横浜山下公園の氷川丸 | 都の西北 / 山梨 / 甲府 / 愛宕山からチトフナ(世田谷)に!

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2004年12月に山梨県に移住,15年を過ごした後に
2020年3月に世田谷に引っ越しました!

横浜山下公園の氷川丸

 



 

今日で6月も終わり、1年の半分が過ぎてしまいました。

こないだお正月を迎えたばかりの印象で、

この月日の経つのが早いことに驚きです。

 

6月末は保有している株式の優待券が贈られてくる時期です。

その中に日本郵船からの優待、横浜(元町・中華街)にある

日本郵船の氷川丸の見学券が入っていたので

せっかくなので見学に行ってきました。

 → 入場券:300円が4枚、内2枚を使用

 

土日と祝日がデッキを開放しており

天気はいまいちでしたが、

今日(6/30)がチャンスと出かけてみました。

 → 横浜の石川町まで、意外に遠かった?

 

さて、この氷川丸ですが、

飛行機を使うことが一般的ではなかった時代(~戦前)、

海外への渡航は船を使うことが常識であり、

その時に使われていたのが豪華客船でした。

氷川丸は昭和5年から113カ月の間

北米航路のシアトル繊維配属されており、

73航海でのべ1万人の乗船客を運んだそうです。

 

柔道の加納治五郎(現在の筑波大学の校長)が

オリンピックの開催権を交渉に行った際に乗船、

帰りの船旅の途中で亡くなっている事には

歴史の重厚さと言うか、灌漑深いものを感じました。

 

戦争の影響が出てきた1941年にシアトル航路が休止となり

以降は病院船へと改造され、戦地と国内病院を結びました。

終戦を迎えた後は復員輸送船となり2万人近くを輸送したとあります。

海外航路がGHQから許可されていなかった際には

大阪・横浜・北海道(室蘭・函館)の定期便となり、

1949年に日本郵船による運営管理に戻り

1950年にシアトル航路に復帰、1960年までに

多くの人を海外に連れて行ったそうです。

30年間のシアトル定期便では太平洋横断254回、

乗船客は25千人を超えたとあります、凄いですね!

 


 


 



 

現在は山下公園のシンボルとして、

国の重要文化財に指定されています。

 

船内の見学はなかなか興味深く、

2時間近くをかけてじっくり見せていただきました。

とても有意義な時間を過ごすことができた気分で、

家内もそれなりに楽しんでいたようです。

 



 

追伸、中華街で昼食をとりましたが、

そこははずれで、家内に文句を言われてしまいました。

店の選別、なかなか難しいです(汗)。

 

中華料理はリベンジに行きたいと思います。

次回はちょっと豪勢にやろうかと思います。