*ペスト 翻訳 I (2)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



I  (2)

4月16日の朝、ベルナール・リゥ医師が診察室をでると、踊り場の中央でネズミの死骸に躓いた。彼は気にも留めず、咄嗟に死骸をよけ、階段を下りた。しかし通りに出ると、あんな所にネズミがいるはずはないと思い直し、引き返して管理人に知らせた。それを聞いた管理人の老ミシェル氏の反応を見て、リゥは自分の発見がいかにも突飛なものだという感を強くした。ネズミの死骸を見て、彼はただ奇妙だと思っただけなのだが、管理人にとっては正にとんでもない出来事だったのだ。それに、管理人の立場ははっきりしていた。つまり、建物にはネズミなど一匹もいないということだ。リゥ医師は、多分死んでいるが確かに3階の踊り場に一匹いたと主張してみたが無駄だった。ミシェル氏の確信は微動だにしない。建物にはネズミなど一匹もいない。だから、誰かが外から持ち込んだに違いない。要するに、ただの悪戯であるというわけだ。

その晩、ベルナール・リゥはマンションの廊下に立ち、自宅に上がる前に鍵をさがしていたのだが、薄暗い廊下の奥から大きなネズミが不意に現れるのが見えた。ネズミは足取りがおぼつかず、毛が濡れている。それは立ち止まり、身体の平衡を取っているように見えた。それから、リゥの方に向かって来て、再び立ち止まると小さな叫び声をあげ、身体を回転させ、半開きになった唇から血を吐いてとうとう倒れた。リゥ医師は少しの間ネズミを凝視し、自宅に戻った。

そのとき彼が考えていたのはネズミのことではない。ネズミの吐血を見て、妻への懸念が蘇って来たのだ。一年前から病床にあるリゥの妻は、明日、山の療養所に向かうことになっていた。彼女は、リゥの言いつけを守って寝室で横になっている。こうして、移動の疲労に備えていたのだ。妻は微笑みを浮かべていた。

「とても気分がいいわ。」と彼女は言った。

彼は、枕元の明かりに照らされ、自分に向けられた妻の顔を眺めていた。30歳になり、病でやつれてはいたが、リゥにとって妻の顔は相変わらず若い頃の顔だ。多分、その微笑みが他の全てを忘れさせるからだろう。

「なるべく眠るのだよ」と彼は言った。「付添いの女性は11時に来る。そうしたら僕が君たちを連れて行くから、正午の列車に乗るんだ。」

リゥは軽く汗ばんだ妻の額にキスをした。妻の微笑みがドアの所まで彼を見送った。


la peste I ④

翌4月17日、8時にリゥが通りかかると管理人に呼び止められた。悪ふざけをする連中が廊下の真ん中にネズミの死体を3匹置いていったと言う。やつらは安物のネズミ取りで捕まえたに違いない、なにしろネズミは血だらけなのだから。戸口の所でネズミの足を持ち立っていれば、何か酷い嫌味でも言って犯人たちが自分から正体を現すと思って待っていたのだが、何も起こらなかったと言うのだ。

「やつらめ!」とミシェル氏は言った。「最後にはとっ捕まえてやりますよ。」

腑に落ちぬ思いで、リゥは一番貧しい患者が住んでいる周辺地区から往診を始めることにした。そこではごみの収集はずいぶん遅い時間になってからだ。そこで、その界隈の真っ直ぐで埃だらけの道を進む彼の車は、歩道の端に置かれたごみ容器をかすめて行った。こんな風に進んで行くと、ある通りでは野菜屑やぼろ布の上に十数匹のネズミが投げ捨てられていた。

最初の患者はベッドに寝ていたが、部屋は通りに面していて寝室とダイニングを兼ねている。患者は深い皺の刻まれた気難しい顔つきのスペイン人の老人だ。掛布団の上にえんどう豆がたっぷり入った鍋を二つ、それを目の前に置いている。医者が部屋に入って来ると、ベッドで半身を起していた病人は後ろに倒れ込み、喘息老人特有のゼイゼイという息遣いで息切れを回復しようとしていた。病人の妻が洗面器を持ってきた。

「ねえ、先生」と注射の合間に老人が言った。「やつら出てきましたよ、ご覧になりましたか?」

「そうなんですよ」と妻が言った。「お隣では3匹も集めましてね。」

老人は満足気に両手をこすり合わせていた。

「やつらが出てきたんです。どこのごみ容器にもいますよ。腹が減ってるんですな!」

その後、リゥがわざわざ確かめるまでもなく街はネズミの話題で持ちきりだった。往診を終え、リゥは診察室に戻った。

「診察室宛に電報が来てますよ。」とミシェル氏が言った。

彼は管理人に、あれからまたネズミを見かけたか訊いてみた。

「いえ、一匹も!」と管理人は答えた。「私が見張ってるんです。あいつらだってそんな度胸はありませんよ。」

電報は翌日の母親の来訪を知らせるものだった。リゥの母親が、病気の嫁がいない間、息子の家の面倒を見に来るというわけだ。リゥが自宅に入ると、付添婦は既に来ていた。スーツ姿で、化粧をして立っている妻の姿が目に入った。リゥは妻に微笑み、

「いいよ、すごくいいよ。」

と言った。

その少し後、駅に着くと、リゥは寝台車に妻を寝かしつけていた。妻はコンパートメントを見回している。

「ねえ、私たちには贅沢すぎない?」

「仕方がないのさ。」とリゥは答えた。

「あのネズミの話って、どういうことなの?」

「さあね。おかしな話だが、いずれ終わるさ。」

それからリゥは妻に早口で、済まないことをしたと詫びた。自分はもっと気を配るべきだった、随分彼女をないがしろにしてしまったと。妻の方は、何も言わないでとでもいうように首を振っていた。それでも、リゥはこう付け加えた。

「君が戻ってくれば何もかも上手く行くよ。やり直そう。」

「そうね」と目を輝かせて妻が答えた。「やり直しましょうね。」

そのすぐ後、妻はリゥに背を向けて窓越しに外を眺めていた。プラットホームでは人々がひしめき、互いにぶつかり合っている。機関車のシュッ、シュッという蒸気の音が二人の耳にも聞こえてきた。リゥが妻の名を呼び、彼女が振り向くと、顔が涙で覆われているのが見えた。

「ダメだよ。」とリゥが優しく言った。

涙の下からまた微笑みが顔を出したが、少しひきつっている。彼女は深々と息を吸い込んだ。

「もう行ってちょうだい。何もかも上手く行くわ。」

リゥは妻を抱きしめ、それからホームに出た。窓越しに中を覗くともう妻の微笑みしか見えない。

「お願いだ」と彼は言った。「体を大事にするのだよ。」

しかし妻にはリゥの言葉は聞こえなかった。

プラットホームの出口近くで、リゥは予審判事のオトン氏とぶつかった。氏は幼い男の子の手を引いている。リゥは彼に旅行に出かけるのかと訊いてみた。オトン氏は長身で浅黒く、半ば昔は上流紳士と呼ばれていた人種に、半ば葬儀屋に似た風貌だ。彼は、愛想はいいが淡々とした口調で答えた。

「家内を待ってます。親戚に挨拶に行っているんで。」

汽笛が鳴った。

「ネズミが…」と予審判事が言った。

リゥは列車の方に向かったが、また出口に引き返してきた。

「そうですね」と彼は答えた。「大したことはありませんよ。」

リゥの記憶に残っているそのときの光景は、ネズミの死骸で一杯のケースを小脇に抱え、係員が一人通り過ぎて行く姿だけだった。

その日、午後の最初の診察でリゥが迎えたのは一人の青年だった。新聞記者で、午前にはもう来ていたと言う。名前はレモン・ランベール。背は低く、がっしりした肩、意志の強そうな顔で、明るい知的な目をしている。服装はスポーティーで、暮らし向きは良さそうだ。彼はすぐに本題に入った。自分はパリの大手新聞社向けにアラブ人の生活環境を調査している。それで、彼らの衛生状態について情報が欲しい。リゥは記者に、衛生状態は良くないと答えた。しかし、立ち入った話をする前に、記者が真実を伝えることが出来るか知りたいと言った。

「無論です。」と記者は答えた。

「私が言いたいのは、君が全面的な断罪記事を書けるかということだ。」

「全面的とはいきません、最初に申しあげておきますが。しかし、そんな記事は根拠に欠けると思いますが。」

リゥは静かにこう答えた。確かに全面的に断罪することは根拠に欠けるかもしれない。しかし、自分がこんな質問をするのは、ランベールの証言が歯に衣(きぬ)着せぬ記事になり得るかどうか、ただそれを知りたいためなのだ。

「私は歯に衣着せぬ証言しか認めない。従って、情報を提供して君の記事の手助けをするつもりはない。」

「まるでサン=ジュストのような口ぶりですね。」そう言って、記者は微笑んだ。

リゥは声を荒げることもなくこう言った。サン=ジュストか何か知らんが、自分は今生きている世の中に飽き飽きしている。それでも同胞に対する愛着はある。だから自分は不正や譲歩は断固として認めない。そういう立場で話しているのだと。ランベールは首をすくめたままリゥ医師を眺めていた。

「先生のお気持ちは分かる気がします。」最後にそう言って、彼は立ち上がった。

リゥは記者をドアまで送り、

「そんな風に受け取って頂けるとありがたい。」と言った。

ランベールは苛立っているように見えた。

「ええ」と彼は言った。「お気持ちは分かります。お邪魔しました。」

リゥは記者と握手をし、今、市内では大量にネズミが死んでいる。そのことで面白いルポが書けるだろうと言った。

「へえ!」とランベールは叫んだ。「それは面白い!」

17時、再び往診に出かけようとしたとき、リゥは階段でまだ若い男とすれ違った。ずんぐりした体形、いかつい顔つきで頬がこけ、眉毛は一直線で太い。彼とは、自宅マンションの最上階にいるスペイン人のダンサーたちの家で、ときどき顔を合わせたことがあった。名前はジャン・タルー。念入りにタバコをふかし、一匹のネズミが足元のステップで断末魔の痙攣を繰り返しているのを眺めている。顔を上げ、灰色の目の、穏やかだが、やや見据えるような眼差しでリゥを見つめると、挨拶をした後、「こんな風にネズミどもが出て来るなんて、不思議ですね。」と言った。

「そうだな」とリゥは答えた。「しかし、終いにはイライラしてくるよ。」

「ある意味ではね、先生。ある意味ではそうです。これまで一度もこんな光景にはお目にかかったことは無かった、まあ、それだけのことです。でも、僕は面白いと思いますよ。そう、すごく面白い。」

タルーは片手で髪を後ろにかき上げ、もう動かなくなっているネズミを再び眺めた。それからリゥに微笑みかけて、

「でも、先生。結局これは、管理人の仕事です。」

折よく、リゥは建物の前で管理人を見かけた。入り口近くの壁にもたれかかり、いつもなら血色のいい顔に疲労の色が浮かんでいる。

「ええ、知ってます」またネズミが見つかったことを告げるリゥに向かって、老ミシェルは言った。「今は2,3匹単位で見つかってますよ。でも他の建物も事情は同じです。」

管理人は消耗し、不安気な様子だった。機械的に首のあたりをこすっている。リゥは、具合はどうかと訊いてみた。自分は管理人だ。だから勿論、具合が悪いなんて言ってられない。ただ、どうもいつもと調子が違う。精神的な影響だと思う。このネズミ騒ぎでショックを受けたせいだ。でも、ネズミどもが消えてなくなれば万事すこぶる上手く行くだろう。


la peste I ⑥

しかし、翌4月18日の朝、リゥ医師が駅から母親を連れ帰ると、ミシェル氏の顔は昨日よりはるかにげっそりしていた。文字通り地下室から屋根裏まで、ネズミの死骸が十体ほど階段に散らばっていた。近所の建物のごみ容器もネズミで溢れている。リゥの母親はそう聞いても、驚きもしなかった。

「そういうこともあるわよ。」

彼女は、小柄で銀髪、黒い優しい目をした女性だ。

「またおまえに会えて嬉しいのよ、ベルナール」と彼女は言っていた。「だからネズミなんかへっちゃら。」

リゥも同じ気持ちだった。本当に母さんといるといつも、何もかも簡単に見えてしまう。

それでもリゥは市のネズミ駆除課に電話してみた。そこの課長とは知り合いなのだ。課長は、大量のネズミが屋外に出てきて死んでいく話を聞いているだろうか?課長のメルシエは話を聞いており、それどころか河岸に程近い彼の課でも50匹程のネズミの死骸を見つけていた。しかしこれが深刻な事態かどうか思いあぐねている。リゥもその点は決めかねていたが、ネズミ駆除課が介入すべき問題だと考えていた。

「うん」とメルシエは言った。「上からの命令があればな。本当に君がその価値があると思うのなら、命令を出してもらうようにしてみるが。」

「とにかく、その価値はあるさ。」とリゥは答えた。

リゥは家政婦から、彼女の夫が働いている大工場では数百匹のネズミの死骸を集めたという話を聞いたばかりだった。

とにかく、我が市民たちが不安に思い始めたのはほぼその頃からだ。というのも、18日を境に、工場や倉庫からは何百匹ものネズミの死体が吐き出された。場合によっては、苦しがってなかなか死ねないネズミに、止めを刺してやらなければならなかった。しかし、周辺地区から市の中心部まで、リゥ医師が向かう至る所で、我が市民たちが集まる至る所で、ネズミたちは、或はごみ容器の中で山積みになり、或は側溝の中で長い列を作って待ち受けていた。夕刊紙がこの出来事を取り上げたのもその日からだ。そして、市当局は介入する意思が有るのかどうか、この悍(おぞ)ましいネズミの侵略から市民たちを守るのに市当局はどのような緊急手段を検討してきたのかを問うた。市側は何も考えていなかったし、何の手段も検討していなかったが、先ず集まって会議を開き討議することにした。ネズミ駆除課には、毎朝、明け方にネズミの死体を集めよという命令が下される。収集が終わると、駆除課の車2台でネズミの死体をごみ焼却場に運び、焼却することになった。


la peste I ⑦

しかし、日を追うごとに状況は悪化していった。集められるネズミの数は次第に増え、毎朝その数は前日を上回る。4日目からは、ネズミたちは集団で外に出て死に始めた。薄暗い小部屋から、地下室や地下蔵から、そして下水から、ネズミたちは長い列を作り、千鳥足で光のあるところまでふらふらと上がって来る。そして、キリキリ舞いして人間の近くで死ぬのだ。夜は、廊下や路地で、ネズミたちの小さな断末魔の鳴き声がはっきりと聞き取れた。朝、町の周辺部では、ネズミたちは尖った鼻面(はなづら)に小さな血の花を咲かせ、側溝に直に浮かんでいる。膨張して腐っているものもあるし、硬直して髭がまだピンと立っているものもある。街中(まちなか)でも、階段の踊り場や中庭で、数匹ずつ固まって死んでいる姿が見られた。ときには、市庁舎のロビー、小学校の屋根付き校庭、カフェテラスに一匹で現れて死んでいくものもあった。我が市民たちは、町の一番人通りの多い場所にもネズミの死骸を発見し、呆然としていた。練兵場、大通り、「海岸通り(フロン・ド・メール)」遊歩道といった具合に汚染箇所は飛び飛びだ。ネズミの死骸は明け方に片づけられても、昼の間にまた少しずつ数を増やしていく。夜、歩道に出て散歩の途中、死んだばかりの弾力ある死骸を踏んづけた人も一人や二人ではない。それはまるで、我々の家が建てられた大地そのものが、溜まりに溜まった不機嫌を吐きだし、それまでは大地の内側を蝕んできたしこりや血膿を地表に浮かび上がらせているようだった。それまであれほど静かであったのに、数日にして大混乱に陥った我らが小都市の茫然自失振りを見て頂きたい。それは、それまで健康だった男が、血液がどろどろになり突然体内で暴れはじめたときに味わう茫然自失振りなのだ。

事態は深刻になり、ランスドック通信社(情報、記録、いかなる話題についてもあらゆる情報を収集する)は、無料のラジオニュース放送で、25日だけでも6231匹のネズミが収集され、焼却されたことを告げた。この数字は、この町の眼前で日々繰り広げられている光景に明確な意味を与えるものであり、人々の動揺を掻き立てることになった。これまでは、ちょっと胸が悪くなる事件だと愚痴っているだけだったのだが、今や人々は、未だにその全容がつかめず、原因も特定できないこの現象にはどこか危険な所があることに気付き始めた。ただ一人、喘息持ちの老スペイン人だけが相変わらず嬉しそうに両手をこすり、「やつらめ、出て来るわ、出て来るわ」と白痴のように繰り返していた。


la peste I ⑧

しかしながら、4月28日、ランスドック通信によると、ネズミの収集はおよそ8千匹に上り、市では不安が頂点に達していた。根本的な対策が求められ、市当局に非難が集まる。海辺に別荘を所有している市民の中には、既に避難を検討している人たちもいた。しかし、翌29日、通信社によると事態は一変し、ネズミ駆除課が集めた死骸の数はほんのわずかだった。都市は一息ついた。

ところが、同日の正午、リゥ医師が診察室のあるビルの前に車を止めると、通りの奥に管理人の姿が見えた。操り人形のように頭を傾け、両手両足を突っ張らかして苦しそうに歩いている。老管理人は、リゥ医師も顔見知りの司祭の腕にすがっていた。パヌルー神父だ。博学で行動的なイエズス会士で、リゥも何度か会ったことがあり、我が都市では、宗教には無関心な人々の間でも大変尊敬されている司祭だ。リゥは二人の到着を待った。老ミシェルは目が輝いていて、呼吸が荒い。あまり気分が良くなかったので、外の空気が吸いたくなった。しかし、首と脇の下と鼠蹊部(そけいぶ)に激しい痛みを感じ、パヌルー神父に手助けしてもらい、家に戻る羽目になったということだった。

「腫物なんです」と管理人は言った。「難儀しましたよ。」

車の窓から片腕を出し、リゥはミシェルが差し出す首の根本に指を這わせた。そこには木の瘤(こぶ)のようなものが出来ていた。

「床に就いて、体温を測りなさい。午後、診に来ますから。」

管理人が行ってしまうと、リゥはパヌルー神父に近頃のネズミ騒ぎをどう思うか訊いてみた。

「ああ!」と神父は答えた。「きっと、伝染病でしょうな。」、そう言いながら丸眼鏡の奥で神父の目が笑った。


昼食を済まし、妻の到着を報せる療養所からの電報を読み返していると、電話の鳴る音がした。電話をかけてきたのは、元患者の一人で、市役所に勤めている男だ。長年、大動脈狭窄症に苦しんでいたのだが、貧しかったので、リゥは無料で彼を治療してやったのだった。

「はい」と相手は言った。「私のことを憶えていてくれたのですね。でも、私のことじゃないのです。すぐに来てください。隣の家で事件がありまして。」

相手は息を切らしていた。リゥは管理人のことを考えたが、管理人は後で診ることに決めた。数分後、リゥは、周辺地区のフェデルブ通りにある背の低い建物の入り口をくぐっていた。ひんやりとして、悪臭を放つ階段の途中で、リゥは市職員のジョゼフ・グランと出会った。彼はリゥを出迎えに降りて来る途中だったのだ。歳は50ぐらい、黄色の口髭を生やし、長身で猫背、肩幅が狭く、手足がひょろ長い。

「良くなってます」リゥの方に向かいながら彼は言った。「でも、死にかかっていると思ったもので。」

彼は鼻をかんでいた。3階、つまり最上階の左のドアをリゥが見ると、赤いチョークで「お入りください。首を吊っております。」と書いてあった。

リゥとグランは中に入った。テーブルが部屋の隅に押しやられ、倒れた椅子の真上にある照明器具から綱が垂れている。しかし綱は宙に浮いたままだ。

「彼を綱から外し、何とか間に合いました。」とグランは説明した。彼はごく簡単な言い回しをするにも、常に言葉を探しているように見える。「私がちょうど外に出ようとすると、物音が聞こえたのです。赤いチョークの落書きを見たとき、何と言いましょうか、私は悪戯だと思った訳です。でも、おかしな、いや不気味とも言えるうめき声が聞こえてきたのです。」

グランは頭を掻いていた。

「思うに、きっと首を吊るのは随分苦しいものなのですね。当然、私は部屋に入りました。」

二人がドアを押すと、寝室の入り口に出た。明るいが、あまり家具のない寝室だ。小柄でずんぐりした男が銅製のベッドの上に寝ていた。彼は、荒い息遣いで、血走った目で寝室に入ってくる二人を眺めていた。リゥ医師は立ち止まった。男の息の合間に、ネズミの小さな鳴き声が聞こえるような気がしたからだ。しかし、部屋の四隅には何の動きもない。リゥはベッドに向かった。男はあまり高い所から落ちたわけでもなく、また急激に落下したわけでもなかったので、頸椎は無事だった。無論、多少の窒息症状は有る。X線撮影をしてみなければなるまい。リゥ医師はカンフル注射をし、数日で万事良くなると言った。

「ありがとうございます、先生。」男は、苦しそうな声で答えた。


リゥがグランに警察には届けたかと訊くと、グランは当惑した様子で、

「いえ、いえ、とんでもない!」と答えた。「至急やらなければいけないと考えたのは…」

「勿論です」とリゥは話を遮り、「それは私の方でやりましょう。」と言った。

しかしそれを聞いて病人は興奮し、ベッドに半身を起こして、自分は大丈夫だ、それには及ばないと抗議をした。

「落ち着きなさい」とリゥは言った。「大したことじゃありませんから、それに届けるのは私の義務なんでね。」

「ああ!」と病人は言った。

それから仰向けに倒れ、しくしくと泣き始めた。グランは、少し前から口髭をいじくりまわしていたのだが、病人に近づいた。

「ねえ、コタールさん」と彼は言った。「分かってください。先生には責任があるのですよ。ひょっとして、またあなたがあんなことを繰り返す気持ちになったりしたら…」

しかし、コタールの方は泣きながらこう言った。自分は2度とあんなことはしない。あれはただ一時の気の迷いだった。だからもうそっとしておいて欲しい。リゥは処方箋を書いていた。

「分かりました」とリゥは言った。「やめておきましょう。二、三日したらまた来ます。でも、馬鹿な真似はしないように。」

踊り場の所でリゥはグランに、自分は警察に届けねばならないが、署長には二日後から調査にかかるように頼んでおこうと言った。

「今夜は彼から目を離してはいけない。彼には身内がいますか?」

「身内に知り合いはいませんが、私が寝ずの番を引き受けてもいいですよ。」

グランは首を縦に振っていた。

「いいですか、あの男についても、知り合いというわけではありません。でも、困ったときはお互い様ですから。」

建物の廊下で、リゥは何気なく部屋の隅々を眺め、この地区ではネズミは完全に姿を消したのかとグランに尋ねた。市職員は何も知らなかった。確かにネズミの話は聞いてはいたが、自分は街の噂にはあまり注意を払っていない。

「他に気掛かりなことが有りましてね。」と彼は答えた。

リゥは既にグランと握手をしていた。妻に手紙を書く前に管理人を診ておこうと急いでいたのだ。


夕刊の売り子たちが、ネズミの侵入は止まったと告げていた。しかし、リゥが管理人の所に行ってみると、病人はベッドの外に半身を乗り出し、片手を腹に当て、もう片方の手で首の周りを押さえ、いかにも苦しそうに汚物入れの中に薄桃色の胆汁を吐いていた。長いこと苦労し、息を切らして、管理人は再びベッドに身を横たえた。体温は39度5分、首のリンパ節と両手両足が膨れ上がり、片方の脇腹には二つの黒っぽい斑点が広がっていた。今や、管理人は内臓の痛みを訴えている。

「焼けるようだ」と彼は言っていた。「こいつのおかげで、身体が焼けるようだよ。」

煤けたように黒い口で管理人はもごもごと話し、頭痛のために涙が滲んでいる飛び出た眼球を医者の方に向けていた。管理人の妻は不安な様子でリゥを眺めていたが、リゥは黙ったままだ。

「先生」と彼女は言った。「何の病気なんでしょう?」

「いろいろ考えられますが、未だはっきりしません。今晩まで絶食、浄化剤を服用。水をたくさん飲ませるように。」

正(まさ)しく、管理人は喉の渇きに苛(さいな)まれていた。

家に戻り、リゥは同僚のリシャールに電話をかけていた。彼は市内で最も有力な医者の一人だ。

「いや」とリシャールは答えていた。「何も異常なケースは見なかったね。」

「局部の炎症を伴う発熱も無かったですか?」

「ああ!そう言えば、リンパ節の炎症がひどい患者が二人いたが。」

「異常なほどにですか?」

「うーん」とリシャールは答えた。「正常な場合はだな…」

いずれにしろ、夜になると管理人はうわごとを言い、熱は40度、「ネズミ、ネズミ」と言って呻(うめ)いていた。リゥは固定膿瘍を試みた。テルペンチンの焼けつくような痛みに、管理人は悲鳴を上げた。

「ああ!糞ったれどもめが!」

リンパ節はさらに大きくなっていて、触ると固く木質化している。管理人の妻は気も狂わんばかりだ。

「徹夜で看病してください」とリゥは管理人の妻に言った。「何かあれば、私を呼んでください。」

la peste I ⑪

翌4月30日、青く湿った空には早くも暖気を含んだ微風が吹いていた。風は一番離れた郊外から花の香りを運んで来る。街の朝のざわめきも普段よりも活発で楽しげに聞こえる。一週間続いた漠とした不安から解放され、我が小都市にとってその日は正に復活の日であった。リゥも、妻からの手紙にほっとして、心も軽く階下の管理人の家に立ち寄った。実際、朝は管理人の熱も38度に下がっていた。衰弱してはいたが、病人はベッドの中で微笑んでいる。

「良くなっていますよね、先生?」と管理人の妻が言った。

「もう少し様子をみましょう。」

しかし正午には、熱は一挙に40度に上がった。病人は絶えずうわごとを言い、再び嘔吐が始まっていた。首のリンパ節は触れるだけで痛み、管理人は出来るだけ首を長く伸ばしておきたがっているように見えた。管理人の妻はベッドの足元に座り、両手を掛布団の上に置き、優しく病人の両足を押さえている。彼女はリゥを見つめていた。

「いいですか」とリゥは言った。「患者を隔離し、特別な治療をしなければなりません。私が病院に電話しますから、患者を救急車で運びましょう。」

二時間後救急車の中で、リゥ医師と管理人の妻は病人の上に身を屈(かが)めていた。すっかり菌状腫で覆われた病人の口から、切れ切れの言葉が漏れていた。「ネズミどもめ!」と言っていたのだ。
青ざめ、唇は蝋のようになり、瞼は鉛色、短く断続的な呼吸、リンパ節で体は引き裂かれ、まるで簡易ベッドに挟み込まれたいとでもいうようにベッドに身体を押し付け、或は地の底から何かが絶えず彼に呼びかけているかのように、管理人は目に見えぬ力に押されて息を詰まらせている。妻は泣いていた。

「もう見込みは無いのでしょうか、先生?」

「お亡くなりになりました。」とリゥは言った。



la peste I ⑫

(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね