James Setouchi
2024.12.4
梁石日(ヤン・ソギル) 『ニューヨーク地下共和国』講談社(2006.9.11)
1 梁石日(ヤン・ソギル)
1936年大阪府生まれ。2024年6月に没。著書『血と骨』『闇の子供たち』『夜を賭けて』『族譜の果て』『夏の炎』『裏と表』など。
2 『ニューヨーク地下共和国』2006年
エンタメ(に分類すべきだろう)。但しニューヨークにおける同時多発テロなどを扱っており、社会派エンタメと言うべきか。真剣で深刻な内容も含む。アメリカのアフガニスタン・イラクへの侵攻の是非など、政治的内容を書き込んであるので、これらについての知識があった方が読みやすい。性的内容は少しあるが多くはないので大学生くらいなら大丈夫か。上下二巻。人物が数多く出てくるので、人物メモをとりながら読むとよい。各種感想などを読むと、「だらだら長い」「作者にしてはつまらない」などとするものもあったが、私には結構面白かった。『血と骨』の凄まじい世界を期待している人には物足りないと感じるようだが、政権、利権集団、官憲、市民グループ、テロリストたちが入り乱れる、そう、『ゴルゴ13』を複雑にしたような世界だと思えばよい。考えさせられるところもある。
梁石日は9.11テロの日、ニューヨークにいた。そこの描写は具体的で、滞在していた人ならではの記述だろう。
(あらすじ)(少しネタバレ)
2001年9月11日のニューヨークにおける世界貿易センタービルへの航空機による自爆テロ攻撃(それは歴史的事実)が起きる。共和党政権は直ちにアフガニスタンへの軍事的侵攻を決め、さらにはイラクをも攻撃する。この政権の動きと、天然ガスなどエネルギー関連の会社、また有力証券会社との動きとは、どこかで関係しているのではないか? 秘密に接近した人が次々殺される。さらに、「ニューヨーク地下共和国」なる(こちらは架空の)テロ組織による自由の女神爆破、マンハッタン橋とブルックリン橋の爆破などが起きる。これに対し共和党政権と官憲は「テロとの戦い」で抑え込もうとする。イラク戦争は泥沼になって終息しない。市民たちはデモを行うが弾圧される。「テロは許さない」の声の前に自由と民主主義が抑圧される。アメリカはどうなってしまうのか?
(主な登場人物)(かなりネタバレ)
ゼム:ニューヨークのチェルシーピアの桟橋に停泊する舟に住む。舟で世界を旅してきた。世界中の人種・民族の混血で、瞳と肌の色が状況によって変化する不思議な人物。建築家。市民運動に関わり、官憲からはテロリストの一味だと疑われる。美しいソーニャと愛し合う。(チェコ語でZemĕとは「地球」の意味らしいが・・)
ジャック:黒人。戦場カメラマン。ゼムの友人。9.11テロに遭遇し写真を撮る。その妻がバーバラ。貧しい黒人のネイサン、ジョージ、サム兄弟とは友人。
サム:貧しい黒人。警官に遭遇し不当に撃たれ大けがをする。麻薬関係のマフィアからも追われる。その恋人がアレサ。
ジョージ:サムの兄。イラクに兵として行き、兄ネイサンが不当に殺されたと怒る。
ネイサン:ジョージの兄。弟思い。イラクに兵として行き、死亡。彼らの母親がマリー。
アルバート:黒人。ヤクの売人。
レヴィ:マフィアのボス。
李暉龍:中国系マフィアのボス。レヴィと対立している。
マック巡査:ニューヨーク市警の若き巡査。黒人のサムを不用意に撃ってしまう。
アトキンス警部補:年長の警官。マックの銃撃を隠蔽する。
カウフマン:DMA証券の社員。ゼムの従兄弟。巨大企業ヒクソンの不正に気付き調査を始めるが・・妻子はハンブルクにいる。
ルーベンス:DMA証券の調査部。カウフマンと共に超大企業ヒクソンの調査を行うが・・
ベネット部長:DMA証券の部長。カウフマンとルーベンスの上司。
リチャード・コーエン:超大企業ヒクソンの副会長。
スノー会長:ヒクソンの会長。
イザベル:NYファッションカンパニーの社長。ヒクソンのスノー会長の愛人だったが・・
ネルソン:情報屋。もとCIAでアフガニスタンにもいた。
ハリド・シェイク・モハメド:反米テロの首謀者。アフガニスタンのタリバンに匿われている。
スザンナ:証券取引委員会の女。超大企業ヒクソンとDMA証券の裏取引に気付くが・・
エドモンド・バトラー:USAテクノ(パイプライン敷設会社)の経理部長だった男。
ウラディミール:ソ連崩壊時大量の金塊を持って亡命してきた大富豪。動きが怪しい。
ソーニャ:ウラディミールの妻。若くて美しい。ゼムと愛し合うが・・
ヴァチェスラフ:ウラディミールの腹心。元空挺部隊大佐。
アレクセイ:ウラディミールの腹心。
チャールズ・ドーソン:共和党フォスター政権の経済顧問。超タカ派。
マコーミック:共和党の上院議員。超タカ派。
ジェイムズ・マローン:国防副長官。超タカ派。
ハッサン:公民権運動の生き残り。
デイヴィス:ジャーナリスト。
モリソン、コネリー、ジェイソン:弁護士。
ハリス:民主党上院議員。
ドナリー:会計士。
メイスン:役者。
ナタリー:劇作家。政権に対し怒り、かなり過激な発言をする。
ジェイク、サイモン:市民オンブズマン。
アフタブ・マームード:アラブ人。ナタリーの劇に出てくれる。
マルコ:芸術家。ブルックリンの川沿いの空き地で石を積んでいる。
アーメド:イラク大統領。
ムスタファ:アフガニスタンの暫定政権の元首。
フォスター:アメリカ大統領。共和党。自由と民主主義のために(実際にはエネルギー利権のために)アフガニスタン、イラクに侵攻する。
スコット:民主党の上院議員。
ブライス:民主党の大統領候補。
ハリー、シアーズ:ゼムの隣人。警官隊と銃撃戦になり死亡。
シーヴァース部長:ニューヨーク市警。ゼムたちをテロリストの一味だと決めつけてつけねらう。
サリンジャー部長:FBI。
ロバート大佐:国防総省。
ニコラス・ハミルトン:もと南アフリカ軍の大尉。PMF(民営軍事請負会社)としてイラクにいたが・・
デビッド:クラーク:フランスの運送会社の社員。PMFとしてアフガニスタンに関わったが・・
黒豹:謎の暗殺者グループ。3人組。
(コメント)(ネタバレ)
冒頭、巨大な摩天楼が描かれる。その地べたを這い回るNY市警の警官たちと貧しい黒人たち。黒人は黒人というだけで警察に犯罪者として疑われひどい目に遭わされる。だが、その地下には麻薬組織がある。さらにその下に、「ニューヨーク地下共和国」が潜んでいる。大都市の垂直構造を本作は用いている。
世界的巨大企業と証券会社が癒着して株と資金の操作をしている。しかもそれは共和党政府高官ぐるみではないか。彼らは9.11テロ(注1)を事前に察知していたが、その機にプットオプション取引(注2)で巨利を得るべく、皆でテロに対し知らない振りを決め込んだのではないか。アフガニスタンやイラク(注3)への侵攻も、中央アジアの天然ガスの利権(注4)のためではないか。政府高官と超巨大企業が癒着してアメリカ兵を戦地に送り込んで死なせているのではないか。それを調査し秘密に迫る人が次々と暗殺される。あやしい。ゼムたちは真相を暴こうとするがなかなか暴けない。世論は「テロとの戦い」一色に染まっていて異議申し立てをする余地がない。かつてのマッカーシズム(赤狩り)の様相を呈している。野党民主党も腰が引けている。ゼムたちは警察からテロリストの仲間とみなされ取り調べを受ける。市民のデモ集会は分裂、暴動となり官憲との市街戦で死者は3桁にのぼった。
完全ネタバレだが、イラク帰還兵のジョージがニューヨーク地下共和国のメンバーだった。ジョージはムスリム(注5)になり、共和党政府のイラク派兵に反対する仲間とテロを行い、イラクからの撤兵を主張していた。そこにはアフガニスタンやイラクからの帰還兵も多数含まれていた。(シリアやアフガニスタンで起きている爆発がニューヨークで起きたらどうなるか? の実験小説だとも言える。)
ウラディミールはスターリンの密命で核兵器をニューヨークの地下に持ち込んでいた。そのうち1個はコニーアイランド(注6)の地下にあった。警察が見つけ処理したが、あと一つは未発見だ。ニューヨーク地下共和国がもしこれを使ったら? 恐ろしい仮定を残したまま小説は終わる。
ゼムは官憲によって殺されてしまう。ゼムには18の民族の血が混淆していると言われている。瞳の色や皮膚の色が状況に応じて何色にも変化する。特定の民族・人種・国籍などに左右されない自由人だ。ゼムは殺されたが、希望は残された。ゼムの子がソフィアのお腹にいる。ゼムの描いた画の胎児は「青、白、紅、褐色、緑の淡い色で配色され、祝福の祈りをこめた銀色と金色に縁取られて輝き、宇宙に浮かんでいる地球を連想させた。」ジャックが言った「ゼムは未来から来た人間だ。・・」
梁石日はゼムを人種・民族・国籍などを超え万人とよき友人としてつきあえる、良識ある落ち着いた大人として造形し、未来の人間のあり方をこのイメージに託したのだろう。(西方極楽浄土ではあらゆる差別はなくなる、観音菩薩は紫金色に輝く、と言われる。私はこれを連想した。)が、ストーリー上ゼムが殺されなければならないほど状況は悪い。梁石日はそう言いたいのかもしれない。
梁石日は「在日」問題を描く作品が多いが、本作では視野を広げて黒人、アラブ人、イスラム教徒などへの差別を扱っている。梁石日がNYに滞在していたとき9.11テロが起こった。梁石日はその体験を受け止め想像力を交えて小説化した。
本作ではアメリカの軍産複合体制が批判されているが、今や(2024年現在、ロシアはウクライナに侵攻、イスラエルはガザやレバノンで空爆)、ロシア、イスラエル、中国、北朝鮮などについても考えるべきだろう。そのいずれにも与(くみ)せず自由人として誰とでもよき友人としてつきあえるのがゼムだ。梁石日はゼムの造形に未来への希望を見ようとしたに違いない。
怖いのは思想・言論の統制。ジョージ・オーウェル『1984』には全体主義国家が事実を曲げ情報を統制し言語を簡単にし国民の視野・思考力・批判力自体を奪っていく姿が描かれている。アメリカや日本はとりあえずそうではない。大統領や首相の批判をしてもいい国なのだ。だが、あの国やその国はどうだろうか? そもそもオーウェルの『1984』を国民は自由に読めるのだろうか? 禁書にしていないだろうか?
だが「テロとの戦い」「愛国心」「旗を示せ」と言い出した途端、アメリカでも日本でも多くの人が思考停止状態に陥り、多数が少数を抑圧するということが起きてしまった。黒人、アラブ系、ムスリム、ヒスパニックというだけで偏見を持たれ差別されるのはおかしい。普通の良識あるはずの大多数の人々の判断がおかしくなってしまうのだ。一部の人をわけもなく予断を持って断罪しよってたかって非難する。目がつり上がって、頭に血が上っている。声高に唾を飛ばして非難する。相手の言うことを聞く耳を持たない。「あいつは**だから・・」とあらかじめ排除する。おかしなことだ。(日本は江戸期と戦前で経験済み。「キリシタン」と「アカ」を排除・差別した。今もある・・)梁石日は、それはおかしい、と本作で言おうとしている。本作はテロを扱ったエンタメだが、差別を・人権を・自由(注7)を問うた作品でもある。危機的な状況ではある。だが、<それでもなお良識ある言動をできる人々>が少しでもいる。アメリカにも日本にも。恐らくは世界のどこの国、社会にも。そこに期待したい。
孟子曰く、「自ら反(かえり)みて縮(なほ)くんば、千万人と雖(いへど)も、吾(われ)往(ゆ)かん。」と。
村上龍のテロリストものに『半島を出よ』『オールド・テロリスト』があるが、本作とは違い、焦点がはっきりしている。本作は、アルカイダのテロと地下共和国のテロを二つの焦点としつつ、世界の全体像を描こうとした。世界には多様な要素があるので単純化できないから。その挑戦は悪くない。だが、中近東情勢、企業の陰謀、市民運動、マフィア、貿易センタービル、地下共和国、ロシアとの関係、恋愛、家族への愛、差別、人権、自由、愛国心、民主主義などなど、扱う対象が広範すぎて大変な作業になってしまったのかもしれないな、という印象だ。
注1 9.11テロ:2001年9月11日、NYの世界貿易センタービルに、テロリストの乗っ取った民間航空機2機が突入、ビルは崩壊、乗員・乗客は全員死亡、ビル内外にいた一般人や救助の消防団員など数千人が死傷した。同じ日にペンタゴン(国防総省)なども攻撃された。ブッシュ大統領(子)は犯人を国際テロ組織アルカイダと断定、アルカイダを匿うアフガニスタンのタリバン政権に対する軍事侵攻に踏み切ることになった。
注2 プットオプション取引:株が安くなっても始めに決めた定額で株を売ることができる取引のやり方。本作では、あらかじめプットオプションで航空機会社の株を買っておき、テロで航空機会社の株が急激に値下がりした時点で、あらかじめ決めておいた高い価格で売却、差額を利益とする。
注3 イラク侵攻:ブッシュ(子)政権はイラクをも攻撃した。アフガニスタン侵攻とイラク侵攻は名目も国際法上の扱いも異なるが、アメリカの軍産複合体が推進したことにおいては同じ、ということだろう。
注4 中央アジアの天然ガスの利権:中央アジアの天然ガスについてどのルートを通ってパイプラインを引くか。そのために排除すべき政権はどこか。どの会社が請け負うか。そこに利権と戦争が一体化した政策(!?)が生まれる。
注5 ムスリム:言うまでもないが、「ムスリム=テロリスト」というのは、全くの偏見でしかない。多くのムスリムは穏健で、普通の日常生活を送っている。「聖戦(ジハード)」も信仰のためのたたかい(内面的なたたかいも含む)であって、自爆テロと同義ではない。(「すべての神道信者がテロリストでカミカゼ特攻をする」「すべてのキリスト教徒がテロリストで十字軍をする」などと言ったら、「それは全くの偏見だ」と反論するはずだ。それと同様。)
注6 コニーアイランド:NYにある遊園地のある島。
注7 「自由な社会」というのは、一部の金持ちが他の人の自由を制限・抑圧しながら自由に金儲けをする社会のことではない。そんなのは「不自由な社会」と言う。マイノリティも貧しい人も含めて誰もが自由に発言し自由に動き回ることができ人権を大切にされる、それが「自由な社会」だ。
(補足)(再掲)
アメリカはいい、とか、アメリカは悪い、といった単純な言い方をする人があるが、物事を見誤る危険性がある。かつてTPP交渉の時、「アメリカのいいなりにTPPに参加するのか、それとも不参加か」といった議論がなされたが、蓋を開けてみるとトランプのアメリカがさっさとTPPから脱退したのがいい例だ。アメリカは一枚岩ではない。多様な人があり、多様な主張がある。アメリカには軍産複合体制主導で各地に戦争をしかけ少数意見を抑圧しようとする利権共同体も確かにあるが、他方、少数意見を尊重し自由と民主主義と公正さを求める人びともある。クエーカー教徒(フレンド派)は戦争を否定する。多様な民族・文化が混在しその中から新たなものを生んでいこうとする人々もいれば、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント(ワスプ)こそがアメリカだと言いたい人びともある。カトリックも多数いる。カトリックの票が選挙を左右するとある本に書いてあった。ものごとを安易に単純化せず何が起きているのか? を見極めていく力が必要だろう。私はアメリカの良識ある尊敬すべき人びとを信頼し彼らに期待している。
これは中国やロシアに対しても同じことが言えるはずだ。もちろん日本自身に対しても。