独立を宣言して瀬戸内海を東進、四国、吉備、出雲を傘下に収め(国譲りの儀)、紀伊半島に上陸して「邪馬台国」の長髄彦を破り、新たな「大和王朝」の神武天皇」となります。

 

 

ちなみに、このことから解るように、「神武東征」と「大和建国」の真相は、九州の「倭国王・磐余彦」と近畿の「邪馬台国王・長髄彦」という"海人族"同士による主導権争いの様相を呈しています。が、真相は、北方騎馬民族の脅威に対抗するための強力な國體、国防体制の構築と防御陣地の縦深化だったという見方もあります。

 

従って、GHQにおもねる曲学阿世の戦後史家が主張する「天皇家は朝鮮半島からきた騎馬民族である」などとする邪説は成り立たず、騎馬民族の渡来(原始日本人"カラ族"の一派で古代ユダヤ人・秦氏の"出戻り”)」は、第十代・崇神天皇ないし第十五代・応神天皇以降の出来事で、「大和王朝」の建国自体には関係ないことが明らかです。

 

 

一方、東に逃げた長髄彦は、関東に「日之本王朝」を建て、「神心伝物部建天皇」を名乗ります。この「日之本王国」は、現在の茨城県から埼玉県に拠点(都)を設け、後に大和王朝下で反乱を起こして承平天慶の乱朱雀天皇に対抗し"新皇"を自称、東日本の独立を目指した「平将門(海人族)」に繫がる王国です。

 

 

その後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は分裂し、一部は大和王朝に合流、一部はこれに反発して奥州、そして津軽へと逃げ延び、奥州安倍氏(後の安東氏)となって荒覇覇吐(あらはばき)王国」を作り、さらに「秋田氏」と称して幕末まで生き残り、明治維新後は子爵を授けられました。

 

 

このような海人族同士の争いの中、安倍(物部氏)一族は、大和朝廷に招かれた者(内物部)と、奥州に落ち延びた者(外物部)に分かれ、大和朝廷内に招かれた方が「安倍宗家」となり、天皇("天の御門")を補佐する地位を与えられます。これが後の安倍晴明などの朝廷祭司を司る陰陽師("土の御門"=裏天皇?)です。

 

安倍晴明については、系譜学の大家・宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」によると、安倍益材の兄・春材の子だが益材に養われたのではないかとされ、天禄4年(973年)と天延元年(974年)に、朝臣につぐ朝廷内第三位に位置する宿禰(すくね)として陰陽師に就任します。

 

さらにその後、安倍宗家は安倍晴明の子孫・季任(すえとう)が前九年の役で敗れて肥前国(現在の佐賀県)に流され、元寇の際にも活躍した「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任と名乗って平家水軍で活躍。

 

その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を逃れる為に安倍姓を名乗り長門国大津郡日置村、すなわち、現在の山口県長門市油谷町(山陽側の周防国田布施とは反対側の山陰側)に落ち、家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。