「空気」の研究

 

◇ 政倫判で何が問われたのか

 3月18日、衆院政治倫理審査会が開催され、疑惑の協議の場にいたとされる最後の一人が出席した。裏金問題が公になった最初の頃に記者会見を開き、パーティ券収入のキックバックについて「各議員個人の資金集めパーティに上乗せし、収支報告書に合法的な形で出すという案が示された」と釈明した人物だ。この「合法的な形」という発言は裏を返せば、そこに集まった安倍派幹部がキックバックの違法性を認識していたことになる。政倫審における質疑はこの一点の解明にあったが、結局ここでも何ひとつ明らかにされることはなかった。

今までの政倫審の場で、その場にいたとされる安倍派幹部の弁明を要約すれば、「継続しかないかなという状況で終わった」「協議したが結局結論は出なかった」ということに尽き、「誰がこんなことを決めたのか、私も知りたい」という、まるで居直りのような印象的な発言もあった。

 「そもそも現金でのキックバックを中止しようと決定したのは違法性を認識していたからではないのか。最高幹部5人が集まった場でそれを再開することを決めたのではないか」、突き詰めていくと疑問はこの一点に集約される。だが政倫審の質疑では一向に明らかにされず、野党の党首は記者を相手に「誰も真実を述べていない」と怒りを見せ、新聞の社説、テレビの解説者やコメンテーターは「結局、誰が決めたのか」と苛立ちを露わにした。

結局、誰が決めたのかは明らかにされないまま幕引きがなされ、うやむやの形で終わることになるだろう。

 

◇ 「空気」の研究

 「「空気」の研究」という本がある。著者は山本七平で、昭和52年に文藝春秋社から刊行され文庫化もされている。この本はまったく意外な場面で有名になった。日本のサッカー代表が初めてフランスW杯に出場を決めた時の岡田監督の愛読書だということがニュースになり、それで知られるようになった。この本の内容や山本七平のことを知らない連中は、「さすが、ワセダの岡ちゃん」と感心した。書名だけで冷静に理知的に分析する人という印象を持ったのだ。発刊されたときに既に読んでいた私からすると、「こんな本を読んでいるからダメなんだ、それを口らするからもっとダメなんだ」と思ったものだった。中身ではなくただ「書名」、内容ではなく出版社と著者名からの印象だけで、それを「愛読」しているという人物を評価するという、この奇妙としか見えない小さな出来事を覚えている。

 W杯が終わると皆が皆「「空気」の研究」を忘れてしまった。ひとつのきっかけで名著に光が当たり、少なくない人がこの本を読んだはずなのに、あれから20年以上も経つ間に日本人と「空気」の問題が改めて議論されることなく、だから未だに「空気の問題」に思いが至るということになっていない。

 

 会議の席で反論しようと思ったが言い出せない空気が充満していたり、勇気を出して問題点を指摘したのに聞き流されてしまったりすることがある。その措置を取るのは明らかに間違っていると全員が思っているだろう、それを自分が先に言い出さなくても誰かが言うだろう、と思っているうちに次の議題に移り、結局何も決まらない会議だと思っていたら、議案は出席者全員が賛成したということになった会議や打ち合わせというものを多くの人が経験している。積極的に賛成したものでも支持を表明した訳でもない、むしろ否定的な評価をしていたし、周りの皆もそうだと思っていた。だが全員が揃った会議で合意されたとなったのなら、それには従わざるを得ないだろう。誰が決めたのではなく会議の決定なのだ。サラリーマン時代、ほぼ毎日のようにあった会議で良くあることだった。

 日本社会を支配しているのは法律や条令ではなく「場の空気」である。外国では権限や規則が会議を統制しているし、意見は個人の意見として尊重されるが、日本の社会では「空気」が人々を統制している。目には見えないその場の空気、会議全体の雰囲気が決定権者なのだ。「その場の空気」には実態がないので抵抗することは不可能なことで、「その場の空気」をその場にいない者に納得できるよう説明することは非常に困難なことなのだ。

 

 「「空気」の研究」は、「日本人は論理的な議論の結果ではなく、得体のしれない「空気」なるものに支配され、自由な意志決定を拘束されている。結論を下す際、論理的帰結ではなく、「空気」に適合することが第一になる。「空気」の前に議論(論理)は無効化する。人間が最終決定者なのではなく、「空気」が決定者なのだ」という書き出しで始まる。

「私たちは、客観的な状況把握による論理的な帰結として判断し決定を為すのではなく、空気への順応によって決断する。そして、この決断の基準は、口にされることはない。なぜなら、説明のためには論理が必要であるが、

 論理を排した「空気」は説明不可能だからだ。日本人は「論理的判断基準」と「空気的判断基準」のダブルスタンダードのもとに生きており、普段表面的に口にするのは「論理的判断基準」であっても、本当の判断基準は「空気的判断基準」なのだ。「空気が許さない」という言葉が出るように、論理よりも空気の方が強い」。

 「あらゆる議論は最後には「その場の空気」で決められる。最終的決定を下し、そうせざるを得なくしている力を持っているのは「空気」であって、それ以外にない。せざるを得なかったとは、強制されたのであって、自らの意思ではない。そして、強制したしたものが「空気」であるなら、「空気」の責任は誰にも追及できない」と結論している。まさに安倍派最高幹部が集まった会議の場の雰囲気、そのものであるように見える。

 

 「あの場の空気では、ああするより他はなかった」「あの当時の空気を思い出すと、あれで良かったのだと当時も今もそう思っている」、そして終いには「当時の空気を知らないからそんな批判をする」の一言で打ち切られる。

 誰も悪くない、皆真剣に話しあった結果だ。結論として出ていないが、皆の総意であったと今でも思っている。そうして物事は決まっていった。安倍派の裏金問題、誰が決めたのか、これはまさしく「「空気」の研究」の問題なのだ。だから、万人が納得するような答えなど出ようもないし、出る訳もない。ことの良し悪しではない。これは日本人なら誰でもが経験していることだ。

 党による、安倍派幹部らに対する離党勧告を含む厳しい処罰が決まったが、「空気」を裁くことは「怨念」を生むことになる。そしてまた怨念が怨念を生み出す。これには既視感がある。