*ペスト 翻訳 I (3)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



I  (3)


管理人の死により、不可解で不安な兆(きざ)しに満ちた時期が終わり、それよりも困難な時期が始まったと言えそうである。つまり、初期の驚きが少しずつパニックへと変わっていったのだ。市民たちは、以後思い知ることになるのだが、それまでは我が小都市が、ネズミたちが日向(ひなた)に現れて死に、管理人たちが奇妙な病で亡くなっていくうってつけの場所になり得るなどと思ってもみなかった。こうした見方は結局間違っていたし、考えを改めねばならなかった。事がそれで終わっていれば、おそらくこれまでの暮らしぶりに戻っていただろう。しかし、必ずしも管理人でもなく貧しくもない市民たちもミシェル氏が最初に歩んだ道をたどる羽目になった。つまりこの時から、恐怖とそれに伴う内省が生まれ始めたのだ。

しかしながら、新たな出来事の詳細を述べる前に、語り手としては詳述したばかりの時期について、別の証人の意見も載せておくのが有益だと思っている。ジャン・タルー、彼にはこの話の冒頭で既にお目にかかっているが、彼は数週間前にオランに居を定めていた。以来、中心部の大きなホテルに住んでいる。見たところ、かなり金回りがよく、自分の稼ぎで暮らしていけるようだ。しかし、住民は少しずつ彼の存在に慣れてきたのだが、彼が何処の出身で、なぜオランにいるのか誰一人分からなかった。公衆が集まる場所ならどこでも彼の姿を見かけることが出来る。早春の頃から浜辺によく現れ、いかにも嬉しそうに泳いでいる姿がしばしば見受けられた。善良そうで、常に微笑みを浮かべ、正常な娯楽なら何でも好むように見え、そのくせ溺れることは無い。ところが、彼の唯一習慣と呼べるものは、市内にはかなり数多いスペイン人のダンサーやミュージシャンの所に足しげく通うことぐらいだった。

いずれにしろ、彼の手帳にもこの困難な時期を描くある種の記事が記(しる)されている。しかし、無意味な偏見にとらわれているように思えるきわめて特殊な記事だ。一見、タルーは物事や人物を、距離を置いて見てやろうと心を砕いているような印象を受けるかもしれない。人々が混乱する中で、結局彼は歴史的なところなどまるでない事柄を専(もっぱ)ら歴史家として語ろうとしていたのだ。おそらく彼のそのような偏向ぶりを嘆き、そこに心の冷淡さを疑うこともできるだろう。しかしそれでも、これらの手帳は、この時期を描く記事にとって夥(おびただ)しい細かい資料を提供してくれる。それは二次的な資料であるとはいえ重要であるし、まさにその奇妙さ故にこの興味深い人物を早計に判断するわけにはいかないのだ。


la peste I ⑬

ジャン・タルーの最初のメモは彼のオラン到着の日に遡(さかのぼ)る。そのメモには最初から、これほど存在そのものが醜い都市に自分がいることへの奇妙な満足感が描かれている。市庁舎を飾る2頭のブロンズのライオンについての事細かな記述があり、さらに都市には木が無いこと、醜悪な家並、馬鹿げた市内地図についての好意的な考察が事細かに書き込まれている。さらに、市電や街路で耳にした様々な対話が何のコメントも無しに挿入されているが、少し後に出てくるカンという人物について交わされた会話にはコメントが加えられている。タルーは市電の二人の車掌のやり取りを傍で聴いていたのだった。

「おまえ、カンを知ってるよな。」と一人が言っていた。

「カン?黒い口髭を生やした背の高いやつか?」

「そう、そいつだ。転轍手だったな。」

「ああ、勿論。」

「ところが、死んじまったよ。」

「ええ!いつのことだ?」

「ネズミ騒動の後さ。」

「へえ!やつはどこが悪かったんだ?」

「分からんが、熱病らしい。それに、もともと丈夫じゃなかったからな。脇の下に腫物が出来たんだ。抵抗力が無かったんだな。」

「でも、皆と変わらないように見えたがな。」

「いや、胸が弱かったのにブラバンをやってたんだ。しょっちゅうコルネットを吹いてりゃダメになるよ。」

「ああ!」と相手が話を締め括った。「病気なら、コルネットなんか吹くなってことだ。」

こんなやり取りを書き記した後、タルーは、自分の利益にならないことは明白なのに、なぜカンがブラスバンドに入ったのか、命の危険をも顧みず日曜毎の行進に参加した奥深い理由は何だったのかを考察していた。

次に、タルーは向かいのバルコニーでしばしば繰り広げられる場面に心惹かれていたようだ。というのも、タルーの部屋は小さな横丁に面していて、猫たちが壁の陰で眠っていた。しかし、毎日、昼食の後、都市全体が暑さの中で微睡(まどろ)んでいる時間帯に、向かいのバルコニーに小柄な老人が現れる。白髪をきちんと櫛でとかし、背筋がしゃんとした謹厳な老人で、軍服仕立ての服を着こんでいる。彼は馴れ馴れしくはないが優しい調子で、猫どもに「にゃんこ、にゃんこ」と呼びかける。猫の方は眠そうなとろんとした目を上げるが、まだ動きはしない。老人が紙を小さくちぎって路上に撒くと、猫たちは白い蝶のように舞う紙吹雪に惹きつけられ車道の真ん中に出てくる。そして最後の紙切れに向かっておずおずと片手を伸ばすのだ。すると小柄な老人は、力強く正確に、猫に向かって唾を吐きかける。そして唾が的に当たると、声を上げて笑うのだった。

最後に、タルーは、外観、活気、それに娯楽でさえ取引に必要な要件によって決められているように見えるこの町の商業都市らしさに決定的に魅了されていたようだ。つまり、この特異性(これが手帳の中で使われている言葉だ)にタルーは賛同し、彼の称賛の辞の中には、「ついに!」という間投詞までつけて締め括られるものもあった。この時期、この余所者のメモが個人的な性格を帯びているように見えるのはこれらの箇所だけである。この箇所が何を意味しているのか、どこまで真面目なのか、単純には評価しがたい。こうして、ネズミの死骸が一匹見つかったせいで、ホテルの会計係が勘定書きを間違えたことを詳しく述べた後、タルーは普段よりは曖昧な筆致でこう付け加えていた。「質問:時間を無駄にしないためにはどうすればよいか? 答え:余すところなく時間の経過を味わうこと。 方法:歯医者の待合室で、座り心地の悪い椅子に座り何日か過ごすこと;日曜の午後は、バルコニーで暮らすこと;知らない言語で行われる講演会を聴くこと;一番遠回りで、一番不便な鉄道路線を選び、当然立ったまま旅行すること;ショーの切符売り場にならび、切符を買わないこと、等々」しかし、このように言葉や思考が脱線した後すぐに、手帳は我が都市の、ゴンドラのような形をした市電の細密描写、市電の冴えない色彩および慢性的な不潔さの描写に着手し、何の説明にもなっていない「注目すべきである」という言葉でそれらの考察を締め括るのだ。


la peste I ⑭

いずれにしろ、ネズミの件についてのタルーのレポートは以下の通りだ。

≪今日、向かいの老人は狼狽している。もう猫が一匹もいないのだ。通りで大量に見つかるネズミの死骸に興奮して、猫どもは確かに姿を消した。思うに、猫が死んだネズミを食うはずもない。憶えているが、僕の猫もそんなことは大嫌いだった。とは言っても、猫どもはきっと地下倉庫で走り回っている筈だし、老人はうろたえている。髪も乱れ、いつものような元気がない。不安に思っているようだ。少しして、老人は部屋に戻る。しかしその前に、一度だけ虚空に向かって唾を吐いていた。

≪今日、市内では市電が止まった。どうやって車内に紛れ込んだのか、ネズミの死骸が一匹見つかったのだ。女が2,3人降り、ネズミの死骸は外に捨てられた。そして再び市電は動き出した。

≪ホテルの夜警が、これは信頼できる男なのだが、このネズミ騒動は何か不幸が起きる前兆だと僕に言った。「ネズミが船から逃げ出すときは…」船の場合は確かにそうだが、都市については一度もそんなことは確認されてはいないと僕は答えた。それでも、彼の確信は揺るがない。君の考えではどんな不幸が予想されるのかと僕は訊いてみた。不幸というものは予測不能だから、自分には分からない。しかし、例えば、悲惨な地震が起きても自分は驚かない。そうかもしれないと僕が認めると、夜警は不安にならないのかと僕に訊いた。

≪「僕にとって唯一関心があるのは」と僕は彼に言った。「心の平安を見出すことだ。」

≪夜警は、僕の言うことを完全に理解してくれた。

≪ホテルのレストランには、とても面白い家族連れがいる。父親は痩せて背が高く、ハード・カラーの黒服を着ている。頭の真ん中が禿げていて、左右の髪は灰色だ。小さくて丸い厳しい目をしていて、鼻は細く、口は真一文字、お行儀のいいフクロウのように見える。いつも最初にレストランの入り口にやって来て、脇により、妻を先に通す。ネズミのように痩せて小柄な女だ。それから、学者犬のようないでたちの男の子と女の子の後にピッタリついて中に入る。テーブルに到着すると、妻が着席してから席に着き、それでようやく二匹のプードルのような子供たちが椅子によじ登ることが出来るのだ。妻にも子供たちにも「あなた」と言うが、妻には丁寧だが意地の悪い言葉を、子供たちには有無を言わせぬ言葉を浴びせかける。

≪「ニコル、見苦しいことこの上ないですよ!」

≪すると女の子は今にも泣きそうになる。お定まりのコースだ。

≪今朝、男の子はネズミの話ですっかり興奮していた。食卓で一言言いたいと思ったのだ。

≪「食卓でネズミなどと言うものじゃありません、フィリップ。これからはその言葉を口に出すことを禁じます。」

≪「お父様のおっしゃる通りよ。」とネズミのような細君が言った。

≪すると二匹のプードルは餌に鼻面を突っ込み、フクロウはかすかに頷いて感謝の意を伝えた。

≪こんな見事なお手本があるのに、市中はネズミの話でもちきりだ。新聞も鼻を突っ込んできた。地元記事は、普段なら内容は様々なのだが、今や市当局への抗議キャンペーン一色である。「市のお偉方は、このげっ歯類の腐った死骸がもたらす危険に気が付いておられるのだろうか?」ホテルの支配人の話題も専(もっぱ)らそのことだ。おまけに彼は自尊心を傷つけられている。立派なホテルのエレベーターにネズミが見つかるなどということは信じ難いことなのだ。彼を慰めるために、僕はこう言った。「でも、今は皆そうですよ。」

≪「正(まさ)しく」と彼は答えた。「我々は今や並のホテルに成り下がったのです。」

≪人々が不安に思い始めているあの驚くべき熱病の最初の症例を話してくれたのはこの支配人だ。メイドの一人があの熱病に罹ったのだ。

≪「しかし勿論、伝染病ではありませんよ。」と彼は熱を込めて明言した。

≪それは僕にはどうでもいいことだと僕は答えた。

≪「ああ!なるほど。私と同じ考えですな。あなたは運命論者というわけだ。」

≪僕はそんなことを言ったつもりはなかった。それに、運命論者などではない。僕はそのことを彼に伝えた…


以後、タルーの手帳は、既に大衆の間にも不安がひろがっているあの未知の熱病について、やや詳細に語りはじめる。ネズミの姿が消えると同時に、例の小柄な老人がようやく猫たちと再会し、辛抱強く弾道の軌道修正をしていることを書き留める一方で、タルーは既に熱病患者の数は十人ほどになり、その大部分が亡くなった由を付け加えていた。

これでようやく、タルーによるリゥ医師の人物描写を資料として引用することが出来る。語り手である私が判断する限り、それはかなり忠実な描写である。

≪歳は見たところ35ぐらい。中背。がっしりとした両肩。顔の輪郭はほぼ長方形。陰鬱な目だが視線をそらさない。顎は張っている。鼻は力強く、端正。短く刈り込んだ黒髪。湾曲した口とほとんどいつも閉じている豊かな唇。ややシシリアの農民のような風貌で、日焼けした肌、黒い体毛、いつも濃い色合いの服を着ているが、よく似合っている。

≪早足で歩く。速度を変えずに歩道を下るが、3回に2回は軽くジャンプして向かいの歩道に上がる。ステアリングを握っているときは注意散漫で、カーブした後でもよく方向指示器を出しっぱなしにしている。常に無帽。事情通といった様子。≫


la peste I ⑮

(ミスター・ビーン訳)

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