数年前の事だったが、私は手話サークルでの活動をしているホームページを作っていたのだが、それを見た鉄腕ダッシュの制作会社から「聴覚障害者の生活について知りたいから可能ならば紹介してください。」とのメールが届いた。そこで私は何人かのろう者にこの事を伝えたが、彼らからの返事はNOであった。理由は「俺たちは普通だよ。」との事。


彼らの拒む気持ちも判るが、世間は普通とは思っていない。彼らの言う「普通」とは一体なんだろうか。「普通に暮らし、普通に家族を持ち喜怒哀楽のある人間としてのありふれた日常を過ごしている。」を多分指しているのだろう。


世間が知りたいのは聴覚障害者が日常の暮らしをどのうよに克服しているのか。何が問題で何が困難なのか。その具体例だ。そして、彼らは何が出来るのか、何に長けているのか。なのだ。


それらは隠していては周りには判らない事。普通がいつまでたっても特殊扱いになってしまうこと。物体的、心理的バリアーがいつまでもなくならない事。



私は二級の精神障害者だ。世間では「きちがい」視される立場だ。しかし、精神疾患を正しく伝える為には出て行かなければならない。そうしなければ伝わらない。世間の誤解はいつまでたっても無くならない。精神疾患者が何ができるか。また何ができないのか。それを世間に伝えなければならない。だから私は正々堂々と「私は精神障害者です。」と世間に言い放つ。


私はアスペルガなので、複文が苦手です。その代わり単文には非常に鋭い感覚を持っています。その為に現代文などは苦手で嫌いなのですが、日本語の文法は大好きです。


例えば


黄色と青を混ぜる と 緑になります。

黄色と青を混ぜれ ば 緑になります。


この「と」と「ば」の違いは判りますか。


精神疾患の事。訊ねたい事ありましたらコメントに書き込んでください。私は発達障害のアスペルガと精神疾患のうつ病ですが、答える事が出来る範囲でお答えします。




ぶす犬くーちゃん-弥生時代

静岡市の登呂遺跡博物館が弥生時代をモチーフにしたファッションデザインを募集していたので応募した。弥生時代は文字こそ無いものの、結構手工芸は発達していた。そして奈良時代に書かれた古事記のモチーフは古墳時代と弥生の境目あたりだろうと推測してやや古墳時代よりデザインをしてみた。言い方を代えると「神々のファッションショー」だ。

今までスカパーでしか受信できなかった放送大学がBSデジタル放送を開始した。これで一般のテレビで家にいながら視聴できる。

県立美術展の企画展示の「印象派の誕生」に行ってきた。


入場料が1300円のところ障害者手帳を水戸黄門の印籠の如く提示し無料にして、そのまま入場。


感想は・・・・・


「うーむ・・・・・俺でも書けるな・・・・・」


と思った。


特に風景画がどうしてこんなに評価されるのか理解に苦しむ。これが写真だったら誰も見向きもしない、ありふれた光景の絵だ。これならば、私の写真作品の風景を絵にしたら私もここの仲間入りになれるような気持ちになった。


人物画も絵が巧い漫画家のキャラクターのような絵だ。


例えばチラシのルノワールの絵

http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20110923-1106_insyoha/index.html

↑「黒い帽子の娘」


これ・・・・巧いか?????巧い、下手に目を向けずに作者が何を感じて筆を走らせたのかを感じ取ろうとしたが・・・・・人間としてありきたりの感情「かわいい女性」以上を感じなかった。


絵って何????


芸術って何????


この抽象的な言葉、感覚、意味なく高尚なものとして人が評価するから釣られて高尚な物として捉えて奉る。世間体の芸術とはそんなものだ。「良いから良い」ではなく「人が良いと言うから良い」のだ。


芸術とは作者のメッセージだ。何を言いたいのか、何を世間に伝えたいのか。それは時を越える。時をまたぎながらも人々に何らかのメッセージを伝えるのが芸術の核なのだ。それがなければどんなに絵が巧くても落書きに等しい。逆にどんなに下手でもメッセージを伝える作品は尊い。だから私は縄文が好きだ。闇への恐れ、出産の恐れ、飢餓の恐れ。病、老い、死、さまざまな恐れを跳ね除ける為の祈りの気持ちを作品に感じる。だからどんなに下手でもとても綺麗だ。


ぶす犬くーちゃん-消防車


利用しているデイケアの病院に避難訓練があった。消防車が来ていたので、記念撮影をしました。


≧(´▽`)≦


ぶす犬くーちゃん-2

マスカットをイメージしてみました。

フローライト、葡萄石、水晶、スワロフスキーエレメントのソロバンビーズを使用しました。


ぶす犬くーちゃん-3

宇宙をイメージしてみました。

人工オパール、ラブラドライト、ソーダライト、スワロフスキーエレメントのビーズを使用



ぶす犬くーちゃん-4

ラブラドライトの地味な表面の奥に光る華やかな反射が気に入って、ラブラドライトをメインに組み上げました。

ラブラドライトの反射光を表現できないのが残念です。

ぶす犬くーちゃん-1


買うからブレスレットを作ってくれと言うので、その人のイメージをデザインして編み込んで作ったのに・・・・・

出来たから喜んで持っていったら・・・・・


「一連がいいっっっ!!!!!」


だって


(´・ω・`)


その人は女性で年齢の割りにはスタイルも良く、音楽をやっている。かっこいいおばちゃんだ。なので黒を多めに白の配色をベースに女性らしさを加えるために桜色のローズ水晶を使った。使用した石は「オニキス」「ヘマタイト」「ローズ水晶」「人工キャッツアイ」だ。


私自身、この作品がとても気に入っていた。納品したら喜ぶと思ったのに・・・・・


しかたないから・・・・・・


日本語教師として単身ミャンマーのヤンゴンに赴任する仲間の先生にプレゼントした。


オニキスは悪霊や災いから守ってくれる。

ローズ水晶は恋愛を叶える。

ヘマタイトは勇気と自信をもたらし、成功へと導く。


その先生は若い女性、アメリカに暮らし海外に慣れているとは言え、一人ヤンゴンに乗込む行動力には感服する。私があげたブレスレットの石の効き目が出たらいいなと今では思う。




日本手話は生まれながらの聴覚障害者が使う、完全に文法が完成された言語だ。それに対して日本語対応手話は日本語の並びのまま、手話単語を当てはめたものだ。それゆえに日本手話を高位の手話として日本語対応手話を非難する人も少なくない。


しかし、日本手話を使う人の日本語の力は酷いものだ。日本語は膠着語、その根幹の部分の格助詞の認識が孤立語の日本手話の影響で欠落してしまっている。格助詞を綺麗に使える生まれながらのろう者は本当に少ない。


日本手話を使う聴覚障害者の人々は日本人だ。少なくても書き言葉として日本語は必要だ。なので、ろう学校では日本語対応手話を昇華させる使命が本来ある。日本語対応手話をクレオールにするのだ。そして、それを日本の標準の手話にするのだ。そうしたら書き言葉と話し言葉の差が少なくなる。日本手話と日本語の差は遠い。ろう者を日本人とするためには日本語の教育と日本語対応手話の発展は必要なことだ。

 フィルムスキャナーを買った。私はデジカメが登場する前のフィルム時代から写真をやっている。とにかく現像が好きで、自力でカラー処理まで出来るようになった。その当時から自分でも俺は写真が下手だと薄々感じていた。だから現像技術に力を入れていたのだろう。

 今回、写真の整理のつもりでフィルムスキャナーを買った事もあり、久しぶりにその当時の写真を見た。

「恥ずかしい・・・・・・」

 余りの下手さ加減に自分に嫌気がさした。

取り込む事なくそのまま捨ててもよいかもしれないくらいの作品には程遠いものばかりだった。

しかし、その時に熱中していた現像の知識は現在のデジカメでも役に立っている。色彩に敏感になり、撮影の光の色の成分構成を感じる事が出来るのだ。

現像は面白いけども大変に手間が掛かる。フィルムだけならば暗室が無くても可能だが、プリントとなるとそうはいかない。私の家には暗室が無いから夜になるのをまって風呂場に黒い幕を張って夜明け前までの作業となる。あまりの手間にだんだんやる事もなくなり、デジカメの性能が上がる10年間はカメラ自体を触る事さえなかった。いよいよデジカメも安くなり性能もまーまー満足できるまで上がったのでコダックの9800円のトイカメラを飼ったのが切欠で写真の情熱が復活した。

私の写真を離れた10年は写真を撮る際の妙な力みや角を取るのに必要な月日だったように感じる。人の作品を見るのが好きになったのだ。テクニックよりも何を感じたのか、映像からその奥を感じるのが楽しくなった。それで私の作品は代わった。