またまた『ただ語りたいだけの話』です。

こういう込み入ってくる話は、創作ブログを期待されている読者の方にはポカーン( ゚д゚)かもしれないので、そろそろちょっとどこかよそでブログか何か書くところを作ろうかなと検討中です……汗

 

 

先日、ある本を読んでいたら、面白いことに気づいたので書きますね。

 

阿毘達磨(アビダルマ)仏教哲学では、

 

【過去】→【未来】

 

という風に進んでいくのではなく、

 

【過去】←【未来】

 

未来が過去を作る、という発想だそうです。

 

たとえ話なども読んだのですが、アドラー心理学のアルフレッド・アドラーが言っていた「トラウマの捉え方」と一緒だったので驚きました。

 

アドラーは「トラウマは存在しない。過去の捉え方の問題」だと提言しています。

 

 

 

例えば、幼少期に事故に遭って片足を失ってしまったとします。

その人物は二つの未来を辿るとしましょう。

 

〔未来①〕

片足を失ったショックから不登校になり、引きこもりがちになり、家族との関係も悪化。心身の健康を害し、寝たきりになってしまった。

 

〔未来②〕

片足を失って動き回りにくくなった分、パソコンを始めてプログラミングに強くなった。高校生にしてITの会社を企業し、若手社長としてメディアでも大活躍。本を出したり、同じような障害を負った子供たちのための基金も設立。充実して過ごしている。

 

この二つの未来の場合、過去の「片足を失った」という出来事の捉え方が大きく違ってくるであろうことが分かります。

〔未来①〕なら、「あんな事故さえなければ……。ちくしょう、自分はもうだめだ」

〔未来②〕なら、「不運な事故だったが、それがあったから今の自分の成功がある。辛い経験だったが、あって良かったことなのかもしれない」」

 

 

 

というわけで、阿毘達磨仏教哲学で言えば、“未来が過去をつくった”ということになります。

未来①は「最悪の過去」を。

未来②は「今の自分の成功をもたらしてくれた過去」を。

 

アドラー風に解釈すれば、”未来(現在)の自分の状況が、過去の出来事をラベリングしている”と言えるわけですね。

未来①の自分なら、「あれは悪い出来事(トラウマ)だった」と言うだろうし、

未来②の自分なら、「あれがあったから今の自分がある」としてトラウマとは捉えないでしょう。

 

 

 

しかしながら驚くべきは、東洋哲学の自己洞察の極みへの到達の早さです。

アドラーは19世紀末~20世紀初頭の人物ですが、

阿毘達磨仏教哲学は、大体紀元前100~紀元500年頃のものです。

 

 

「仏教」というとどうしても、

「法事の時、正座してムニャムニャした呪文を聞くだけ」とか

「焦らない焦らない、一休み一休み」的なことを想像してしまうかもしれませんが、

それは「ブッダ」自身をありがたがる宗教の方ですね。

(遺骨の歯一つで寺院や塔が建つくらいですから)

 

そうじゃなくて、本来のブッダ自身の教えっていうのは、「どうして人は苦しむのか」という人の悩みを理論的に考え、苦しむ人々を教え導くものなのです。

形骸化、あるいは時の権力者の利用手段として、上記のようなムニャムニャした宗教になっていったのかなと思いますが。

 

これは何か神聖なものをありがたがる宗教でなく、れっきとした哲学です。

現代の悩みにもまるっと通用します。

 

 

また、18世紀に西洋哲学が到達した「自己が存在しない」という考え方は、その約二千五百年前に東洋哲学が通過した地点に過ぎないとか。

ブッダの説いた「色即是空 空即是色」は、現代の量子力学に通ずる部分もあるそうですね。

 

 

 

未来が過去を作る。

現在(過去から見た未来)が過去を意味づけ、トラウマにもしうるし、人生の転機とも出来る……。

 

私も確かにうなずける部分はあります。

それが、「未来が過去を作る」とまで言えるかはちょっと分かりませんが。。(゜゜)あせる

 

 

以上です。

では~☆

 

 

 

どうでもいい蛇足なんですが、プロフ画を大人海一にしてみたら、なんだかブログ記事を彼が喋ってるみたいに見えてきました……(゚Д゚;)

 

 

あじさい 雨 あじさい 雨 あじさい 雨 あじさい 雨 あじさい 雨

 

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