GHQの占領方針は新しい日本の憲法にも強く反映される事となりました。確かに日本国憲法原案はGHQ提案と言う形はとったものの、敗戦のショックで抵抗する力も残っていなかった日本人にとって、戦勝国から薦められれば拒否できないというものでした  

 

また、その内容は「日本が二度と欧米に楯突かないように」という方針に基づいたものだったため、「世界の中で悪い国は日本だけだ」という「前文」と、「だから日本は武器を持ってはならない」という「九条」が盛り込まれたのです。

 

敗戦のショックで打ち拉がれた中、英米の息のかかったフリーメイソンの吉田茂や幣原喜重郎の下、抵抗する事もできず受け入れざるを得なかったのが、日本の非武装化を定めた「日本国憲法」です。

 

が、「このままでは日本は独立国とは言えない」と決然、一人の政治家が立ち上がります。それが岸信介(首相)でした。岸は昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効に伴って巣鴨から釈放され、同年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を掲げ、日本再建連盟を設立します。

 

しかし、首相吉田茂の「非武装、対米協調」路線に反発したため除名されます。そこで鳩山一郎と共に日本民主党を結成。さらに自由党と民主党の合同を果たし自由民主党の幹事長に就任、憲法改正を党是にします。岸が目指したのは安保改定をきっかけに自主憲法を制定して"対米独立"への道筋を立てることでした 

 

ところで、終戦直後、故郷の山口に帰郷していた所を連合国軍からA級戦犯被疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に拘置された岸の主張とは、自殺する政治家や軍人もいたなか、「名にかへて、このみいくさの正しさを、来世までも語り残さむ」との和歌を残し、日本の立場を正々堂々と主張するつもりであるとして、

 

「敗戦について国民と天皇陛下に対して責任はあっても、米国に対しては責任はない。勝者が敗者を罰するのだからどんな法律で我々を罰するか、負けたからには仕方がない」、「侵略戦争という者もいるが、追い詰められて戦わざるを得なかったという考えをはっきり後世に残しておく必要がある」として裁判に臨みます。

 

また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」、「終戦後各方面に起こりつつある、戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬ」とも述べています。

 

さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、もう一度政治家として日本を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと、見極めがつくようなことをやるのが務めではないか」と言って、戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになります。

 

 

東京裁判については「絶対権力を用いたショーだ」と述べ、また支那の国共内戦については「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」とし、反共のためなら米国とも協力するという「大亜細亜主義者」でもあり、「現実主義者」でもありました。

 

ところで、直近の憲法改正論議の中での改憲派の主たる根拠は“GHQ押し付け論”です。が、私見では、欧米流の「国民主権(“民主”主義)」という根本思想は、「国家権力は悪である」という性悪説の人間観を前提にしており、天皇制を中核として大家族をなす我が国の國體(ここでは広義の“国柄”)には馴染まないことが最大の理由とされるべきと考えます。

 

 

そういう意味で、「九条」だけでなく、自虐史観の象徴である「前文」を含む現行憲法の根本原理からの改正が望ましいと考えますが、現実的には、今回の改正は「九条」に「三項」を加えるという“微調整”に終わりそうです。

 

ちなみに、「九条」は、これ自体が国際環境の変化への対応を阻害するネックとなって国民世論が沸き上がり、見直しの機運が高まることを仕掛ける“時限装置”として、あえて昭和天皇と裏天皇・堀川辰吉郎が謀って”嵌入(かんにゅう)“したものであると仄聞しています。