ヤフーブログ終了のため、アメブロ再開いたしました、よろしくお願いいたします。
写真は地区内(山間地の集落)の、菜の花に囲まれた家です。
この家の周囲は田畑ですが、草刈などの手間がかかり大変なので、雑草抑止と景観確保のために菜の花を(種を)まいたそうです、種が風で飛んで、どんどん広がっています。
ここはもともと畑だったところなのだそうですが、先住者の方が数十年前に杉の木を植えたそうです。
薪材が足りなくなってきたことと、杉の木が伐採の時期に来ていること、更にこの上にある畑にも日当たりが良くないため(現在は休耕地)伐採して畑も再生することにしました。
と言っても山間地の傾斜地で、ここ数年間は手入れもされていない杉の木と、土地なので足場も悪く山側に倒すしかないのですが、(運び出しも写真左上の方へ出すので)
だいたい10センチから30センチくらいの太さで長さは15~20m位はあると思います。
全部切れば20本位はあると思いますが、この日伐採したのはここに見えるだけのものです。
全部切れば20本位はあると思いますが、この日伐採したのはここに見えるだけのものです。
太い杉の木でこんな感じですが、チェーンソーの刃渡りの長さが35センチなので大きさはわかると思います。
もう少し大きいチェーンソーが欲しいところです。
木目も綺麗なので机か何かにでもしようと思って整形した切り株です。
この日の作業も終わりチェーンソーの手入れをしていると、どこからか猫の桜(おう)ちゃんが現れ、うるさいです。
それで、さんざ騒いでおうちに帰ったら膝の上で爆睡。
膝の上から転げ落ちても起きません。
膝の上から転げ落ちても起きません。
もうひとつのハチ公物語。
実はもうひとつの「ハチ」の物語があります。
それは、中国大陸に進出したある日本兵と雄豹の2年6か月の物語。
それは、中国大陸に進出したある日本兵と雄豹の2年6か月の物語。
「寝る時も、お風呂の時も、“この子”は常に兵隊さんと一緒でした。夜の見張りで心細い兵隊さんを訪れ、勇気づけました」
1941年2月、中国の湖北省陽新県に駐屯していた鯨部隊(陸軍第40師団歩兵第226連隊:秘匿名称鯨6884部隊、高知県善通寺)の成岡正久小隊長のもとに、現地の中国人からある“陳情”があった。牛頭山と呼ばれる現地の岩山に、3mもの大豹がすみ着き、山ろくの部落を襲っているのだという。あたりには鳥や獣の死骸だけでなく、人骨と衣類まで散乱していたのだ。
緊張が走る部隊。山を登ると、「ガオーッ」と岩の割れ目の空洞から獣の鳴き声が聞こえてくる。息を潜めて“敵”の出方をうかがう成岡一行が最終的に取った選択は、「焼き討ち」だった。空洞に燃える木々を投げ入れた成岡。そのとき、煙の向こうから現れたのは、予想外のものだった。
《2匹の豹の赤ちゃんが、ほとんど火が消えた入り口のところに、ヨチヨチと歩いてきた》大豹の姿はどこにもなく、再び空洞の中へと戻って行く赤ちゃん豹たち。
《見殺しにはできない。成岡は率先して穴に入っていった。まもなく、成岡は、豹の赤ちゃんを二匹抱えて、外に出てきた》
《見殺しにはできない。成岡は率先して穴に入っていった。まもなく、成岡は、豹の赤ちゃんを二匹抱えて、外に出てきた》
豹を拾った成岡は鯨部隊「第二大隊」第八中隊の第三小隊長。「ハチ子」と名づけられたこの豹は、以降、鯨部隊の一員として生きることになった。
「命名したのは、飼育係に任命された一等兵の橋田寛一さん。後に性別がオスだとわかり、“ハチ”と呼ばれるようになったそうです。橋田さんは軍服のいちばん上のボタンを外し、ハチの顔を出すようにして服の中に入れて育てた。ミルクがないので、橋田さんは自分のご飯を噛んで軟らかくして、口移しで食べさせたそうです。深い愛情に包まれながらハチは育ちました」(門田氏)
成岡もハチを溺愛した。任務を終えると橋田からハチをもらい受け、夜は宿舎で一緒に寝た。後に成岡は自著『兵隊と豹』でこう綴っている。
〈私はかはいくて、夜も一しよに布團に入れて抱いて寝るのですが、目がさめて見ると、きまつて彼は布團の上にのつて眠つてをりました。夜中になんだか息苦しくなつて目がさめると、彼は私の頚の上に體をもたせて眠つてゐるのです〉
すくすくと育ったハチはやがて大きくなり、巡回や歩哨(ほしょう)にも随行。「猛獣を飼い慣らす鯨部隊」として、その名はいつしか戦場にとどろいていった。
〈私はかはいくて、夜も一しよに布團に入れて抱いて寝るのですが、目がさめて見ると、きまつて彼は布團の上にのつて眠つてをりました。夜中になんだか息苦しくなつて目がさめると、彼は私の頚の上に體をもたせて眠つてゐるのです〉
すくすくと育ったハチはやがて大きくなり、巡回や歩哨(ほしょう)にも随行。「猛獣を飼い慣らす鯨部隊」として、その名はいつしか戦場にとどろいていった。
「ハチは自分を“豹”だとは思っていなかったのでしょう。生まれて間もない頃から鯨部隊の中で育ちましたから。成岡さんや橋田さんが“親”で、隊員たちは“家族”。そして、ハチもまた、部隊の“隊員”だったのです」(門田氏)
だが、部隊の上層部には、少なからずハチの飼育に反対する者がいた。理由は猛獣ゆえのリスクである。万一、隊員に危害を加えたらどうするのか──。
成岡の恐れる事態は、まもなくやってきた。
「豹の飼育は危険であるから、隊内での飼育を禁じる」
悩んだ末、成岡はありのままのハチを見せることを決めた。ハチを隠すことは「隠蔽行為」にあたり、処罰される可能性がある。それならば、ハチがいかに部隊を癒し、志気を高めているか、見せた方がよい。
内務巡視当日、成岡の隣で連隊長を迎えたハチ。成岡が固唾をのんで見守る中、ハチは予想外の行動に出る。あろうことか、連隊長に飛びかかったのだ。
成岡の脳裏に最悪の事態がよぎる。だが、そこで繰り広げられた光景が、ハチの運命を変えることになった。
《ハチが亀川連隊長の右腰に吊り下げられた大きな「図嚢」(地図入れ)にぶら下がって、じゃれ始めた(中略)連隊長は、足もとで愉快に遊ぶハチの姿を見つづけている。それは、いささかも「危険」というものを感じていない風情だった》
亀川連隊長は、ハチの頭を撫で始めた。意外な展開だった。(しめた!)内心、小躍りするほどの喜びを感じた》
亀川連隊長は、ハチの頭を撫で始めた。意外な展開だった。(しめた!)内心、小躍りするほどの喜びを感じた》
「この猛獣に、危険はない」
かくしてハチの飼育は許可され、鯨部隊に帯同することを許された。ハチが命を繋いだ瞬間だった。だが、喜びは束の間。別れの時はまもなくやってきた。
1942年4月、米軍による初の本土空爆を受けた日本軍は、大規模な反転攻勢に出る。当時、米軍機の着陸地点に指定されていた中国本土の航空基地の撲滅作戦である。
鯨部隊のほぼ全兵力が動員される大規模なもので、さすがの成岡もハチの同行は不可能だと悟った。
大阪の動物園にハチを引き取ってもらうよう丁寧な手紙を書いたのだ。だが、どこからも引き取り手が現れない。
「理由は食糧難でした。国民が飢えている状況です。地方の動物園には、新たに肉食動物の餌を確保できる余裕がなかった」(門田氏)
鯨部隊のほぼ全兵力が動員される大規模なもので、さすがの成岡もハチの同行は不可能だと悟った。
大阪の動物園にハチを引き取ってもらうよう丁寧な手紙を書いたのだ。だが、どこからも引き取り手が現れない。
「理由は食糧難でした。国民が飢えている状況です。地方の動物園には、新たに肉食動物の餌を確保できる余裕がなかった」(門田氏)
成岡の奔走により上野動物園でのうけいれがきまります。
当時の園長代理・福田三郎は快くハチの受け入れを決定。移送計画が迅速に作られ、同年5月、ハチは中国大陸から船で日本へと渡ることになった。その数日前、鯨部隊は航空基地の撲滅作戦のため、先に駐屯地を出発している。出発前夜の飲み会では、隊員皆で『南国土佐を後にして』を歌い、ハチとの別れを惜しんだという。
当時の園長代理・福田三郎は快くハチの受け入れを決定。移送計画が迅速に作られ、同年5月、ハチは中国大陸から船で日本へと渡ることになった。その数日前、鯨部隊は航空基地の撲滅作戦のため、先に駐屯地を出発している。出発前夜の飲み会では、隊員皆で『南国土佐を後にして』を歌い、ハチとの別れを惜しんだという。
成岡は自著『兵隊と豹』の中で、ハチとの別れについて、こう綴っている。
〈私はしつかりと彼を抱きしめました。思はず彼の顔にぴつたりと頬をつけると、涙が湧いて來て、あとからあとからと流れおちました。ハチ公も私の氣持ちが分かるのかじつと私の膝にもたれかゝつて、うなだれていました〉
仲間たちと別れ、はるばる日本にたどり着いたハチを待っていたのは、空前の“ハチブーム”だった。「鯨部隊のマスコット」としてすでに新聞各紙で報じられており、上野動物園に登場するや、人が殺到したのである。
当時の朝日新聞(1942年6月2日夕刊)を読むと、ハチの人気が如実にわかる。
〈上野動物園で初お目見得した雄豹の子「ハチ公」が然坊ちやん嬢ちやんの人気を掻つさらつてしまつた、この人懐つこい豹の子はそれもそのはず中支戦線で活躍中の皇軍の兵隊さんの手に捕らへられたのが生後二、三箇月のほんの赤ん坊時代、以來満二歳のけふまで部隊のマスコットとして可愛がられた〉
軍服を着た客が来ると懐かしさで近寄っていくこともあり、ハチの脳裏から鯨部隊と過ごした日々が消えることはなかった。だが、その後ハチを待っていたのは、あまりにむごい仕打ちだった。
1943年8月16日、前出の福田園長代理が東京都庁に呼び出された。公園緑地課長の口から告げられたのは、「猛獣殺処分」に関する概要。単刀直入にいえば、「動物園の猛獣を毒殺せよ」との命令だった。
理由は前述した食糧難に加え、“非常時の住民の安全”が挙げられていた。戦時下の動物の扱いについて研究している、もり動物クリニックの森徹士院長が語る。
理由は前述した食糧難に加え、“非常時の住民の安全”が挙げられていた。戦時下の動物の扱いについて研究している、もり動物クリニックの森徹士院長が語る。
「発端となったのは、1941年に上野動物公園が陸軍東部軍司令部の要請に応じて作成した『動物園非常処置要綱』です。空襲など非常時における猛獣対策をまとめたものですが、例えば動物園が爆撃され、檻が破壊された場合、猛獣が街中をうろつくことになりかねない。その想定をした上で、殺処分を含めた対応マニュアルを作っておいたのです。実行に移す直接のきっかけは、戦況の悪化でしょう。
ただ、食糧難や空襲時の“予防策”以上に、空襲の覚悟と心構えを都民並び国民に喚起する側面もあったはずです。“われわれは今これほど逼迫した情勢なのだ”と。それを伝えるために、何の罪もない動物を殺していったのです。
8月18日、ついにハチの番がやってきた。硝酸ストリキニーネを混ぜた餌を係員が置く。すると、他の動物と違い、ハチは疑いもせず口に入れたという。人間に愛され、人間を愛したハチである。目の前の餌が、自分を殺すためのものだとは微塵も思わなかったのだ。
福田園長代理の自著『動物園物語』(駿河台書房)に、ハチの最後の描写がある。
〈豹は食べるとすぐ、顔をしかめ、口を曲げ、口の中の物を取ろうとでもするのか、前肢を口へ持って行くのです。が、急にごろりと横になり、目を時々閉じています。すると急に起きあがって歩き出しました。が、四肢の硬直がきて、ついに倒れてしまい、二度と立つことが出来なかった〉
人間に拾われ、人間に育てられ、人間に命を救われたハチだったが、最後は信じ続けた人間に殺されたのだった。
1週間後、福田からの電報でハチの死を知った成岡の絶望は、計り知れぬものだった。
「ちょうどその8月、成岡小隊長は2か月の特別休暇を与えられ、高知に帰ってきていた。ハチは元気かと問うた返事が、死を告げるものだったのは、運命の皮肉としかいいようがない。帝都東京ならいちばん安全だと確信し、ハチを上野動物公園に預けたわけです。まさか動物園によって殺されるなんて、予想だにしていなかったでしょう。2か月後、隊に戻った彼からハチの死を聞かされた鯨部隊の隊員たちは、涙に暮れたといいます」(門田氏)
「ちょうどその8月、成岡小隊長は2か月の特別休暇を与えられ、高知に帰ってきていた。ハチは元気かと問うた返事が、死を告げるものだったのは、運命の皮肉としかいいようがない。帝都東京ならいちばん安全だと確信し、ハチを上野動物公園に預けたわけです。まさか動物園によって殺されるなんて、予想だにしていなかったでしょう。2か月後、隊に戻った彼からハチの死を聞かされた鯨部隊の隊員たちは、涙に暮れたといいます」(門田氏)
1945年、日本は敗戦を迎え、成岡は復員。高知に戻ってからも、彼の脳裏からハチの無念が消えることはなかった。ここからの成岡の行動が、真っ直ぐな土佐人気質を表している。
「せめてハチの魂を救いたいと、剥製をもらい受けるべく園長代理の福田さんに掛け合ったのです。何としてもハチを自分の手元に置きたいという、深い愛情と執念です」(門田氏)
「せめてハチの魂を救いたいと、剥製をもらい受けるべく園長代理の福田さんに掛け合ったのです。何としてもハチを自分の手元に置きたいという、深い愛情と執念です」(門田氏)
福田は彼の真摯な思いに胸を打たれ、妙案を考える。ハチの剥製が傷んだことを理由に一度廃棄物として処理し、その後所有者を成岡に移したのだ。こうして1948年、成岡のもとにハチが戻ってきた。成岡の孫である俊昌氏がハチの思い出を語る。
「祖父は復員後、高知市内で喫茶店を経営していたのですが、ぼくが物心ついた頃から店内にはハチの剥製がありました。祖父は毎朝、剥製の横に腰かけてコーヒーを飲むのが日課でした。お客さんがハチに気づくと、当時の思い出話をしてあげてね…。
近所にはともに戦場に行った戦友も住んでいましたから、時折集まっては皆でハチの話をしていました。もし生きていたら動物園から引き取って、ハチとともに生活したいという思いがあったようです」
近所にはともに戦場に行った戦友も住んでいましたから、時折集まっては皆でハチの話をしていました。もし生きていたら動物園から引き取って、ハチとともに生活したいという思いがあったようです」
1981年、店の傍に「子ども科学図書館」が開館すると、成岡は剥製の寄贈を決める。
「子供たちにハチの存在を知ってほしかったそうです。もともと自宅ではなく喫茶店内に剥製を置いたのも、お客さんにハチのことを伝えたかったから。寄贈後は寂しそうにしていましたが、時折図書館に足を運び、ハチと会っていたようです。1994年、祖父は84才で亡くなりましたが、死の間際までハチを思い続けていました。今頃、天国でハチと再会して、幸せに暮らしていると思いますよ」(俊昌氏)
2011年7月には、ペギー葉山さんも同館を訪れ、ハチと会っている。常々、鯨部隊とハチのかかわりについて聞いていたペギーさんは、この日のことをブログにこう綴っている。
〈ハチ、やっと逢えたね! 遠い中国での日中戦争の最中、日本の兵隊さんのアイドルとなってあなたは遠く故郷を離れて戦っていた兵隊さんへの「心の癒し」だったのよね〉
〈毎晩露営をしながら故郷を思いながら兵隊さんの歌う、あの「南国土佐を後にして」にあなたは、耳を傾けていたんだよね〉
「図書館のシンボルマークとしてハチのイラストを使用しており、年に1回、8月第1週の日曜日には、紙芝居を使ったハチの読み聞かせイベントも開いています。戦争を知ることの大切さ、そして知るための場を作ってくれているのが、ハチなのです。写真のみならず剥製まであると、子供たちに伝わるものが大きい。実際、初めて来たかたは皆、剥製に目がとまりますから」
ハチの紙芝居は5種類あり、市内の図書館や小学校、幼稚園にも貸し出しているという。同館の前館長・澤田邦子さんもこう話す。
「平和教材として『ハチからのメッセージ』という冊子も作成しました。平和の尊さを後世に伝える上で、ハチのエピソードがいちばんわかりやすいと思ったのです。忘れられないのが、元鯨部隊のかたが来館した時のこと。剥製の前で涙を流しながら話しかけているんです。ハチの前からずっと動かず、向き合うようにしてね。戦争で殺された動物たちはたくさんいましたが、ハチが貴重なのは、剥製として残っていること。触れ合うことで伝わるメッセージがあるのです」
※女性セブン2017年8月24・31日号
『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(門田隆将著・小学館)は、鯨部隊が歌っていたという『南国土佐を後にして』という曲の数奇な運命、そしてハチと鯨部隊の交友に迫った一冊。著者・門田氏の証言を交えて、ハチの生涯を紐解く――。

保護された頃のハチ

大きく成長したハチ

上野動物園に来た頃

剥製になったハチ

ペギー葉山さんとハチ

門田隆将著/奇跡の歌











