最近、【さすがクドカン】などといったタイトルを付けて、連続ドラマ『不適切にもほどがある』に関する記事を書いてきた。

 

ところが、この話題、そろそろ終結させようと思っていたら、静岡県知事の川勝という人が、『実に面白い事例』を提供してくれているので、取り上げてみたい。

 

 

実は、今日(4月3日)は台湾で起こった大地震についても気になるのだが、まだ、被害の状況が不確かな所があるので、もう少し状況がはっきりしてから書きたい。

(特に、現在、蔡英文氏の前に台湾の総統を務めていた馬英久氏が、わざわざ中国を訪れて、『中国寄りの姿勢』をさらに一歩進めるようなことをやっている=習近平とも会談をした可能性があるらしい=真っ最中である。習近平の中国などは、『台湾は、中国の一部である』という政策のもと、今回の大地震についても、どのように『利用をしようとするか』わかったものではない。)

なお、台湾における1999年の中部大地震(集集地震とも台湾では呼ばれている)は、死者が2400人以上という強烈な地震だった。

そこで露呈された、近年の台湾で特徴的なビルの構造(1階を店舗に利用させるために、1階の耐震構造が

極端に弱くなっている)に対する反省が高まり、耐震基準も改訂されて、新しいビルは強度が高まっているのが実情だ。

 

しかし、今回の震源地とされる花蓮県というのは、東部の最も貧しい地域(国民党の影響力が比較的高いようだ)であり、そのようなビルの改築など、なかなか進んでいなかったのが実情だろう。

 

そこで、静岡の川勝さんの話に戻る。

 

川勝という人は、一昨日の『静岡県の新規採用職員に対する訓示』でとんでもないことを言ったという。

たしかに、彼の発言を文章化したものを見ると、実に『馬鹿げたこと』を平然と言っている。

 

 

 

これは、いわば『普通のオヤジ』の居酒屋トークみたいなものである。

というのは、得てして、官僚などといった存在は、あまり大して偉くない連中を含めて、似たような意識を持っているものである。

 

つまり、俺たちのやっていることは、『下々の者』とは異なっている。『高い知性』が必要とされるような仕事であり、つまり、『俺たち』は『彼ら』(一般庶民)とはいわば『人種』が違っているのであり、『知的な存在』であり、『エリート』なのだと。

 

そうした類のことを、私がこれまで接触してきた範囲でも、国税庁の中央で働いている)下っ端の者でも、あるいは経済産業省の官僚になりたての連中でも、あるいは、中央でなくとも、東京都の23区の区役所の政策を立案する部門の若手の職員なども、そういう意識に(大なり、小なり)染まっている輩が多いということを感じてきた。

 

川勝さんが、少し、それらと違っていたのは、わざわざマイクが持ち込まれている(静岡県庁の新入職員の歓迎の場なのだから、ローカルのメディアにとっては、ある種『必ず、取材をしなければならない』イベントなのであろう)そういった場で、ぺらぺらとそのような発言を『無邪気に』してしまったことだろう。

 

川勝という人は、1948年の8月生まれで、現在75歳というのだから、同じく1948年中に生まれた私と、同年配である(彼のほうが、何か月か『お兄さん』ということになるが…)。

 

それで、一体、どういう表情、様子でこんなことをしゃべったのかと思って、この式典の様子をとらえた動画を見てみると驚いた。

 

 

何と、彼は、原稿もなしで、何も見ずに『即興』でしゃべっているのである。

彼は、『原稿なし』で『即興』に『歯に衣着せぬ』本音の発言をするというのを売りにしてきたらしい。

 

しかし、この人は、(どの程度)頭が良い人なのか、私などにはわからないが、既に静岡県知事を2009年からというから、14年間もやってきているということ(その間に、彼は完全に『お殿様』気分で、『自分が県庁で一番、賢い』という満足感を長期にわたって味わってきたのであろう)、そして逆に、その間、自分自身の頭も精神も、その分、『老化』『劣化』してきてしまっていることに、気がつかなくなっていたのだろうと思う。

 

繰り返し、指摘されていることであるが、彼は何も、今回の『訓示』のなかで、『野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったりとかと違い』みたいなことを、わざわざ言わなくとも、『君たちの仕事』は、『知性を必要とする政策作り(シンクタンクみたいなこと)』であり、そのため、『普段の努力が要求されるのだ』、そういう『仕事』に誇りを持って、また、『感性なども豊かにしながら』取り組んでいってほしい。

 

そんなことくらい言えたはずである。

(あるいは、『野菜』『牛の世話』『モノ作り』をわざわざ言いたいのであれば、間違いなく、こういう人たちこそが、静岡県の底力を生み出している人たちであり、そのことは『私たちは決して忘れてはならない』というのが、普通のモノの言い方であろう。)

 

だが、ここは、『高齢化による劣化』さらに、『増長、慢心による鈍化』のせいなのだろうか、彼はわざわざ、『野菜を作る人、牛の世話をする人、さらにはモノ作りをする人』すべてに対して、『そういう人たちとは異なり、知性が求められる』とやってしまった。

 

これは、普通の人間の理解力からすれば、公然と、『野菜を作る人、牛の世話をする人、モノ作りをする人』を馬鹿にして、侮辱する発言だったと言われても、文句の言えない『暴言』であろう。

 

だが、よくよく動画を見てみると、彼は、聞き手の表情などを見ていると、とっさに、『何か面白いことを言わなければならない』という衝動に駆られたような妙な表情をうかべている。

 

そして彼は、前任者が官僚出身ばかりで、面白くない知事が続いたのを、学者出身でありながら、(暴言的な要素を含みながら)本音を語る、『型破りの知事』として人気をはくしてきたらしいことが読み取れる。

 

 

しかし、恐らく、その長期間の治世において、『身内の場』ではもっと、『外には出せないような乱暴な物言いの仕方』をしてきたのではなかろうか、という感じも受けている。実際、この間、何度も下記の記事にまとめられているように、『誰か、あるいはどこかの地域』を意図的にさげすんで、『こちらの側』の優位性を誇るというようなトランプとある意味では、同じ類の『ポピュリズム・トーク』を駆使してきたようである。

 

そのため、『もう二度と不適切な発言はしないようにする』といわば、県議会の場で、誓いを述べさせられ、どこかの誰かと同じように、『私は生まれ変わる』『もう不適切発言は繰り返さない』などと、約束させられた後の今回の出来事である。

 

川勝さんは、いつから『粗暴な物言い』『挑発的なモノ言い』を(賭博常習犯のように)やめられなくなったのかはわからないが、今回、もう一つ興味深いのは、彼が、どうやら『メディア』がいち早く批判の手を挙げたのにショックを受けているらしいということである。

 

特に、『読売新聞』の『地域版』が最初に大きくこの発言を取り上げたのに、ショックを受けたというような報道も一部ではされているようだ。

 

彼としては、『読売新聞』は自分の身内の新聞だと思っていたらしい節があり、(静岡県政のどういうメカニズムがそう思わせるのかわからないが…)どうやら、今は自民党が『金と政治』の問題で揺れているので、自分は、『自民党系』ではないし?、かなり『挑発的なモノ言い』を現時点でしたとしても、それは許されるのではないかと勘違いをしていた気配が見られる。

 

それに、興味深いのは、彼が二日になって『番記者など』を対象に、『囲み会見』を行った際に、『6月の議会をめどに辞職をします』と発言した直後、どの記者も、彼に対して、『どうしてですか』『ここで辞めるということにはならないでしょう』と瞬時に声を挙げることをしなかったことである。

 

それはもしかしたら、川勝知事としても『予想外』『計算外』であったのかもしれない。もし瞬時に、『異論、反論、オブジェクション』が記者連中から出ていれば、彼は、『…ということも考えたんだけど、それはやっぱり無理だよなあ』などと、ある種の『お笑い』『ジョーク』にすり替えることで、『自分の任期』(来年の?月まで、まだ1年以上もあるらしい)を全うすることもあるいは出来たのかもしれない。

 

ところが、どういうわけか、このように『おとなし過ぎる記者連中』ばっかりになってしまったために、一種の『観測気球』として、『辞任』の話を出しただけなのかもしれないのに、かえって、『以上です』という間の抜けた『結語』を述べることで、自分で自分自身の退路を断ってしまうことになった。

 

どこからこうなったのかはしらないが、川勝知事が、5期目(16年?)の任期を全うしようとする計画は、破綻することとなってしまった。

(どこかで、既に『嫌気』が臨界点を超えてしまい、『やめたいという衝動』に駆られていたのと、『JRのリニア中央新幹線』の品川-名古屋間の開業時期が、当初の27年という予定をJR東海が『断念』する意向を、先月既に示していたことで、『とりあえず、勝利?した』という高揚感があったのかもしれない。)

 

もっとも、『辞任の時期』はいまだにはっきりしていない部分が残っているし、それと合わせて、彼が受け取るであろうボーナスとか退職金の金額も、今のような経済状況のもとでは、『袋叩きの対象』になる可能性があることも、ほぼ間違いがない。

 

それから、ここで一言付け加えておけば、彼の言う、『県庁の職員』は、『シンクタンクに働く人々』と同じく、『高い知性』が要求される『選ばれた人々』であるという論理は、実は『新聞』とか『大手メディア』が『社会の木鐸』などという表現を使いながら、密かにもっているらしい『自負』『エリートの論理』と重なり合う部分がある。

 

そして、そのような『臭み』に対して、今日、『反発』を感じるばかりに、『マズゴミ』などといった『不快な表現』に飛びつく人たちが、いつの間にか非常に増加してしまっているのであろうけれど…。

 

そういう意味では、川勝知事の事件は、『朝日新聞』にも『読売新聞』にも『日本経済新聞』に対しても、起こりうる(あるいは既起こっている?)ような『新しい波』だと言えるのかもしれない。

 

それにしても、4月1日に川勝さんの『訓示』を聞いたばかりの新入職員たちも、(あるいはその親御さんたちも)さぞかしびっくりしたことであろう。