James Setouchi

2024.12.7

 

梁石日(ヤン・ソギル) 『海に沈む太陽』筑 摩書房(2005)      

 

1        梁石日(ヤン・ソギル)

 1936年大阪府生まれ。2024年6月に没。著書『血と骨』『闇の子供たち』『夜を賭けて』『族譜の果て』『夏の炎』『裏と表』など。

 

2        『海に沈む太陽』2005年  

 エンタメ(に分類すべきだろう)か? 「イラストレーターであり画家でもある黒田征太郎(注1)の青春時代を下敷きにした物語だが、必ずしも事実ではなく、フィクションである」と巻末に断り書きがある。

 黒田征太郎(1939~)は実在の人物で、高名な画家・イラストレーター。梁石日と親しいらしく、『ニューヨーク地下共和国』にも黒田征太郎をモデルにしたと思われる人物が登場する。黒田征太郎の伝記的事実をどこまで踏まえているか、私は知らない。断り書きにあるとおり、あくまでもフィクションとして読むべきだろう。

 戦争頃に生まれ戦後に青春時代を生きた人物なので、本作は戦中戦後の時代社会の証言にもなっている。性的描写は少しある。喧嘩など暴力の場面がかなりある。性と暴力の記述がダメな人にはお薦めできない。だが、舞台が次々変わり、様々なエピソードがあり、その中で青春の煩悶を抱え、現状をどう突破するか? 現状に不満足な主人公が試行錯誤し挑戦し続ける、面白い物語ではある。

 

注1 黒田征太郎:1939~。大阪の出身。彦根西高校中退。NY生活を経て北九州市在住。陶芸家の黒田泰造は弟。音楽に合わせて絵を描くライブペインティングやホスピタルアートを行う。平和運動も積極的に行う。(wikiから。)絵本、ロゴほか多彩な活動をしている。

 

(あらすじ)(なるべく簡単に)

 曾我輝雅は昭和10年代の大阪・道頓堀に生まれた。母は芸者で妾だった。女に囲まれて生活した。一時大きな邸に住んだこともあったが、空襲で家が焼け、父が亡くなり、窮乏生活が始まった。滋賀の能登川の高校に行っていたが、田舎の狭さと学校のいじめに耐えきれず、家出をして横浜で船乗りになった。米軍のための輸送船に乗り込み、沖縄、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム(注2)を行き来し、兵士や軍需物資を運んだ。戦争にも立ち会った。帰国し大阪のミナミでアウトローの暮らしをする。知り合った美奈子と愛し合い結婚する。美奈子は夙川の大金持ちの娘だった。美奈子の親類から差別され、曾我輝雅はイラストレーターになるべく東京へ。やがて憧れのアメリカへ。カナダでは白人の家の使用人として動物並みにこき使われる。NYで暮らす。懸命の努力で有名な大手デザイン会社に職を見つけ、認められていく。だが、NYにもある狭い日本人の社会。白人女から受けた恥辱をきっかけに、曾我輝雅は、魔窟・NYを離れ、日本に帰り一から出直すことを決意した。

 

注2 ベトナム:19世紀に阮朝という王朝があったが、フランスの植民地となり、一時日本が進出するも敗退、ホーチミンが独立を宣言、フランスとの戦い(インドシナ戦争)が続いたが、フランスが敗退、代わりにアメリカが軍を出してベトナム戦争に突入していった。

 

(登場人物)(ヤヤネタバレ)

曾我輝雅:主人公。大阪で妾の家に生まれ、吃音もある。祖母・母・姉・妹・妹と女ばかりに囲まれて育つ。妾の子として差別され貧しい生活から脱出すべく高校時代に家出をして横浜で船員になる。米軍のための輸送船に乗り組み、兵員や物資を運び、船員たちと交流し、ベトナムで戦場を目の当たりに見る。帰国し大阪に戻りミナミ(中央区の難波・道頓堀などの歓楽街)でアウトローの生活をする。城南大学(本作では関東の金持ちのお坊っちゃんの行く大学となっている)中退を詐称しバーで勤めるうち女学生の美奈子と恋に落ちる。美奈子は実は大金持ちの娘だった。美奈子の親類(エリート)から差別され、東京に出てイラストレーターになろうとするが・・・

曾我美代子:輝雅の母。芸者。妾。

曾我謙治:輝雅の父。九州の貧しい階層から身を起こし戦時経済で成金となるが、敗戦で多くを失い、死んでいく。

曾我輝彦:輝雅の幼い弟。アメリカ、カナダで輝雅と再会する。陶芸の修業をする。

曾我澄子:謙治の本妻。西宮に住む。美代子や輝雅を差別する。

曾我友和:謙治と澄子の間に子がないため貰った養子。大学生。

伊吹昌則:能登川のガキ大将。輝雅をいじめる。

竹山重貴:横浜の船会社の社員。輝雅を受け入れる。

成田勝典:LST(米軍の兵士や物資を輸送する船)の船長。

倉田正三:同上の一等航海士。後船長。

小川機関長:同上の機関長。

菅野、唐沢、広田、武藤:同上の輝雅の同僚(先輩)の船員。

マスター:大阪の宗右衛門町(中央区の歓楽街)のバーのマスター。輝雅を雇う。

海老原、小口:大阪のミナミのチンピラ。

車光民:大阪のミナミの謎の中国人。輝雅に輸入品の密売を持ちかける。

高容仁:大阪のミナミの韓国人。輝雅に暴力団がらみの仕事を持ちかける。

諸橋美奈子:大阪のミナミのバーの客。神戸女学院(これは実在する。関西のお嬢様の行く大学として知られている)の学生。実は大金持ちの娘。輝雅に惹かれ結婚するが・・

諸橋啓造:美奈子の父親。N生命の社長。

諸橋良江:美奈子の母。上流階級だがいたしかたなく輝雅を受け入れる。

磯上美津子:美奈子の姉。その夫(東大出身で大蔵省のエリート)とともに輝雅を差別する。

横田専務:大手・近代美術社の専務。輝雅を採用するが・・

山川智春:山川事務所の社長。輝雅を無給で社に置いてくれる。

安井弓子:山川事務所の受付の女性。輝雅に親切にしてくれる。

長田友之:東京の日本デザイン社のデザイナーの卵。輝雅と意気投合し、アメリカ行きを誓い合うが・・

荻原達雄:東京の山川事務所のデザイナー。輝雅を受け入れる。

下西彰弘:日本デザイン社のデザイナーの卵。輝雅とアメリカ行きを誓い合う。のちNYへ。

佐藤夫妻:アメリカ行きの客船で知り合った夫婦。

丹野・津山:下西の友人。トロントにいる。理系の研究者の卵。

アンドレー、ハリー、ロイ:カナダの白人。輝雅を家のボーイとして雇い、こき使う。

岡辺三太郎:NYの日本料理店の人。輝雅に親切にする。

清水武夫:NYの高島屋の倉庫係。早稲田大で探検をしていた。アマゾンで生活した後NYに来ている。

サム、フリーマン:NYの貧民街の黒人。

ジョン・ジョナース:NYの有名なデザイン会社の社員。輝雅の実力を認める。

高井芳明:NYの日本人アーティストたちのボス的な存在。輝雅兄弟と喧嘩になる。

シラサギ:NYの怪しげな庭師。

 

(コメント)

 起伏の多い人生だ。他の人が弱っていても輝雅は若く体力があって未来へ向けて挑戦する。そこが痛快だ。 家族への責任は果たしていない。親や妹たちをどうするのか。妻の美奈子は可哀そうだ。輝雅は女性にもてる。仲間の男たちがやっかむほどだ。(女性たちはなぜ輝雅に惹かれるのか?)輝雅は挑戦を続けてはピンチに陥る。だが不思議と助けてくれる人が現れる。輝雅が努力を続けているからでもあるが、同時に周囲の誰彼に助けられてはじめて人間は生きられるのだと改めて感じる。

 

 輝雅は狭く窮屈な世界が嫌いで、一つ所にとどまらず広い世界に出て行こうとする。彼の世代にとってその最高の場所がアメリカ、NYだ。本作は、アメリカ、ニューヨークとは何か? を問うた作品でもある。

 

 「ぼくはアメリカを、ニューヨークを、この目で確かめたいんです。」「(確かめたいのは)あえて言えば世界です。世界の中心です」対して『婦人画報』の倉田編集長は「ニューヨークが世界の中心だと思っているのは錯覚だよ。幻想にすぎない。君にとって世界の中心は、君の立っている場所だ」と言う。(38章)・・・NYでの生活の中で輝雅の友人の清水は言う、「ヘンリー・ミラー(注3)が書いてるけど、ニューヨークはいつか巨大な墓場になる」(43章)、「アメリカンドリームなんて嘘っぱちだ。アメリカは弱者を喰いものにして強い者だけが生き残れる社会なんだ。・・」このセリフに続き語り手は「しかし、ニューヨークの魅力に取りつかれているのも事実である。ニューヨークに暮らしているというだけで、ある種の虚栄心を満たされるからだった。」と記す。(46章)実際輝雅が一時期住んだナインス29丁目は泥棒や娼婦の住む貧しく汚いエリアだった。(44章)NYには貧富の格差、貧困が厳然として存在する。輝雅はそこを脱出しグリニッジ・ビレッジに引っ越す。虚栄心のためだ。(45章)・・やがてラストで輝雅はアメリカを去り日本に帰ることを決意する、「人種の坩堝であり、巨大な口腔と排泄腔であり、爆発するエネルギーは何もかも消費しつくし、栄光と汚辱、希望と絶望が渾然一体になっている「ニューヨーク」とう魔窟の悪霊にとりつかれて、輝雅は自分を見失っていたのだ。」と語り手は説明する。

世界の中心はNYか、自分のいる場所か? 後者であることは明らかだが、前者だと思い込むところが、アメリカの世紀、20世紀の時代社会をよく示している。敗戦後の日本にとって、アメリカこそが憧れだった、というのもよくわかる。

 

 これを応用して、日本だけでいえば東京、地方でいえば県庁所在地などの都市、空間でないならTVやインターネットなど都会経由の市場社会(資本主義社会、都市型消費社会。厳密な言い方を知らない。)の提供する価値軸に、なぜあなたは(わたしは)左右され支配されているのか。毎日円ドルレートと株価指数と大リーグの情報を気にして生活しているが、それがいったいあなた(わたし)にとって何の意味があるのか? この問いに読者はいざなわれる。

 

 内村鑑三はすでに『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』ほかにおいて、自分はアメリカをキリスト教の世界だと思い込み憧れたが、行ってみるとそこは拝金主義者の世界だった。明治日本も欧米の拝金主義の文明と同様カネと物質を拝んでいるに過ぎない、と喝破し批判している。あなたは(わたしは)アメリカ、ニューヨークの、物質文明、カネを偶像崇拝していたに過ぎない。大事にすべきものはほかにある。当たり前のことだが、市場経済のネットワークが地方から富を吸い上げNYや東京や大都市を富ませていることも事実だ。なぜNYや東京にはあのような巨大なビル群が建つのか? 田舎には建たない。あの巨大なビルを建てるためには、多くの人からカネを吸い上げることが必要だ。巨大なビルは(都にある巨大な御殿や指導者の巨像も同様だが)多くの人々の(国内外の)富を吸い上げて成り立っている。(伝説の聖帝・帝堯は大きな御殿を建てなかった。)しかも、NYや東京の中心地にいて有名企業で働いても、時間と身心に余裕がなく消耗するばかりで、結局は不自由だと感じるのでは。余裕があるのは大資本家だけだろう。もっとも、彼らも結局はカネに縛られている点で不自由ではある。「主人と奴隷が逆転する」という有名なセオリーがある。カネを所有しているつもりが、カネに所有されてしまっているのだ。)

 

 主人公輝雅の場合日本の田舎で過ごすことは窮屈でつらいことだった。だから広く自由な世界を求めて飛び出していくのは必然だ。だがアメリカ、ニューヨークが自由な世界というわけでもなかった。一部の金持ちが好き勝手する自由は、多くの普通の人々の自由を必ずしも保障しない。一部の金持ち・企業が政治家と癒着して多くの人々の自由を・人権を抑圧している。日本もアメリカも「自由」な社会のはずなのに!? これは現代において我々が目撃しているところだ。(注4)多くの普通の人々の自由を・人権を保障すべきだ。(本作の主人公・輝雅の場合は、アメリカの弱肉強食の世界に気付きつつ、アメリカにも存在した狭い日本人社会との激突がきっかけでアメリカを離れ帰国するわけだが。アメリカを離れるが帰国せずブラジルに行くのは友人の清水だ。ブラジルに何があるかは本作では詳論していない。)

 

 題名は『海に沈む太陽』と言う。NYで「雄大で神秘的な太陽の美しさを、輝雅は長い間忘れていたのだった。」(ラスト46章)船乗りとして水平線の彼方で幾度となく眺めた太陽。(それは本当は幼少期に見た道頓堀川の西に見えた「放射状に輝く光の世界」(冒頭1章)とつながりがある。輝雅の憧れの力が作り出す未見・未来の世界だ。)輝雅は改めて巨大な太陽の光に向けて立ち上がり新しい挑戦をするであろう。輝雅の人生はこれからだ。期待のこもる読後感だった。

 

 作者は「在日」を扱った作品が多いが、『海に沈む太陽』は『ニューヨーク地下共和国』同様、「在日」に焦点を当てた作品ではない。もっと視野を広く持って、一人の人間の生き方を描いている。

 2006年の『未来への記憶』という本をめくると、梁石日が2001年にNYに行く直前の「ニューヨークへ」という文章(2001年9月以前であろう)では「人種のるつぼであり、世界の矛盾のカオスであり、巨大な物質文明の象徴である摩天楼のニューヨークは私にとって地球人を確認できる異邦人の都市でもあるのだ。」と書いている。この期待はあったに違いない。

 だが、9.11テロ以降に書いた「アメリカの深い矛盾」という文章(2003年)では、「ニューヨークはありとあらゆるものを呑み込んでいく巨大な胃袋である。・・グローバル化がアメリカ化にほかならないとすれば同時多発爆破テロ事件はアメリカの深い矛盾を外部から暴露されたといえなくもないのである。」と記す。

 

 同じ作者の『ニューヨーク地下共和国』では、黒田征太郎をモデルにしたと思われる人物が、9.11テロおよびその後のアメリカのアフガニスタン、イラクへの侵攻に、「なぜテロが起こったか、背景の考察も大事だ」「戦争をあおる連中は戦場には決して行かない、貧しい人や若者を行かせるばかりだ」などと発言する。本作にもそのシーンがあるかと期待していたが、本作は青春期だけなので、そのシーンはなかった。

 

注3 ここだけヘンリー・ミラーが出てくる。梁石日はヘンリー・ミラーの愛読者のようだ。ヘンリー・ミラーはNYを舞台の作品を多く書いている。私小説風でありつつ虚構を多く取り入れ、多種多様な雑多な民族・人種の入り混じるダウンタウンでの破れかぶれの生活を描く。これらの点でヘンリー・ミラーと梁石日は似ているかもしれない。ただしヘンリー・ミラーの主人公は暴力をふるわず、アウトローでもない。ヘンリー・ミラーには国家(共同幻想)はあまり出てこない。男女の愛(対幻想)(彼の場合安定した家族を作らず性愛中心だが)が多く出てくる。市場経済の浸透した社会における、自分と、男女の愛と、隣人・友人と、人類の精神の世界であって、国家への忠誠などは出てこない。一種のアナキズム(但し非政治的な。暴力と破壊を行わない)の世界と言えよう。梁石日は一方では民族や政治的課題に関心を表明するが、本作などを見るとどこかではヘンリー・ミラーの世界に通底しているものがあるのかもしれない。(梁石日が若い日にヘンリー・ミラーのどの部分に共感したのかは、私は知らない。)なお、ヘンリー・ミラー:1891~1980。アメリカの小説家。NY出身、一時パリにもいた。のちカルフォルニアに住む。代表作『北回帰線』『南回帰線』『薔薇色の十字架刑』(『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』)など。水彩画も描く。梁石日はあるときヘンリー・ミラーの『南回帰線』に出会ってその世界観にとらわれたそうだ。(自伝的エッセイ集『未来への記憶』に書いている。)

 

注4 今(2024年12月)まさに国会で論戦をしている。石破首相は、以前の某A政権と違って、何でも閣議決定で決めて強行するのではなく、話し合って決める、と言っている。これは民主主義のあり方として正しい。もしかしたら石破首相は歴史に残るいい首相になるかも知れない(期待)。以下私見。

 

 専業主婦についてだが、石破さんは「専業主婦だから価値がないとは言えない、様々な役割をになっておられる」と言っていた。これは同感だ。私は共働き・専業主婦いずれの家庭の経験もあるが、どっちも大変と言えば大変だ。「前者がエライ・後者がエラくない」という図式は間違っている、と言う。専業主のケースもありますぞ。もちろんシングルマザーはもっと大変だがシングルファーザーはさらに大変だ。シングルマザーやシングルファーザーができない部分を専業主婦や専業主タダで担ってきた、ということは実際にある。ああ、高齢者や障がい者の、また地域の世話を、誰がしているのか・・世話をして貰いたい人ばかりなのに、誰が民生委員や町内会長をするのか。

 

 賃金についてだが、中小企業の賃金を上げるためには? 親会社が過度に利益を吸い上げる現状を改めればよい。親会社が子会社・孫会社の納めた品を過度に安く買いたたくからいけないのだ。高く買い上げなされ。そうすれば孫請け会社も、物価に転嫁することなく、賃金をアップできる資本家や親会社・大会社の社長と孫会社・中小企業の最前線の非正規職員と、賃金の差がありすぎる。下を上げて上を下げればよろしい。「日本人は和の心で皆仲良くできるはず」などとおっしゃるのだから、態度でお示しになるとよい。おっしゃらなくてもさっさとそうすべきだ。「和」を支配の道具にして弱者に困難を押しつけるのではなく、株主と大会社の社長が率先垂範して株主への配当を減らし労働分配率を上げ経営陣の号俸を下げ手当てを削ってでもヒラ社員・非正規職員の給料を上げるとよろしい。それができるのが「和」だ。上杉鷹山渋沢栄一や大原孫三郎や松下幸之助や土光敏夫の志を継承しさらに前に進める人はもういないのか? かの地の周恩来は倹約で尊敬されていたそうですぞ。

 

 企業献金云々についてだが、「会社ぐるみで**党に入れなさい」と決めているとしたら選挙・投票の自由が侵害されていると言えるのでは? 大企業をはじめとする経団連が自民党に多く献金しているが、問題は大企業の傘下にあって(一部利沢にあずかっているが)実質は大企業から搾取されている中小企業が沢山ある、それらの傘下にない個人事業主も今は増えてしまっている、まして本当に生活に困った挙げ句に政治的意見の出し方も分からない諸個人も多い、その意見や叫び声は自民党に届いているのか?(いないのでは?)そこを見ないで「政策が影響を受けてはいない」と言うことはおかしい。福島や熊本や豪雨被害で困っているのに五輪を強行したのがいい(悪い)例だ。これは石破さんではなくA内閣だが。

 

補足

アメリカの支配階級について記述した本に、越智道雄『ワスプ』がある。アメリカ人=100%カネの奴隷、というわけでもない。

NYの金持ちの狂乱を描いた小説にフィッツジェラルド『偉大なるギャツビー(ザ・グレート・ギャツビー)』がある。舞台は1920年代だが、カネと物欲に狂乱する虚妄の世界がよく描けている。

 

付言

人はなぜ小説(物語)を読むのか? 幼少年期は、未経験の世界に憧れて読み、いずれ自分もそういう生き方をしたいと思う。例えば海洋冒険もの。青年期・壮年期には、自分が今抱えている問題の解答(はなくてもそのヒント)を求めて読む。例えば恋愛、友情、社会との関係。高齢になると今までの人生の総括(整理しなおし)のために読む(再読も含め)。例えば漱石と明治の帝国。このような図式をかつて考えたことがあるが、もう一つ加えてみよう。高齢になると、自分がそう生きたわけではない別の人生を追体験するために読む。これは幼少年期にも青壮年期にもあってよいが、高齢期には少し違う。シニアにはもう輝雅の青春期のように新しいチャレンジをする時間も健康もない、しかし輝雅の挑戦は、それはそれで読んで面白く、もし自分が青春期に船員になり大阪で過ごしアメリカに行っていたら? と楽しませてくれる。