James Setouchi
2025.10.26
ドストエフスキー『悪霊』 各種文庫にあるが光文社(亀山郁夫訳)で再読。
Фёдор Миха́йлович Достое́вский “Бесы”
1 作者ドストエフスキー 1821~1881
19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。父はモスクワの慈善病院の医師。1846年の処女作『貧しき人びと』が絶賛を受けるが、’48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。この時持病の癲癇(てんかん)が悪化した。出獄すると『死の家の記録』等で復帰。’61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中(ただなか)にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、『地下室の手記』を皮切りに『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』等、「現代の預言書」とまで呼ばれた文学を創造した。 (新潮文庫の作者紹介から。)
2 ドストエフスキー年譜 (NHKブックス 亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学』の年表を参考にした。)
1821( 0歳)帝政ロシア時代の地主の家に次男として生まれる。
1834(13歳)モスクワのチェルマーク寄宿学校に学ぶ。
1837(16歳)母マリヤ、結核で死去。ペテルブルグの寄宿学校に学ぶ。
1838(17歳)中央工兵学校に入学。
1839(18歳)父ミハイルが農奴によって殺される。
1843(22歳)工兵学校を卒業、陸軍少尉となる。工兵局に就職。
1844(23歳)工兵局を退職。『貧しき人々』の執筆に専念。
1845(24歳)『貧しき人々』完成、べリンスキーの絶賛をうける。
1847(26歳)ペトラシェフスキーの会に接近。べリンスキーとは不和。
1848 (マルクス「共産党宣言」)
1849(28歳)ペトラシェフスキーの会のメンバーとともに逮捕。死刑宣告ののち恩赦でシベリア流刑。
1853~56 クリミア戦争
1854(33歳)刑期満了。シベリア守備大隊に配属。
1857(36歳)知人イサーエフの未亡人マリヤと結婚。
1859(38歳)ペテルブルグに帰還。
1860(39歳)『死の家の記録』の連載開始。
1861(40歳)農奴解放宣言。だが農奴は土地を離れ貧困化し大都市に流入した。
1864(43歳)『地下室の手記』。妻マリヤ、結核のため死去。
1866(45歳)『罪と罰』連載開始。
1867(46歳)速記者アンナと結婚。
1868(47歳)(明治維新)
1871(50歳)『悪霊』連載開始。
1875(54歳)『未成年』
1879(58歳)『カラマーゾフの兄弟』連載開始。
1881(60歳)1月死去。3月、皇帝アレクサンドル2世暗殺される。
1904~ 日露戦争
1917 ロシア革命
3 『悪霊』極めて簡単なあらすじ(少しネタバレ)
ロシア帝政も揺らいできた時代。ある県庁所在地。ステパン氏の子ピョートルとワルワーラ夫人の子ニコライがヨーロッパから帰ってきた。二人は何かしら政治的な陰謀を企てているようだ。貴族のパーティーが台無しになり、殺人や放火が起こる。町は大混乱。やがて革命の秘密結社内部に殺人が起き、関係者が次々と死んでいく。ステパン氏は絶望し旅に出る。彼らに救いはあるのか?
4 主な登場人物(かなりネタバレ)
ステパン・ヴェルホヴェンスキー:ピョートルの父親。西洋的進歩思想の持ち主。ワルワーラ夫人の友人。美を至上命題とする、時代遅れの知識人。善良な人物だが・・最後はキリスト教信仰に立ち返る。
ワルワーラ・スタヴローギナ:ニコライの母親。貴族・大地主・大金持ちで町の有力者。
ピョートル・ヴェルホヴェンスキー:ステパン氏の息子(本当か?)。ヨーロッパで流行の革命思想の信奉者。社会転覆(てんぷく)の計画のためにニコライを使って策動(さくどう)する。平気で嘘をつく。共産主義者(コミュニスト)・社会主義者(ソーシャリスト)と言うより、無神論者・ニヒリストで、暴力的無政府主義者(アナキスト)と言うべきか。旧来の秩序の破壊を目指す。(すべての無政府主義者が暴力的というわけではない。念のため。)
ニコライ・スタヴローギン:ワルワーラ夫人の息子。美しい青年で女たらし。神も人間的権威も信じず、思うままに行動し、町に混乱をもたらす。西洋的教養を持つが、ロシア語の筆記は不十分。(スペシネフという過激な青年がモデルだと言われる。)
キリーロフ:技師。独自に思索し人神思想にとりつかれ哲学的自死を決行。自死をピョートルに利用される。
シャートフ:農奴出身。ピョートルの革命結社の仲間だったが、良心ゆえに転向し、仲間に殺害される。思想はロシア・スラヴ主義的。
ダーリヤ(ダーシャ):シャートフの妹。ワルワーラ夫人の養女。ニコライに恋する。一時ステパン氏との縁談が持ち上がる。
マリヤ・シャートワ:シャートフの妻。夫と長年別居していたが、この町に来てニコライの子を出産する。
マリア・レビャートキナ:ニコライの妻? 障がいがある。カード占いをする。悪党フェージカに殺害される。
レビャートキン大尉:マリアの兄。飲んだくれ。ニコライにたかっていたが・・若い頃読んだときは(困った飲んだくれだな)と思ったが、今回再読して、『罪と罰』の飲んだくれのマルメラードフを連想、彼はどうしようもない飲んだくれではあるが、彼もまたいいようのない悲しみを抱え苦しむ一人だと感じるようになった。
リーザ:貴族の娘。ニコライに誘惑され苦しむ。騒動の中で大衆に撲殺される。
シガリョーフ:革命結社の一人。奇妙な全体主義体制を夢想するが・・姉は助産婦のアリーナ。
ヴィルギンスキー:革命結社の一人。町の役人。妻は助産婦のアリーナ。つまりシガリョーフと義理の兄弟。
リャームシン:革命結社の一人。「事件」の時発狂したようになる。最後はすべてを自白する。
リプーチン:革命結社の一人。県庁職員。噂好き。フーリエ主義者。
トルカチェンコ:革命結社の一人。
エルケーリ:革命結社の一人。ピョートルに心酔(しんすい)する若者。
カルマジーノフ:大作家。ワルワーラ夫人の遠縁。モデルはツルゲーネフで、戯画化(ぎがか)されている。
レンプケー:知事。若者たちに引きずり回される。年上の妻に頭が上がらない。
ユーリヤ:知事夫人。ピョートルに手玉に取られ県を混乱に陥れる。
フェージカ:流れ者の悪党。もとヴェルホヴィンスキー家の農奴(のうど)。ステパン氏の賭博(とばく)の負けの「かた」として売られた。ピョートルに使われ殺人を行う。
ソフィヤ:ステパン氏が旅先で出会う、聖書売りの女。心の清らかな女性。
チホン僧正:ニコライに「完全な無神論者は、完全な信仰に至る一歩手前の階段に立っているが…」と語る。「チーホン僧正は、極悪非道の怪物のごとく見えるスタヴローギンがマトリョーシャの幻覚に悩まされたという事実から彼の中に残されている人間性に気づいたものと思われるが、・・」「チーホン僧正は正に病みながら生きる治療者だった」と高橋正雄「ドストエフスキーの『悪霊』―病みながら生きる治療者」(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2007年10月号)は言う。
G:アントン・ラウレンヴィチ・G。この物語の語り手。ステパン氏の友人で若い世代。事件に立ち会い、関わる。完全な局外中立者・神の目を持つ者ではない。すべてが終わった後で書いている。亀山郁夫によれば、ヨハネ黙示録の記者にも比すべき存在。この語り手はドストエフスキー自身と一体ではない。私見だが、ニコライの悲劇の原因やピョートルのその後について遂に見抜けず語り得ていないのであるから、神の目を持つ者ではない(当然だ)。
5 『悪霊』 (米川正雄訳、江川卓訳、亀山郁夫訳など各種の訳がある。光文社文庫には亀山氏の解説が付いており勉強になるが、以下の記述は、亀山氏にかなり引きずられてしまった。)
上の登場人物紹介からもわかる通り、世界最凶の作品の一つ。テロリスト仲間のリンチ殺害は、当時実際にあったネチャーエフ事件に材を取っている。悲劇的な死を迎える人が続出する。しかもそれはニコライやピョートルの陰謀やそそのかしによる。実に不愉快きわまりない事件が続く。二十代で読み、ニコライやピョートルが年代的に近かったが、ピョートルが卑怯(ひきょう)な嘘つきで嫌いだ、ニコライは深刻だ(私は女たらしの無神論者ではないが)、全体に残酷で陰惨だ、というわけで、なかなか再読する気になれなかったが、今回亀山訳で再読。やはり陰惨で不快なシーンが多いのでその点は読みづらいが、全体としては面白い。自分が年を取ったので、若者ではなくステパン氏に感情移入しながら読んでいた。この点は大江健三郎も亀山氏も同じことを言っている。だが、19世紀のロシアのこの小説は、色々な点で21世紀の日本の諸問題を照らし出している。これは、現代の話だったのだ・・・
人が大量に死ぬ小説だ。救いはあるのか? ・・・救いへの道はある。ラスト近く、失意のステパン氏は旅に出て、聖書売りのソフィヤと出会い、聖書の文言を読む。「悪霊」とは、聖書ルカ伝8-33の、悪霊(あくりょう)が豚どもに入り崖から墜落(ついらく)して集団死するところから取った題名だと分かる。ステパン氏は、「どうです、これはわがロシアそのままじゃありませんか」と言う。だが、悪霊はみな豚と共に溺(おぼ)れ死に、悪霊から解放された人々は癒(いや)された、と聖書にはある。ステパン氏も「病人は癒えて、≪イエスの足元にすわる≫…」と口にする。最後はステパン氏は旅の途上で病死してしまうが、キリスト教信仰に立ち戻ったと見るべきだろう。悪霊に憑(つ)かれた若者やステパン氏も含む大量死の結果、悪霊は地上から消滅し、あとには敬虔(けいけん)な信仰者の世界が残る、という図式にはなっている。ドストエフスキーは欧州渡来の無神論・科学主義・進歩主義・革命思想から距離をとり、ロシア伝来のキリスト教信仰(民衆の)に立ち戻る立場を表明しているのかもしれない。表面だけ見れば欧州渡来の近代思想を否定しロシア土着主義に回帰する思想を表明したものとも読める。(亀山郁夫は、作家は革命派への理解も書いている、「二枚舌」だと言う。)
現代なら、「どうです、これはわが21世紀の世界そのものじゃありませんか」と言うところだ。現代は言わば悪霊の跋扈(ばっこ)する世の中であるが、しかし、我々にもまた、悪霊から解放される日が来る、という希望をドストエフスキーは書きこんでいると読める。だが、日本において立ち戻るべき伝統・土着思想とは何か? は、そう簡単な話ではない。明治帝国はすでに伝統を逸脱(いつだつ)している。漱石などを読めばはっきり分かる。江戸に戻ればいいのか? もっと以前は? 誰かさんは明治帝国主義を伝統日本だと勘違いしているようだが、どうして、西洋化した帝国主義国家は日本の長い伝統から見れば歴史の浅い話ではある。
なお、「スタヴローギンの告白」も恐ろしい内容だ。十代では読まない方がいいかもしれない。これを含む部分を作家は当初書いていたが、あまりに陰惨な内容を出版社が嫌い、この部分を割愛(かつあい)して公表していた。のち公表。本により、また日本では訳本によって、この部分の扱いは違う。光文社文庫版(亀山訳)では、ある形で入れてある。
本作の舞台は、架空の県庁所在地と郊外の別荘地スクヴォーレシニキ。県庁所在地のモデルはヴォルガ川沿いの小都市トヴェリ。モスクワから北西へ200㎞ほどの町だ。ペテルブルグも皇帝のいる都として出てくる。過去の出来事としてスイス(欧州の進歩・革命思想の拠点)での出来事も語られる。ラスト近くでは、スパーソフ(救済の村)の町を望むある湖が出てくる。そのモデルはイリメニ湖(ノヴゴロド近く)だそうだ。(亀山氏の読書ガイドによる。)
時代は、1860年代と思われる。クリミア戦争・農奴解放以降で、ロシアの体制は揺らいでいる。農奴解放(1861年)で解放された農奴は、貧困化し犯罪者となる場合も多かった。他方解放農奴でのびのび暮らしている人も書き込んである。力のある新興商人や豊かな百姓も出てくる。欧州の教養と進歩思想がロシアに入ってくる。他方、伝統的なロシアの貴族・大地主は存在し古い価値観にしがみつくが、その権威は揺らぎつつある。スイスで革命思想を学んだ若者たちがロシアに帰ってきて社会を混乱に陥れる。工場労働者のストライキも発生。すでに古い時代の楽観的進歩主義者たちの出る幕はない。・・おお、どこか現代の日本のような・・?
ピョートルが革命集団を標榜(ひょうぼう)して破壊工作を繰り返す。シャートフが裏切り者と見なされて殺害される。ピョートルは、メンバー皆で殺人を犯すことで団体の結束を固めようとしたのだ。しかもキリーロフを自死に追い込み全ての罪をかぶせる。ここのくだりは非常に不快で陰惨だ。過激派集団のリンチ事件を予言した作品とも言われる。このようなことは、政治的極左、極右だけでなく、カルト宗教や犯罪組織などにもあるかもしれない。例えば新選組は仲間を裏切り者として粛清(しゅくせい)している。怖ろしいことだ。埴谷雄高(はにやゆたか)は『死霊(しれい)』で同様のリンチ事件を描いた。読んでいて(こうして思い出しても)気分が悪くなるほどの描写だった。
ピョートルは最も悪い奴で、事件の首謀者で、他の仲間を唆(そそのか)しては動かし、最後は自分だけ逃亡する。リャームシンやヴィルギンスキーは自白する。彼らにも人間的良心が残っているので読者はほっとする。リプーチンは逃亡するが良心の呵責のためか酒浸りとなり逮捕される。トルカチェンコも逃亡ののち逮捕され自白する。年少のエルリーケは最後までピョートルを信じ、悔悟(かいご)しないので、最も深刻だ、年少で純粋な者が革命党派の犠牲者になりやすい、と語り手Gは書いている。殺害現場から去って犯罪に加担(かたん)しなかったシガリョーフは無罪放免の方向だ。ピョートルは読者にとって悪人だが、他のメンバーは多少なりと人間性のかけらを持っていたのが救いだ。
では、ピョートルには救いはないのか? 語り手Gの語りからはピョートルの救いは見えいくいが、臨終のステパン氏の述べる言葉(第3巻第7章。後述)には救いの可能性が示唆(しさ)されている。ピョートルは、共産主義者(コミュニスト)でも社会主義者(ソーシャリスト)でもなく、無神論者で破壊活動を行う、悪しき無政府主義者(アナキスト)と言うべきだろう。(無政府主義者=アナキストが直ちに暴力的破壊活動を行うわけではない。念のため。穏健(おんけん)な人もある。昔のヒッピーも一種の無政府主義者?)私は、現代の我々は、一人のピョートルも出してはならないと考える。革命家・社会改革者を出してはならないという意味ではない。ピョートルは何も信じず人を引きずり回し不幸にする人間だ。根本的に不幸なのだ。そういう人間を出してはならない、という意味だ。では、どうすれば? ピョートルは父親がステパン氏でないかも知れない。しかも親元を離れ首都や外国で特殊な教育を受けている。西洋の進歩思想・革命思想・過激思想の洗礼も受けた。もしかしたらニコライに対する報われない同性愛(当時はタブーだったろう)の気持ちを抱いていたかも? それにしても・・・?
ステパン氏は進歩的思想家だか今は落ち目だ。過去の栄光にすがり自分は偉大な何者かだと思いたがっている。世話になっているワルワーラ夫人が好きだが告白できないまま二十年が経った。二人の間はもめたり仲直りしたりの繰り返しだ。見ようによっては大人のドタバタ・ラブコメだ。面白おかしい小説だ、と笑う人もある。・・だが、その後のロシアの歴史を私たちは知ってしまっている。ソビエトの革命により、帝政ロシアの体制は崩壊、恐らくワルワーラ夫人は領地は没収、もしかしたらその前に西欧に亡命したかもしれない。・・帝政ロシアが崩壊してもソビエトになってもソ連が崩壊しても残る普遍的なものとは何か?
レンプケー知事とユーリヤ夫人の関係も、喜劇的悲劇だ。レンプケーは年上のユーリヤに頭が上がらない。ユーリヤはピョートル始め若者たちを受け入れて善導するつもりで、結局は全てを失う。知事夫妻が夫婦げんかをしてもめているところに革命党派の騒動が持ち込まれたので、知事が判断を誤り、余計に混乱が大きくなってしまった。実につまらない理由で社会が混乱する。でもそういうことはありうるだろう。知事や知事夫人といえど、所詮(しょせん)は欠点だらけの人間だ。
キリーロフは神はいないとして、自分が神になる、そのために全くの自由意志で自死してみせる、と宣言し、決行する。それがピョートルに利用される。ここも残酷な悲劇だ。キリーロフは本当に自由意志から自死したのだろうか? そこまで追い詰められた孤独な思索(しさく)を展開し、最後はピョートルに誘導されて死ぬのであるから、これも自由な自死というよりは、誘導された他殺と言うべきではあるまいか? キリーロフを自死に誘導したのは、一つには欧州近代の無神論であり、二つにはピョートルの陰謀だが、三つ目の要因として、キリーロフの孤独な日々が挙げられるかも知れない。彼は一人で思索し一人で自分を追い詰めていく。どうしてキリーロフは孤独な生活に陥ったのか? それも当時のロシア社会の急速な変化のためではあろう。キリーロフのような孤独な若者を出さないためには、どうすればよろしいか? 現代日本ではこの問題こそ重要かも知れない。
現代の日本では、どうであろうか? 孤独に陥った人が自暴自棄になって事件を起こしてはいまいか? 暴力事件を肯定するわけではない。若者を見棄て追い詰める社会に問題があるのではないかと問題提起しているのだ。「経済成長の役に立つ『人材』を育成します」などと声高に言う社会は、危険ではあるまいか? 人間それ自体の尊厳が見失われているのではないか? 本当に大切なことは、何であるのか?
ステパン氏は全てを捨てたった一人歩いて旅に出る。その途上、聖書売りのソフィアに出会い、久しぶりに聖書を読み、キリスト教信仰に立ち戻る。ソフィアは敬虔(けいけん)で善良な聖書売りの女だ。この村から船が出れば対岸の町につける。そこには何かしら安息(あんそく)があるだろう。
・・だが二人は船で対岸には行かない。ステパン氏は病をこじらせて死ぬ。モーセが約束の地を前にしてピスガの山で死ぬように。死後は天国(そこで神みずからわが涙をぬぐい給う)へと行くにせよ。ソフィアは湖を渡って対岸の町に行くことをせず、スクヴォーレシニキのワルワーラ夫人のもとに身を寄せる。憧れの(理想の)町は彼方に望見できるが、そこは望見できるだけであって、彼らはそこに行くことはない。彼らの生きて死ぬ場所は、こちら側だ。だが救済・安息の地は遥かに望見できる。これは『罪と罰』のラストと同じ構造だと私は思った。では、私たちの現代の生活においては、どうか?
ニコライは心優しいダーリヤに救いを求めるが結局混乱のうちに自死する。ニコライは極悪人のニヒリストではない。やはり悩める若者の一人だった。ニコライに生きる道はなかったのか? ニコライについに救済はないのか? ニコライは本当に悲劇だ。(複数の女性に手を出すので悪いことは悪いのだが。美男子のダメなところだ。これも現代日本にいますよね? 女子諸君、気をつけたまえ!)(イエスを裏切って自死したユダに救いは絶対にないのか? と問うことも出来る。)ニコライの場合も親元で育たず首都や外国で育った。ロシアの貴族という出自(しゅつじ)を憎んでいるかも知れない。(太宰治も地方の名家の出自でくるしんでいた。名門に生まれたから親ガチャ成功、というわけでもない。あれはあれで大変だ。)ニコライは西洋の教養を学んだがロシア語が不得手だ。美貌(びぼう)で腕力もあり女性にもててしまう。過去の自堕落(じだらく)な生活での酒の飲み過ぎで脳に病が生じているかも知れない。あるいは、性病(梅毒)か? それら全てが彼を不幸に落とし込んだ要因だと言える。ニコライのような不幸な若者を出さないためには、どうすればよいのか?
「悪霊」とは何か? 西洋を跋扈(ばっこ)する、無神論、進歩思想、近代主義、革命思想のすべてが「悪霊」であり、人間をロシアの大地から引き離し空疎(くうそ)な観念論で奔走(ほんそう)させた挙げ句に死に至らせる。同時に、形而上的な字義通りの「悪霊」(神にそむく霊)を作家は考えていたに違いない。ピョートルやニコライやキリーロフの取り憑(つ)かれた思想が「悪霊」であり、彼ら自身がもしかしたら「悪霊」的存在であり、彼らに取り憑いた形而上(けいじじょう)の何かが「悪霊」だということだろう。
人間の身心の欲望のレベルで考えると、ピョートルは他人を自分の陰謀の手段として操(あやつ)り使い捨てる。ニコライは女性を自分の性的欲望を満たすための手段として使い捨てる。かれらはともに、他者を自分の奇妙な革命思想や性的欲望のために使い捨てる人間だ。他者に対する尊敬の気持ちを持たず自己の理想や欲望を絶対視するのが悪霊のしわざだ、と言えるかも知れない。・・今の日本は・・?
キリーロフの場合は、やはり他者に対する尊敬の気持ちを持たず自分の紡(つむ)ぎ出した孤独な観念が絶対だと考えてしまう点で、ピョートルやニコライと同根の病に陥っている、それも悪霊の仕業だ、と言えるかもしれない。・・今の日本は・・?
本作を素直に読むと、ロシアの大地から遊離した西欧渡来の無神論や進歩思想、自己の理想や欲望や観念の絶対視等に取り憑かれるべきではなく、ロシアの大地に根ざしつつ伝統的なキリスト教信仰にたち帰るべきだ、と語り手Gは言っているように見える。(作家・ドストエフスキーは必ずしもそうではなく「二枚舌」だと亀山郁夫は言う。)
だが、どうだろうか。西欧思想を否定しロシア帝政の体制に回帰しようと作家は主張しているだろうか?
そうではない。ロシア帝政下の貴族のあり方ではもうやっていけないと本作は書き込んでいる。新興階級の商人や豊かな百姓や解放農奴(代表例はアニーシムら)たち、また工場労働者たちは、聖人君子ではないが、力をつけて胸を張って生きている。(他方、興奮し熱狂し暴動や犯罪を行う者もある。)
では、作家は、新興階級の活躍する新時代に期待をかけているだろうか? そうかもしれない。だが、進歩主義を信奉(しんぽう)しているようでもない。立ち戻るのは伝来の土着の信仰心だ。
ステパン氏は死ぬ。ソフィアは湖を渡らない。根幹には聖書売りソフィアのような敬虔(けいけん)なキリスト者のあり方を考えていたように私には読めた。死に瀕(ひん)したステパン氏はワルワーラ夫人やダーリヤやソフィアの前で言う、「この世界のどこかに、万人のためにすでに完成された穏(おだ)やかな幸せが存在する」「人間はだれでもすべて、偉大な思想を体現するものの前でひれ伏すことが必要」「あの連中(革命党派の若者たち。ピョートルを含む)は知らずにいる、・・彼らのなかにも、ひとしく永遠で偉大な思想が宿っているということをね」(第3巻第7章)これらが何を意味するかは明記していないが、本作の流れ上、神の約束した楽園であり、キリストであり、キリストへの信仰・キリスト信仰に支えられた人間への信頼であると私は感じている。ワルワーラ夫人は聖書売りのソフィアと共に聖書を売って歩くと言っている。(ダーリアもついていくのだろう。)全てを捨てて歩き始めたステパン氏が聖書売りのソフィアと最後の時を過ごし、ワルワーラ夫人はソフィアとともに聖書を売って歩くと言う。キリスト教だ。
が、ステパン氏はあえてキリスト教とは言っていない。彼は、恐らくはキリスト教的でありつつキリスト教をも包含(ほうがん)する、普遍的な何かへの信頼のようなものを語っている。
帝政ロシアが崩壊してもソ連時代になってもソ連が崩壊しても残るものとは何か? プーチン氏ならスラブ人・ロシア人の生き方だというかも知れない。だがステパン氏の上記の言い方はもっと普遍的だ。キリスト教的でありつつ、それを越えて(包摂=ほうせつ=して)存在する、普遍的な何かへの信頼。単純な西欧の科学主義・理性至上主義・物質主義・無神論でもない。それらはしばしば悪霊の類(たぐ)いだ。(「ににんがし、は悪魔の思想。」byドストエフスキー)他方ロシア的・スラヴ的ナショナリズムへの回帰でもない。もっと普遍的な何かを指向している。
・・これは、現代日本においては、どうであろうか?
だからキリスト教を布教しよう、と考えてもいいが、今のところキリスト教は一定の理解は得られても、全国民に信じられるには至っていない。(先日あるキリスト教の学校の絵画展に行った。受付をしておられたのは神父様だろうが、お顔を見てほっとした。神を信頼している人の顔はどこか安心感がある。絵画にはキリストの事跡などが描かれていた。でも絵画展はガラガラだった。庭では若者が賑(にぎ)やかにやっていたが。)では、どう考えればよいか?
浄土宗・浄土真宗(他力浄土門)の人なら日本にも多い。彼の地には阿弥陀如来がおられる。その慈悲にあずかってこの世を生き抜くのではあるが、臨終を経て必ずかの約束の地(極楽浄土)に往(い)って生きる。「平生業成(へいぜいごうじょう)」思想では弥陀の慈悲によってこの世を懸命に生きる。だがこれも集会に行くと高齢者の役員ばかりだったりする。檀家(だんか)しか仲間に入れない、といった閉鎖的な運営をしていれば、万人には広がらない。ただでさえ仏教語は難しいのに。キリスト教会の方がオープンだったりした。お寺やお坊さんにもよるのだろうか?
真言宗や禅宗や日蓮宗だとどうなるのだろうか? 自ら仏・菩薩(ぼさつ)となってこの世を生き抜くのだろう。この世を何とかしてよくしようよくしようと努力を続けるのだろう。宮沢賢治を見れば分かる。本当に偉い。だが宮沢賢治も早世してしまった。
神社神道は、どうかすると国家神道・軍国主義・偏狭なナショナリズムに陥(おちい)りがちになるので、警戒している。ヤマトとイセは本来二元だしイズモや東北や熊襲(くまそ)や薩摩(さつま)や沖縄などを考えれば日本文化は本来多元なのだが、すぐに純粋国家神道に一元化して日本の歴史・伝統(本来多元的・多文化的で、寛容なもののはず)を歪(ゆが)め他者を排除しようとする人が一部いるので、困ったことだ。ドストエフスキーを解釈するとき「ロシアの伝統と西欧近代」の二項対立で解釈し、日本でも「日本の伝統と西洋(主に西欧とアメリカ)近代」で捉えがちである。その一方の項である「日本の伝統」を一元的なものとして捉えてすませる傾向が過去にはあったが、今では「日本の伝統」はそのような単純なものではないことは、普通に勉強している人なら、誰でも知っている。少なくとも加藤周一の雑種文化論くらいは聞いたことがあるだろう。
新宗教や新新宗教なども多々あるが、(私見では末端の信者さんはまじめでいい人ばかりだが、)今の日本には「宗教こわい」の人も多い。日本人は実は結構宗教的(年中、何かの宗教行事をしている)(年中行事は宗教信仰とは無関係、とは言えない)なのだが、カルト宗教は怖い、の意識が強いのも事実だ。奇妙なカルト宗教があるのも事実だ。例のあそこやあそこは、反社会的活動をするので、ひと様にはお勧めできない。
宗教を取り外し、「自分は無神論者だがそれでも人間を信じる」と渡辺一夫や大江健三郎なら言うかもしれない。『ヒロシマ・ノート』(人間のdignityを証しする)に立ち戻れば私たちの立脚点、拠(よ)って立つべき大地が、見えるのかもしれない。(大江健三郎も晩年はぎりぎりキリスト教徒になりかけていた。)
ドストエフスキー以降、ではどう考えればよいか? は結局現代の私たち自身の問題なのだろう。今の私にも結論はない。・・・作品を読む中で、21世紀現代の自分(たち)の生き方まで考えるよう読者を刺激してくれるので、やはりドストエフスキーは偉大な作家なのだ。
とりあえずここまで。R7.10.26
補足:ヨハネ黙示録3章14節〜「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。・・・」が二度も引用されている。その意味は? ヨハネ黙示録3章14節〜22節「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨(みじ)めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
・・日本基督教団の千葉教会の西岡昌一郎牧師2018年10月7日によれば、(西岡先生有り難うございます。)(なお、ラオディキアはトルコ西部にある)
「ヨハネ黙示録は、当時のラオディキアの教会を「冷たくも熱くもなく、生ぬるい」と言いました(15節)。当時、飲み水は井戸や川から汲(く)み上げられたばかりの冷たい水か、沸(わ)かしたお湯のどちらかでした。中途半端にぬるくなった水は、新鮮さを失い、淀(よど)んで腐りかけています。だから「口から吐き出そう」(16節)となるのです。水は、冷たいか熱いのが良いのです。
黙示録がラオディキアの教会に伝えたのは、あなたたちの信仰が淀んだたまり水のようになって濁り出している、ということです。水は、いつもサラサラと流れていないと、やがて淀みます。新鮮な空気を含んだみずみずしさが必要なのです。ラオディキアの教会は、新しいものを取り入れる気持ちがなく、淀んでしまっていたのです。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」(17節)であることがわかっていません。
これは、どういう意味でしょうか。ラオディキアは大きくて豊かな町でした。それゆえに、自らが神さまからの助けを必要としていることに気づかず、その恵みを渇望する気持ちがなくなっていたのです。要するに、自分だけで満足して閉じてしまっているのです。自分の惨めさや貧しさ、不自由さを知る者たちは、自ずと渇きの心、渇望する心を持ちます。周りに対して開かれるのです。満ち足りていると、いつしか周りとの関係の必要性を感じなくなり、自分を閉ざしてしまい、やがて信仰は活力と命を失なうのです。
だから「悔い改めよ」(19節)と語ります。これは言い方を変えれば、人の痛みと弱さに立って物事を見直せということです。そういう価値観の転換がなくては、いくら悔い改めたと言っても、何にも変わっていないのです。この時のラオディキアの教会に必要だったのは、弱さと痛み、生きづらさの視点でした。
「見よ、わたしは戸口に立って、叩(たた)いている。誰かわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」(20節)。これは、この世の終末の時に、再び来られるキリストの言葉として読むことができます。その時、わたしたちに求められているのは、その主に対する応答(責任)です。主は、わたしたちの心の扉を叩きますが、それを開けるかどうかは、わたしたち自身の信仰と責任の問題です。主のノックに対して応答して、心を開く。自らの貧しさと渇きを覚えなくては、主に対して扉を開けることはできません。」・・・(以下略)ということだった。
おお、これもまさに現代の私たちの話ではないか。
(ロシア文学)プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフ、ソルジェニーツィンら多数の作家がいる。日本でも二葉亭四迷、芥川龍之介、小林秀雄、椎名麟三、埴谷雄高、加賀乙彦、大江健三郎、平野啓一郎、金原ひとみ、などなど多くの人がロシア文学から学んでいる。