改竄された日本書紀…その4

 

 

㉘そして、645年、「乙巳の変(大化の改新)」が起こります。日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされていますが、これは後に日本書紀の編纂に関わった藤原不比等による改ざんの可能性があります。

 

㉙むしろ真実は、混乱が続く国内をまとめ、随(後に唐)などのアーリア系騎馬民族の脅威に対抗できる強固な國體を作るために、聖徳太子と蘇我馬子、秦河勝らが進めていた「十七条憲法制定」「律令制の導入」などの大改革に抵抗したのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の方だったという説があります。

 

㉚また、当時の日本と唐の国力比から言って勝ち目のない、したがって日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」に、"百済救援"という名目で、現代の人口比でいえば約200〜300万人にも上るという大軍を送ることを天智天皇に執拗に迫ったのは中臣鎌足でした。

 

実は、その背景には鎌足の出自にまつわる謎があります。まず、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、660年9月に使者を立て、救援とともに「人質として日本に居た百済王子・豊章(ほうしょう)を召喚し王にしたい」との要請をします。

 

豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い謀反の疑いで殺害。知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」とされています。一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が、日本書記から完全に欠落しています。

 

このようなことを考えると、中臣(藤原)鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり、鎌足は"百済王・豊章"だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

 

ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でした。が、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

 

また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに、「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」と漏らしたとの記録があります。「韓人」とは「朝鮮半島地方の人」という意味があります。

 

さらに、鎌足は「乙巳の変」などの一連の改革の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、不比等についても律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。これは「国籍条項」があったためと言われています。

 

㊲一時は、「壬申の乱」によって陰に追いやられ、鳴りを潜めていたた藤原氏でしたが、天武天皇の崩御後、不比等が復活します。そして、あれだけ抵抗していた律令制などの諸改革に対する姿勢も変え、「大宝律令」を発する等して完成させます。

 

が、諸改革を実質的に成功させたのは天武天皇であり、流れに敏な不比等はその後「律令」の解釈権を独占。例えば、「皇后」の資格についても明確な規定がなかったため、それまでの「皇族から選ぶ」という慣習を無視して自家から輩出、"天皇家への浸透"を進めました。

 

そしてその後、天武天皇系の「長屋王」、藤原氏に抵抗した聖武天皇の子「安積親王」を暗殺、藤原一族による横暴に危機感を抱き改革を進めていた「菅原道真」の追い落としなど、藤原一族は海人族の復権を阻止しながら朝廷内での絶対的な支配権を確立します。

 

以上の経緯に鑑みるとき、日本の"名門一族"と称される一方で、巧に権力を掌握した狡猾な藤原一族は"百済人"であった可能性が見えてきます。なお、後年、藤原氏の末裔・近衛文麿(戦前のスパイ事件・ゾルゲ事件の中心人物)は、昭和天皇と会話するとき足を組んで椅子に座っていたといいます。