民主主義と資本主義が確立して以来、大衆による信仰の対象が「神から自由」に、「仏からお金」に変わった。

 

民主主義とは、政治的意思決定に自らの意思が反映されているかのように印象づけることで大衆を納得させ、そのストレスを発散させるだけの”騙し”の仕組である。(サルトル)

 

民主主義とは、「民は之に由らしむべし。されど、真実を知らしむべからず(孔子)」を制度化したものであって、形だけの自治を認める一方で、判断材料としての情報を操作して大衆を管理する"騙し"のシステムである。

 

「民主主義」と聞くと、大衆は「自らが主人」であるかのような気になって心地よさを覚える。が、教育と報道を通じた情報操作で、どうにでも「判断基準としての正義」をねつ造でき、大衆をコントロールできる。これにより大衆は“去勢”され、思考力さえ失う。これが「民主主義支配」の実体である。

 

「常識」という名の多数意見は、何時の時代も大衆を思考停止に導く。それを企図する真の支配者たちは、常に新しい情報で「常識」をもっともらしく脚色し、そのパワーのよって大衆はおろか、その時代の政治家ですら管理する。これが「民主主義」の正体である。

 

 

一方、欧米流民主主義を支える「宗教」については、主にキリスト教(正確にはローマ・カトリック)のことだが、以下の様な言葉を紹介する。「宗教は民衆の阿片である(マルクス)」「宗教は毒酒である(レーニン)」「宗教は奴隷の道徳である(ニーチェ)」

 

宗教(とくにローマカトリックなどの一神教)とは、”神の愛”と称して、我々に”無償の愛”の提供(無償奉仕)を強いるという、実に権力者にとって都合のいいマインドコントロールである。(ニーチェ)

 

一方、日本の「國體」と異なる欧米流の「国家」とは、大衆の頭の中の抽象概念が作り出した幻想に過ぎず、つかみどころのないその国家を"戦争の真犯人"呼ばわれしても的を射ない。世界にはこれを考え出し、利用している、国家を超えた利口な生き物たちがいる。

 

彼らは国家という架空世界を隠れ蓑に、その国家と国民の頭の中にある微妙な隙間を巧みに利用し戦争を起こさせます。特定の利害関係者だけの私益を国益だと大衆に思い込ませ、洗脳することにたけたその生き物たち(グローバリスト=ネオコン)こそが、戦争の真犯人。だから特定の国家を非難しても意味がない。