おじさんの腹立ち日記 <その158>   令和元年 6月23日(日)
 
また、党首討論
 
◇ 討論なんてできない
昨年の6月、<その109 党首討論という茶番>で「もうこんなバカげた茶番劇は止めるべきだ。時間の浪費以外の何の意味もない。ただ冗漫に時間を空費していることに無性に腹が立っているのだ」と書いたが一年経ってまた同じことが繰り返された。こんな無意味なことに政治家の大事な時間が浪費されているのを見せつけられることは国民の一人として恥ずかしいことだし、そう思うことにも腹が立ってくる。
朝日新聞は59日の社説で「党首討論から始めよう」と題して、国民にとって党首討論は人間性を含む各党首の力量や各党の理念や方向性を知る貴重な機会だ、と党首討論を開催すべきだと早い時期から訴えていた。現政権を追求するネタが切れて、このままでは7月の参院選の結果も目に見えてきそう、その前に「足もとを掬う」機会のひとつにでもなれば、という魂胆が露わに見えていた。
昨年の6月、党首討論の開催の前に立憲民主党の枝野代表は「今の党首討論は歴史的意味を終えた」と述べ、党首討論の場でも安倍首相の口から「今の質問というか演説を聞いて、本当に歴史的な使命が終わってしまったと思った」という発言もあった。討論すべき両者が、意味がない、歴史的使命を終えたと認識している「党首討論」をやれ、と社説に掲げるその意味が分からないのだ。
 
「討論」とは何なのか、をまったく分かっていないらしい。
「討論」とは、異なる立場に立つ者同士が互いに自分の考えをぶつけあい、自分の意見の正しさを相手に認めさせることである。目的は相手を屈服させて自論を通すことにあり、お互いに自分の主張を戦わせるので当然そこには勝敗が生まれる。
ちなみに「議論」とは、お互いに自分の意見を出し相手の意見も聞き「結論」を導き出すために行うもので、さまざまな意見をぶつけ合い、目的は参加者全員が納得できるような結論を導き出すことにある。戦いではなく参加者全員の共同作業で、当然そこには勝敗のようなものはない。
私たちが会社や集まりなどのなかで意見を出し合うのはほとんとの場合「議論」だ。それは言い方を変えると日本人の大好きな「話し合い」で、何度も同じような「話し合い」を繰り返し重ねて、勝者も敗者も生じない共通の理解または認識、あるいは妥協にたどり着こうとするものだ。
「討論」が行われるべきところは日本国中探しても「議会」にしかないものだが、その「議会」では質問者も答弁者も役人か秘書が書いた「紙」を読み上げるだけのものになって、「討論」とはほど遠いものになっている。なぜか、ひとつは自分の信条とか信念などが希薄なことと、あるいはまったく無いこと、もうひとつは“言い方”とか“表現方”などといった、意見の本質ではない枝葉の“瑕疵”その一点で全体を否
定しようとするような、要するに言葉尻りを捕まえて、揚げ足掬うことを虎視眈々と狙っている者が存在するからだ。言葉尻を捉えられないようにするためには、紙に書かれたものを読み上げるのが一番の安全策ということになる。
「話し合い」をすることで誰も傷つくことのない妥協点、分かりやすい言葉でいうなら“落としどころ”を目指すのが日本人のやり方で、相手を論破して屈服させるなどとても日本人的ではないと、多くの日本人は信じている。そもそも日本人は「論」を「戦わせる」ことができない国民性なのだ。
 
◇ 言葉には力がある
西洋人は「言葉」の力を信じている。学校に入る前から教会で「初めに言葉ありき」という聖書の教えが語られる。自分の思いは言葉で伝えられる、言葉でなければ伝わらないものがある、言葉は力を持っているものだと教え込まされそう信じている。
例えば裁判、アメリカを含めた欧米の法廷では論理で相手を屈服させれば勝ちなのだ。論理を駆使して陪審員を納得させれば、どんな卑劣な殺人犯でも弁護士の言葉の力で無罪判決を得ることも可能だ。欧米では弁護士資格は日本よりはるかに容易に取得できる。言葉を駆使して「討論」に勝てる弁護士だけが生き残っていけるからだ。反対に日本には「三百代言」という言葉がある。「相手を巧みに言いくるめる弁舌、詭弁、またはそれを用いる者。弁護士を揶揄した言葉」とデジタル大辞泉にある。巧みな弁舌は揶揄の対象になっている。
欧米の議会では「最後の演説」で、思想信条の異なる議員を言葉の力で揺り動かし最後の投票で逆転否決あるいは可決成立ということがある。演説は自分の思うところを述べるだけではなく、言葉の力で何かを変えることが出来ると信じているし信じられている。そもそも党議拘束などというばかげた縛りなどないので演説者は議員一人一人に訴えかけ、議員は自分の信じるところに従う決心ができる。
だから、欧米には「殺し文句」というものがある。女性を口説いて自分の思いを遂げる、その最後の最後、「殺し文句」に納得してジッパーをおろすのは女性自身の手によってなされる。だが日本には「殺し文句」などという言葉はないし、そんなものがあると誰も信じていない。“おれの目を見ろ、何も言うな”とばかりに、がばっと覆いかぶさる。女性もその力強さか強引さに魅かれてジッパーを下ろしやすいように体の向きを変える。最後の最後シッパーは男の手によってひきおろされる。
「言葉」に力があると信じるか、「言葉」は言葉でしかないと信じるか。日本人に「討論」はできない。
 
◇ 党首討論という茶番
立憲民主党枝野代20分、表国民民主党玉木代表14分、共産党志位委員長5分半、維新の会片山寅之助共同代表5分半。20分の時間で何について討論できるのだろうか。まして5分半では言って返して、それで持ち時間が終わってしまう。もう笑ってしまうより他は無い。あまりにも無力な野党側の“惨めさ”だけが浮き彫りになって見えるだけだ。
党代表の時間が終わったとたん、ヤジ係で出席していた議員はぞろぞろと引き上げていく。おい、他党の党首の討論を聴く気はないのか、と罵声を浴びせかけた。
もう、党首討論などいう茶番は終わらせるべきだ。これではずかしいではないか。
 
老後資産二千万円不足という問題、イージス・アショワの配備計画を巡る防衛庁の数々のミス、10月に予定されている消費税引き上げ後に打たれる施策について、憲法改正問題、G20で何が話し合われるのか。
トランプ大統領と何を話したのか、イランに行って最高指導者と何を話したのか、最高指導者と会ったその日になぜ日本のタンカーがイラン側から攻撃を受けたのか、北朝鮮と何を話し会おうとしているのか。知りたいことはたくさんある。
特にトランプ大統領、イラン訪問、北朝鮮について首相はメディアに何も語っていない。せめてこのひとつ
でもいいから「討論」してもらいたかった。