世の中にはさまざまな職業がある。

恵まれている職もあれば劣悪な条件の職もある。

日本では年間自殺者が3万人を超えるが、

その多くはおそらく金銭的な悩みによるものだ。

だとすればどういう職に就くべきかというのはとても大きな問題である。


水月昭道著『高学歴ワーキングプア』には、

大学教員をめざす大学院生の過酷な状況が描かれている。


経営的にしっかりしている大学の教員というのは恵まれた仕事である。

給与を含む労働条件も良いが、一番の恵まれた点というのは、

研究という自分の好きなことをしてお金が稼げることである。

正直そんな恵まれた仕事など世の中にはほとんどないのではないだろうか。


当然そういう恵まれた仕事を得ようとする熾烈な競争が起こる。

リターンが大きいわけだから、それなりにリスクも大きいはずである。

見事に職に就ける者もいれば、運や能力に恵まれず職にあぶれるものもいる。


それは大学教員志望者に限らず、あらゆる人気の職種に起こることなのだ。

芸能界、プロスポーツ界、政治の世界から法曹界、

多くの人があこがれる職業には常に熾烈な競争がつきものなのだ。


水月氏はこの本の中で多くの大学院生が職にあぶれるのは社会のせいだと言う。

本当にそうなのか? 芸能人志望者の若者が、

「私がスターになれなかったのは社会のせいだ」などと言うだろうか?


この本の中には、大学教員になれなかった人の話があふれている。

そしてそういう「犠牲者」を作りだした加害者が、

文科省であり、東大法学部であり、現役大学教員であると主張されている。

彼らは既得権にしがみついて無垢な若者を食い物にしているのだと。


しかしながら具体的検証はおろそかにされている感がある。

例えば、文科省と東大法学部が結託して大学院重点化を行ったとあるが、

どのようにだれとだれが結託したのか具体的な証拠は示されていない。

状況証拠を重ねるとそうに違いないといった論証しかなされていない。


また筆者はさかんに、今の若い研究者が博士号をもっているのに、

彼らを評価し雇う側の現職教員に博士号持ちがいないと繰り返すが、
現在の劣化した大学院を見ると、その博士号持ちの若手より、

かつての博士号なしの研究者の方が優秀だと僕は思う。


この本の中で一つ良い提案がなされていた。

博士号を持つ職のない人たちに、高度に専門的な知識を

一般人にわかりやすく説明する仕事についてもらってはどうかという提案だ。

これはとてもいい考えだと思う。
また、小学生や中学生に対して難解な科学を簡単な言葉で

分かりやすく解説する仕事というのもいいと思う。
本来大学に属する研究者がそういう役割を担うべきだが、

彼らは学内業務で忙しく、なかなかそちらに手が回らないし、

小中高の各学校の先生も日常の業務に忙しくて、

新しい科学の動向や専門的な知識を勉強する時間がないからだ。
ぜひそういうアカデミック・コミュニケーターのような人材を各学校に置く制度を作ってもらいたいと思う。


長くなってしまったが最後に一つ。

ひたすら恨み節を羅列するこの本には最後まで共感できなかった。

エンディング付近で、著者は、とある大学に理想的な研究室があると言う。

そこでは、現役の学生に混じってOBも参加する形で、

お互いに助け合ういいコミュニティーを作っているという。

その理由は何か?

それはその研究室の教員が最初の授業のときに、

「互いに協力し合いなさい、

決して足を引っ張り合うようなことをしないように」と教えるからだというのだ。

ここには理想的な利他主義があると著者は言う。


僕から言わせれば、利他主義なんてものを信じている時点で、

その人は現実世界に住んでいるのではなく、宗教の世界に住んでいるのだ。

純粋な利他主義なんてないってことは生物学がずっと証明してきたことじゃないか。

ダーウィンの『進化論』を、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読むとすぐに分かることだ。


現実から目をそむけ、いつまでも夢の世界の中だけを見ていると、

最後には自分がうまくいかないことを周りのせいにする人間になってしまう。

少なくとも僕はそんな人間になりたくない。

もし僕が自分の理想とする職に就けなかったとしても、こう言いたい。


「僕はリスクを承知で自分の理想とする職を求めた。

誰かにそうしろと言われたからその職を求めたわけではない。

残念ながら才能と運に恵まれず、希望はかなわなかったが、

自分に正直に夢を追い、全力を尽くしたことを誇りに思う」。


実際自分がそういう状況になってもなお、そう言えるかどうかわからない。

でも人のせいにすることだけはしたくない。

そんな人生は惨めじゃないか。

人に簡単に左右されてしまうほど脆弱な人生なんて。