日本語を海外で教えている方ならおそらくもう聞き飽きたリアクションかもしれないが、日本語に”パロラッチャ”がないことについてなぜこうも外国人はびっくりするんだろう。

パロラッチャ、とはイタリア語で”palore 言葉”の悪い意味で、(・・・accia をつけると悪い意味になる)要は”và Fan xxxx" (ファックユーみたいな言葉)などのことである。

 

今まで、日本語にはパロラッチャがないよ、と言うと100%の反応が”ええええええーびっくりそれでどうやって生活できんの””頭にきたらどうすんの”というもので、誰しもが口を揃えて”外国語を勉強するときに初めて習う言葉はパロラッチャだろう!”と言うのである。

 

日本語にだって、北野武の映画に出てくるみたいな悪い言葉はあるが、どちらかというと言い方の問題なんであって”この野郎”とか”テメー”とかはその他の国にあるみたいに性的表現を含めたパロラッチャではない。

 

まあ、私の祖母はかなり威勢のいい人で、嫁である母を罵倒するのに”このアマが!”と言ったそうだが、これだって別に”ビッチ”みたいな意味ではない。(ビッチ、は売女というか。でもあんまり聞かないよね)で、うちの母は昔から世間を知らない箱入りお嬢様だったので”アマ”という意味がわからず辞書で調べたそうだ。爆  笑

最近ではもしかしたらビッチ、みたいな輸入言葉を使っているのかもしれないけど、これは所詮自分のものじゃないから大して重い意味にはならないのではないだろうか。

 

で、昨日も授業でこの話になって、そういうときによく言うんだけど、一つだけまさにイタリア語でも使う言葉そのまんまのパロラッチャがあるよ、と。

それはね。

 

 

 

クソっ!(merda! )

 

 

 

です。

女子は使わない方がいいけどね。

 

これは単体でも、クソ野郎とかいう修飾語(?)でも結構にたように使う。英語でも同じだから恐らく人類共通の意識なのだろう。

 

 

でもって、じゃあ日本人はどうやって怒りを表現するんだ?という話になった。これもいつも言うと面白がられるんだけど、

 

 

 

 

丁寧語になります。

 

 

 

 

今まで親しくしていたカップルや友達同士でいきなり”そうですか、分かりました”と言い始めたらこれは怒っている印である。もちろんこのまんまイタリア語に当てはめて敬語にしても何の意味もない。丁寧語や敬語はもちろん丁寧な表現に使うんだけどその他に心の壁を作る意味があるからである。

 

自分自身のことを振り返って、何かすごく頭にくることがあった時にじゃあ何て言うんだろう?と思うとあまりボキャブラリーがない。言葉にならない言葉で叫んでいるような・・だからといってイタリア語のパロラッチャを使うかというと、これは前提にキリスト教文化の厳しい性的抑えつかがあるからこそ生きてくるものなので、それがない日本人では全くもって機能しない、だから使わない。もちろん使って褒められるものでもないし。

 

別に無くたって全く構わないけど、深く考えるとこれも日本語の”欠損”の一つ、なのかなあと思えてくる・・