この記事の続きだ。
今日は、大晦日。
最近書いた記事で、『尻切れトンボ』状態になっていたものの『後篇』(最終回)を書いておこう。

この本の著者、樋田毅さんは1952年生まれ。
早稲田大学卒業後に、『朝日新聞社』に入社、記者を務めた後、『大阪秘書役』という偉いんだか、閑職だかよくわからない職に長くついた後に、2017年に退社。
その後、『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』『最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム』などという、ちょっと不思議な題名の本も出版している。
いわゆる『朝日系文化人』の優等生でもなければ、『反朝日』を売りにする元『朝日新聞記者』(最近、ゴロゴロいるような人たち)という類とも異なっているようだ。

この人の運命を変えてしまったのは、愛知県の高校から一浪して入学した早稲田大学第一文学部。
そこで同じ語学系クラス(とはいえ、一年上の所属だが)の川口大三郎君という学生が、革マル派の学生たちの集団リンチに遭遇して、『虐殺』されてしまった。

ところが、大学側は、『革マル派』を一種の『用心棒代わり』にしていたようなところもあって(自治会費を、学生たちから強制徴収して、革マル派自治会に納入していた)、このような『殺人事件』が起こっても、反応はにぶいまま。
(どうせ、『過激派学生同士の内ゲバでしょ?』といった感じか。)
また、学生たちも、『俺たちには、関係のない話だ』とばかりに、(革マル派の暴力を恐れつつ)沈黙したまま。
ここで、もともとは、『ボート部の活動と麻雀など』で明け暮れていた樋田さんとその仲間たちは、ある種、『ブチ切れ』てしまったようだ。
そして、『革マル派自治会のリコール』と『再建自治会の確立』の運動が、樋田さんらが所属していた第一文学部と第二文学部を中心に、『反乱』のような形で起きた。

『理論よりも仁義とか、熱情』が好きらしい樋田さんも、そうした運動の中心の一人にいつの間にか、巻き込まれ『新自治会の委員長』になってしまう。
だが、こうした『素人たちの運動による熱狂?』はいつまでも続くものではない。
『革マル派』のようなプロ集団?は、運動の退潮を見計らって、鉄パイプによる『鉄槌』を樋田さんらに浴びせるようになる。
それも、第一弾は『警告の鉄パイプ』、それでも運動をやめないと知るや、(一か月後)今度は徹底的に痛めつけようとして、白昼、『こいつが樋田だ』と叫んで襲撃し、執拗に鉄パイプの攻撃を加えた末に、『学館(革マル派が拠点としている第一学生会館)へ連れていけ』と連行されそうになる。
そんな所に連れていかれれば、『川口君』と同じ状況になるかもしれぬと、樋田さんが抵抗すると、さらに鉄パイプの連打を浴びせられた。
(一か月にわたって入院することになる。)
その後も、樋田さんたちは、新自治会の運動を拡大し、『川口君虐殺一周年』を機に『革マル派包囲』の運動を展開しようとする。

しかし、こうした中で、『革マル派の暴力に対抗するには、暴力しかないのではないか?』とか、『単純な民主主義の運動では、勝てないのではないか?』といった風潮が広がっていった。
また『革マル派包囲』の運動のなかに、各種のセクトが介入するようになる。
そして、『直接行動』『直接民主主義』を標榜する学生たちが、『新自治会』の運動を『ナンセンス』と批判し、樋田さんたちの運動はそれこそ『孤立していく』ようになる。
最終的に、早稲田大学の教授会は、繰り返し機動隊をキャンパスに入れるようになり、『一般の学生たち?』を基盤とした、『新自治会』の運動は、破綻=終焉を余儀なくされる。
樋田さんたちは、『闘いを終える決断』をした。
(しかし、その後も、樋田さんの後を追って、樋田さんの妹が早稲田大学に入学すると、『自治会を混乱させた樋田一派を文学部キャンパスから追い出せ』というビラが撒かれていた。
また、サークルに入ろうとして、サークル巡りをしていた妹さんが、自分の名前を名簿に書くと、先輩の女子学生から、『あなた、樋田さんの妹なの?』と怖い顔で聞かれ、妹さんは、『いえ、違います。そんな人は知りません』と言って逃れたという。)
このように、『運動の宴の後』を長期にわたって描いているところが、この本の注目すべきところだろう。
樋田さんは、やはり『朝日新聞社の優等生記者』とは違ったタイプのようで、『朝日』に入社して以降も、会社と軋轢を起こしたりして、どうやら『危険人物』視されていたようでもある。

この本の(それにとどまらない)面白さは、樋田さんが、『川口君虐殺』にかかわった革マル派の学生たちのその後も、追いかけ続けていることである。
(これを、『朝日新聞』の権威を借りて追いかけ続けたように受け止めている向きもあるようだが、そういうのとはちょっと、質的に異なっているという気がする。)
意外にも『革マル派』の学生たちの中には、川口君の死を深刻に受け止めて、それを機に、『自己批判書』を書き、なおかつ、革マル派の組織的活動から身をひいた人物もいたという。
(当時の早稲田大学第一文学部自治会の委員長だった田中敏夫という人。)
そればかりではなく、その人は、何度も川口君の遺族に謝り続けて、さらに刑務所から出所後も、(若いころ、革マル派の運動にともに共鳴して、結婚した)妻に対しても、『集団狂気に満ちていた』『全く意味のない争いだった』『すべて私に責任がある』と繰り返し、独り言のように語ったそうだ。
(これは、『日本の戦争』に駆り出された多くの元軍人たちが残している記録と、よく似ている。)
そして、早い時期から体調を崩し、(樋田さんが話を聞きに行く直前の)2019年には、病気で既に亡くなっていたという。
さらに、樋田さんたちが早稲田大学で遭遇した時は、『革マル派のなかの肉体派というか行動派』のようであり、ひたすら『ゲバルトを行使』することを喜び?としているかのように見えた、『革マル派の一文自治会副委員長』。
この人は、いつの間にか、運動から足を洗い、また世界各国を放浪した末に、日本で『評論家』として知られるような存在となっていたという。
その、大岩圭之助(『辻信一』というペンネームで評論家としても、一部では有名?)という人との、インタビューの内容も、この本の末尾には収録されている。
こうしたことについて、まるで『朝日新聞元記者』という権威を行使して取材したようで不愉快であるというようなコメントを寄せる人もいるようだ。
(物事の感じ方は、人それぞれという気がする。)
しかし、私は、樋田さんが50年間に渡って、『川口大三郎君虐殺』あるいは大学教授会の無責任、あるいはメディアの<ただ表面現象のみ追いかけて、樋田さんたちの地味な『新自治会運動』をいわば『見殺し』にしてきたかのような、無責任さ>を追いかけてきた活動というのは、今のような時代だからこそ、『意味がある』という気がしている。

例えば、今まさに『圧殺行為』が進行している香港の人たちの闘いというのも、この早稲田大学における第一文学部の(一般?)学生たちの『決起』と似ているところがある。
『直接行動』と『直接民主主義』を訴える、ある種の『過激な人々』の活動が分岐を形成し、『これ見よがし』の派手な活動を、香港のデモのなかでも行っていた。

ところが、やがてこうした活動を理由にして、香港行政府またその背後にいる習近平政権、中国共産党は、香港の地に『全面支配』を強行しようとしてきた。
(また、香港から逃げることのできる人々は、どんどん逃げていっているようでもある。)
このような時代だからこそ、1972年に、早稲田大学のキャンパスで何があったのかを、もう一度、記憶を掘り起こしてみるのも、意味のある行為だと言えるのではなかろうか?
そんな気がしている。