超絶主義の宣言者エマーソンと、森の生活を実践したソーロウ
内藤善弘
19世紀初頭、アメリカでは、ニュー・イングランドを中心として、ユニテリアニズム(Unitarianism)という神学思想が広まっていた。
ユニテリアニズムは、それまでアメリカのピューリタンたちが奉じていたカルヴィニズム(Calvinism)への反動として起こったとされる。神学的立場からみると、ユニテリアニズムは、父・子・精霊の三位が一体であるとするカルヴィニズムに対し、父なる神を唯一の実在神とみなす一位説を唱えるものである。神の義、裁きの前におかれた人間の完全依存、腐敗、堕落に対し、神の愛、赦し、人間の生まれながらに有する善性を説いたもので、イエス・キリストもすぐれた人格を備えた人間として扱った。さらに、聖書にみられるさまざまな神の奇跡も、理性の光に照らして解釈するべきであると強調した。最も特徴的なのは、神にではなく人間にこそ自己救済の可能性があることや、神中心の信仰ではなく人間中心の信仰を唱えたことである。
しかし、あまりにも理性偏重で冷たい理知主義であったために、思想の分裂を招くこととなり、その結果として生じたのが超絶主義である。
超絶主義は、宇宙の本質、神と人間の内面とは究極的に同質のものだとして、人間の精神、自我そのものが神であると主張した。そして、この神、すなわち自我のつながりを認識する媒体能力として直観を重んじ、理性という枠を取り外し、一切の経験、悟性に先立つ直観能力、想像力に信頼を寄せ、無限者神との合一を求めた。こうした思想の背景には、ドイツやイギリスのロマン主義思想、プラトン哲学、東洋の神秘主義思想の影響があったと考えられている。また、領土の拡張や産業発展、人口の急増など、躍動するアメリカの実情にも支えられていた。超絶主義は、成長するアメリカの土壌に根ざし、アメリカの姿を反映しながら、宗教や文学などに新しい息吹を与えたのである。
ラルフ・ウォルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-82)の処女作『自然論』(Nature)は、超絶主義の宣言書といわれている。『自然論』は、次のような言葉で始まっている。
われわれの時代は過去ばかり眺めている。われわれの時代は、先祖たちの墓をたてる。われわれの時代は、伝記と歴史と批評を書く。われわれに先立つ世代は面と向かって神と自然とを見た。われわれは彼らの目を通して見ている。われわれもまた宇宙に対して独自の関係をもつべきではないだろうか。われわれは伝えられてきたものではなく、直観による詩と哲学をもち、われわれに先立つ世代の宗教の歴史ではなく、われわれに啓示された宗教をもつべきではないだろうか。……太陽は今日も輝いている。野にはもっと多くの羊毛があり、亜麻がある。新しき土地、新しき人びと、新しき思想があるのだ。われわれ自身の仕事と法則と礼拝とを、求めようではないか。
『自然論』によって、エマーソンは、自然と人間との間にある「対応関係」や「類似」をとらえることで、自然の中に見られるすべての事実は、ある精神的な事実にほかならないとした。さらに、自然は人間精神の象徴である、という表現をする。エマーソンにとっての精神とは、普遍的な魂であり神に等しいものであった。それはまた、皮相的な自己を否定したあとの純化された人間の自我そのものでもあった。このように、エマーソンは、人間の自我を限りなく高揚し、それを神に等しいものと考えた。
エマーソンは、直観により、自然が精神の象徴であると同時に、神の象徴であり、人間の崇高な自我を象徴するものでもあることを認識した。そして、直観によって真理を知り、宇宙の神秘を解き明かそうとしたのである。エマーソンが到達した真理は、「人間は涸れ尽きることのない泉によって養われ……絶対的な本性を見ることを許され……完全に創造主の心に近づき、みずからがこの限りある世界の創造主であることを学ぶ」というものであった。エマーソンが描いたこの世界は、「主客合一の神秘的世界」「あらゆる相対を超えた絶対界」「真善美の合一したイデア的世界」などと表現される。エマーソンは、常に人間を中心に考え、その限りない偉大さを臆することなく強調し、それを信じていたのであって、人間と宇宙との間に「独自の関係」を見出し、人間の魂を解放したのである。
エマーソンのいう「独自の関係」を自分なりに追求したのが、ヘンリー・デイヴィッド・ソーロウ(Henry David Thoreau, 1817-62)である。
1845年7月4日、ソーロウはウォールデン池(Walden, マサチューセッツ州ボストン西郊、コンコードの近くの池)の畔に、ほとんど独力で建てた小屋に移り住んだ。そこでソーロウは、約2年間、自給自足の生活をし、読書と思索の毎日を過ごした。このときの体験は『ウォールデン-森の生活』(Walden; or Life in the Woods)として著され、人間がどこまで精神的に自由で、束縛のない生活を送れるかを知らせた。
エマーソンの影響を強く受けたソーロウは、このようにして、自己と宇宙との「独自の関係」を追求したのである。だが、ソーロウは、この追求に功利的な目的を持っていたわけではない。つまり、追求によって、人生の深い意義や何らかの高尚な意味、神の啓示などを探り出すことよりも、追求そのものが生きることであって、結果はどうでもよかったのである。そんなソーロウの姿勢は、次の一節に現れている。
私が森へ行った理由は、慎重に生きて生活の本質的な事実だけに直面してみたかったからだ、果たしてその事実の教えを学びとれるものか、またいざ死ぬ時になって、自分が本当の生き方をして来なかったなどとは思いはしないか知りたかったからだ。私は真実のものでなはい生活はしたくなかった。生きるということはそれほど大切なことだからだ……。
こうして自己を見極め、生の実体あるいは実在そのものを探ろうとしたソーロウが見たものは、強大な産業革命によって魂の自由までも奪われた人間の姿だった。人々は、まやかしの事実を尊重し、その幻の上で絶望の日々を送っているに過ぎなかったのである。ソーロウにとっては、この見せ掛けの首枷こそが、切り捨て、はぎ取らなければならないものだった。「単純化するがよい、単純に」と説くソーロウの言葉は、真の自由を取り戻し、本来の自己に戻ろうとするものであると同時に、当時の社会に広まっていた物質主義に対する警告、批判、そして抵抗であったのである。
自然を人間精神の象徴であるとして人間と宇宙との独自の関係を見出したエマーソン、そしてその思想を森の生活によって追求したソーロウ。いずれも、19世紀のアメリカという環境においてこそ現れた考え方なのかもしれない。しかし、21世紀の日本に生きるわれわれにとっても、自然の持つ意味について考え、自然の中に身をおいて思索することが必要なのではないだろうか。そして、それはまた、自らの癒しにつながる有効な方法のひとつなのではないだろうか。
(参考文献)
Linell E. Cady『アメリカの公共生活と宗教』玉川大学出版部
Ralph Waldo Emerson『Nature and Selected Essays (Penguin Classics)』Penguin USA
Seymour Eaton『American Literature I: Washington Irving; James Fenimore Cooper; William Cullen Bryant; Ralph Waldo Emerson』Kessinger Publishing
Henry David Thoreau『Walden (Courage Classics)』Courage Books
酒本雅之『アメリカ・ルネッサンスの作家たち』岩波新書
井上謙治『アメリカ文学史入門』創元社