ショッピングモールの歌姫
半崎美子さん
「ぼくはぞうきん」
ぼくはぞうきんなれるかなあ。
ショッピングモールの歌姫
半崎美子さん
「ぼくはぞうきん」
ぼくはぞうきんなれるかなあ。
何故か「戌(いぬ)の満水」には触れない「報道」
全国版はともかく、地元放送局も新聞社も一切触れない、何か都合が悪いのだろうか、忖度なのだろうか、時事通信がかろうじて報じている程度。(本文は時事通信記事ではありません)
台風19号で甚大な被害を出した千曲川長野市流域、
歴史的に見ればこの地域は昔から「水害」の常襲地帯でもある、江戸時代までは「荒れるに任せる」地域でもあった。
皮肉なことに「松代藩城下」更に近代の都市整備に伴って被害は増大していったことがわかる。
つまり、現在でも「戌の満水」水害時とほとんど変わらない状況にある、という事だ。
戌の満水(国立歴史民俗博物館研究報告96集2002年3月)
寛保2年(1742)の8月,信濃の北部を流れる千曲川・犀川が大水害をおこした。この水害によって多くの被害がもたらされた。この水害のことを北信濃では「戌の満水」と呼び習わしている。
長野市立博物館には,この「戌の満水」の被害状況をあらわしたといわれる絵図面が伝わる。
松代藩の状況
戌の満水以後,城下の被害がどのように推移したかを概略述べる。まず戌の満水の被害について 確認しておきたい。この時の被害は「橋流五箇所、流家七十五軒、潰家一〇六軒、流死人三十九人、流死馬十五疋」であった。この時の損耗高は5万9,368石,在方にあっては,流家1,731軒,
潰家857軒,半潰家254軒,流死人470人であった。
その後に起こった二つの大きな水害について,被害が明確なものを取り上げて対比してみよう
明和2年(1765)に起こった水害では,城下の被害は「侍屋敷川欠込三軒、半潰家十六軒、潰家十九軒、寺大破一箇所、町屋敷流家一軒、半潰家二軒、橋流損二十四箇所、家中町用水堰損三百二十一間」であった。この時の損耗高は5万3,865石で,在方にあっては流家55軒,潰家221軒,半潰家500軒,流死人25人であった。
もう一つ安永8年(1779)に起こった水害は,城下の被害は侍屋敷の半潰家1軒・潰家36軒,
流番所1カ所,町屋の流家2軒・潰家2軒・半潰家5軒・損家181軒,橋流れが2カ所,橋損が5カ所,用水堰損が420間であった。ただ,城は無傷であった。この時の損耗高は1万4,633石であった。加えて永荒として永荒3万3,000石に,明和2年の損耗&500石が永荒となっていた。ちなみに在方では,流家9軒,潰家30軒,半潰家65軒,損家390軒,流死人15人であった。
戌の満水の様相としては,①松代城下に見られるような数日間にわたる千曲川の満水がある,②千曲川などの河川に流れ込む支流の増水とその決壊があり,これによる被害が大きい,③おもに西山地区に見られるような,山間地における山抜けとそれによる河川のせき止め,その後の決壊に伴う土石流,などがあげられる。
戌の満水を経験した松代藩が行った復興策は,まずは城下の安定を最優先したであろうと考えられる。城下町が建設されるまで,ここはおそらく神田川,関屋川などの影響を受けやすい場所であったと思われる。そのため,河川のコントロールは重要な問題であった。まず,よく知られたものとして,千曲川流路の改修がある。松代城の脇を流れていた千曲川を,城北の現在の場所に移した。
それとともに,神田川や関屋川などの城下に流れ込む川の改修もなされた。関屋川にいたっては,江戸時代の後半になると城下町の東側を流れるルートに変更になっている。
戌の満水によって,村での自衛的な普請が行われている。例えば牛島村に見られるような輪中の形成である。また,堤防工事などにも自普請が見られる。こうした普請も,水害のたびに同じような場所が決壊している。寛政元年に堤防の普請願いが出ているが,これによれば,安永8年と天明3年に決壊した堤防をまた改修したいという願いをだしている。このことからすると,水害によって決壊する場所はそのほとんどが普請所やそこに近い場所であることが分かる。そのため,同じ普請所をいかにもたせるかが重要であったと思われる。
近世初頭における裾花川の改修や,松代城下の建設など,大規模開発が続いたことにより,従来経験したことのない,大規模な水害が新興地域を襲った。こうした城下町などの水害対策が問題になり、解決策を本格的に見つけはじめるきっかけとなったのは戌の満水であったといえよう。
堤防が決壊した長野市長沼地区にある浸水を示す標柱