I,ve Gotta Rock My Way
さて、これからゆっくり始めて行きます。 画面をクリックするとライブ動画が見れます
今までのブログ作りでも手伝って貰っていた福岡正晃さんとのトークをお楽しみ下さい。 画面をクリックするとトーク動画が見れます
宮口ジョージ 浅川ジュン天野SHO伊藤知治 伊藤銀次 写真6枚共「yoshihisa(Ⅾokachin)tamura」この頃続く。下の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!⇩⇩⇩{ライブ動画はこちら}⇩⇩⇩三原幸輔⇧⇧⇧(ライブ動画はこちら)⇧⇧⇧上の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!
宮口ジョージsho天野浅川ジュン伊藤銀次伊藤知治 写真6枚共「yoshihisa (Ⅾokachin)tamura」この頃続く。下の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!↓↓↓(ライブ動画は、こちら)↓↓↓ 三原幸輔↑↑↑(ライブ動画は、こちら)↑↑↑上の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!
伊藤銀次 宮口ジョージ 浅川ジュン 天野SHO 伊藤知治 写真6枚共「yoshihisa( Ⅾokachin)tamura」 この頃続く。下の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!⇩⇩⇩〈ライブ動画はこちら〉⇩⇩⇩ 三原幸輔 ⇧⇧⇧〈ライブ動画はこちら〉⇧⇧⇧上の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!
今年も残り少なくなりました。ドラマー小林健治 が亡くなりました。訃報をうけ追悼のブログを書くつもりでしたが、なかなか書けないでいました。 ハービーハンコックとプレイしたポールジャクソンとユニット組んだり増田敏郎とシェリフや数々のセッションをこなした名ドラマーだ。 あのかん高い声で「やぁ 先生げんき?」とバッタリ駅のプラットあたりで、また逢えるような気がして追悼文を書くのは伸ばし続けていました。10月2日に小林ケンは癌で亡くなった。亡くなったその日はケンさんの仲間と落ちあい酒を飲んだ。4日のお通夜も仲間内でしみじみと飲んだ。お酒好きだったケンさんを偲ぶことになった。僕のⅭⅮアルバム「グレイト・ロックシティ」にケンさんは参加してくれた。昔、大阪にシティ・レコードがあった頃はケンさんはシティ・レコード所属の「クラブ」という名のバンドにいた。その頃、僕はシティ・レコードにお世話になっていて、ケンさんとは、よく飲みにいった。何度か飲んでる内に高校の後輩がケンさんと分かった。 大阪ビルボード・ライブ「宇崎竜童&御堂筋ブルースバンド」がドラマー小林健治のラストステージと聞いた。この頃続く。
伊藤銀次 浅川ジュン宮口ジョージ三原幸輔 写真5点共「yoshihisa(DOKACHIN)tamura」この頃続く。下の写真をクリックすると9月6日サードストーンでのライブ動画が見れます。⇩⇩⇩〈ライブ動画はこちら〉⇩⇩⇩⇧⇧⇧〈ライブ動画はこちら〉⇧⇧⇧上の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!
2022年 9月6日は大阪福島サードストーンでライブだった。神戸のドカチンさんが僕のライブを知り写真撮影に駆けつけてくれた。 ドカチンさんの写真は素晴らしい!。 いちいち言葉なんかいらない。 写真4点共「yoshihisa( DOKACHIN) tamura」 この頃続く。下の写真をクリックすると9月6日サードストーンでのライブ動画が見れます。⇩⇩⇩〈ライブ動画はこちら〉⇩⇩⇩DrBeat& kranke Ft sho Aamano⇧⇧⇧〈ライブ動画はこちら〉⇧⇧⇧上の写真をクリックするとライブ動画が見れます!!
しばらくぶりです。 ブログアップを控えていたにも関わらず検索数が減らず驚いてます。案外と又ブログを書き出したら僕が無事だと知り検索が減ったりして・・・・・何じゃとて(笑)コロナもあり音楽ライブ事情が悪くなってしまった。自粛 自粛で今まで来ましたが「そろそろライブを」と思い真冬からドラマー浅川ジュンさん(48章)と相談してライブ会場も2人で下見に行きました。5月12日寺田町オーティス・ブルーにてライブしました。まわりに宣伝して「来てくれ」と言っても沢山来たらコロナ自粛定員制限で全員入場は受け入れられなくなる。そのため、ほとんど告知しなかったのでシークレットライブの様になった。何処で知ったか定員ちょうどの数のお客さんが来てくれた。僅かな情報をもとに来てくれた熱心なお客さんは皆友好的でした。なのに来てくれたお客さん、どこかで見たけど思い出せない。向こうは僕を知ってか、すごく親しげなのだ。「ⅭⅮいつも聞いています」とニコニコ話しかけられ有難いことです。お客さんが、いないとライブは成り立たない。「いつもはⅭⅮ聴いているだけでしたが、本当に動いて演奏してるのが見れて、あぁこうなってるのか、と分かりました。満足しました。」と言われとても有難く思いました。自分はライブ演奏において、いつも納得いくものは沢山ない。それでもジュンさんから「もうじき70になろうとして、今やらないでいつやるんだ」と言われた。それもそう。彼の言う通りなのだ。彼の言葉は大きな後押しに、なった。昔、マーさん(山本正明 40章・59章)が「友人にいいドラマーがいるんだ。」と、浅川ジュンを紹介してくれた。大の音楽好きのマーさんが、この世では、もう自慢のベースが弾けなくなってしまった。だけど僕がジュンさんと一緒に音楽出来てる事をマーさんは、きっと喜んでいるに違いない。ジュンさんの「いつやるんだ?」は、自分を搔き立ててくれる。(注意!)下の写真をクリックするとライブ動画が見れます。(注意!) この頃続く。浅川ジュン(左)と俺(伊藤知治) (注意!上の写真をクリックするとライブ動画が見れます。注意!)Dr.Beat&Kranke feat.Sho Amano live at OTIS BLUE
自分が望む人生を生きれるかは、同じことを続けられるかに、かかっていると思う。その同じこと(習慣的な行動)が望ましい内容であり(例えば運動であったり、音楽の練習であったり、科学の実験や研究であったり)コツコツ続けることが出来れば自分の望む人生を生きることが出来るはずだ。成功を得るには面倒くさいことの繰り返しがセットになるのは今まで何度か述べました。同じことを続けることが出来てこそ自分の人生を生きることが出来ると思っています。全ての人間は習慣に基づいて生きている。どの習慣を持つかで有意義な自分の人生を生きれるかが決まるのだ。やっても意味のない行動をいかに制限して意義ある習慣を続けれるかなのだ。意味のない行動が習慣になるのは簡単だ。いつも安易なことばかり積み重ねていれば自然と内容のない人生は構築する。 何か新しいことをして自分を変えようと考えるのでなく 毎日同じ面倒くさい行動を繰り返さないと変われないのだ。音楽の達人も皆、同じ事を繰り返している。細野晴臣さんがラジオ番組で以前面倒くさいことの繰り返しの話をされていて「その面倒くさいことが自分は、好きなんだ」と話されたのを覚えている。細野さんならば、その面倒くさいの果てに欲しいものが手に入る感触を今まで何度も得ている筈なので、そう言い切れるのだと思います。自分は2004年にピアニストの矢野誠さんが、大阪に来られた際に、ゆっくりお話しする機会がありました。当時矢野さんは軽井沢の別宅に1人で住まわれていて「1人でピアノを弾いて生きる事は言葉で表現出来ないほど辛いことなんだ」と話しておられた。絵を描く人も字を書く人も音楽する人も科学の研究も「同じことの繰り返し」があることは共通している。皆、面倒くさいことに打ち込み続けている。ネガティブな考えが入ることもあり孤独も味わう。自分は子供の時に趣味に走ると親や馬鹿教師に「勉強しろ!何だコレは?無駄なことするな!」と刷り込まれ、その罪悪感が何するにも後々残ったのを覚えています。歯医者で音楽に打ち込むのは「本文に外れる」と言われたことも、ありました。罪悪感を感じ音楽をしていた時期もありました。音楽は好きだから、ついつい本気にならずには、いられない。歯医者は本職であり使命感も伴い本気以上に心血注がないと毎日勤め上げられない厳しいものでした。仕事と音楽以外は、レジャーとか旅行、行楽など一切関係なく未だ世間とのズレが埋まらない程、全てを犠牲にしました。おまけにお金の管理も人に任せたので不動産以外の全財産を過去2度にわたり失いました。3度の癌は(うち一回は末期癌)その後、忙しさの代償の如く訪れました。歯医者は仕事が細かく目や手先が衰えると日々の歯を削ったり抜歯等も含む観血処置、それに小手術の連続といった事に、ついていけなくなり現役寿命は短い。今や自分と同世代の歯医者の多くが後進に道を譲り、リタイアかセミリタイアしています。自分は、それでもドクターとして現役であり仕事も捨てていません。そして音楽を通して多くの音楽家と出会い、その後の自分の生き方に大きな影響を与えて貰いました。最近は妙な罪悪感は消え遠慮なく音楽に打ち込めています。 これから枯れていくまでこうあり続けたいと思います。 この頃続く。
SNS依存症については過去55章・57章と話してきました。 お酒にしろ薬にしてもSNSでも上手に使えたら、これほどいいものはない。しかし使い方によっては中毒性もあるので害にも毒にもなる。SNSにのめり込むと誰かと繋がり続けないといけない様な強迫観念にはまる。しかし現実社会では無数の人と毎日毎時近況報告し合いお互い何かした度に「いいね!」と言い続けてたら生活して行けない。 SNSは評価を求めるアプリなので人が振り向いてくれそうな事を話そうとしたり見栄えする写真やその写真にあったストーリー作りに追われアップし続けなければならなくなる。何処に行っても、いい写真を撮ることや、その写真のストーリー作りで、どの場所でも、ありのままの時間を楽しめなくなる。全く不幸な事だ。日常の報告が日常でなくなってくる。そこが日記とは似て非なるところだ。それも他人の評価前提で常に受動的であるため時間の経過を感じさせない錯覚に陥り時間を浪費することになる。SNSで次々と他人から「何処行った。何食べた」等の情報が入り他人とツイート交換が永遠続く。更にフォロワーの数が増えてくるとより時間がなくなり返信に追われる事になる。。人間はSNSのないストレスフリーの世界で本を読んだり絵を描いたりとか、ひとつの事に集中出来る時間が長くなればなるほど心の平穏が保たれることが分かっている。他人から情報が入るSNS社会(ツイッター、インスタグラム、フェイスブック等)に埋もれていくと苛立ちが増えたり鬱になったり現実に周りにいる身近な人との親和性が希薄になり直接相手の感情が読めなくなるとの心理学者の意見もある。バーチャルなツイッター内で「流石はセンスが違いますね」とか赤の他人に、おだてられたほうが身近な人間と会うよりドーパミンが出ることが慣れているかの様だ。身の回りの大切なものへの評価や判断能力が欠如していくと言う。人間は暇になると誰かとコミュニケーションを取りたくなる動物なのだ。そして幸せになりたいと思うと他人に自分の価値を認めて貰いたいと思う。若い頃、身近な人に最初に認めて貰えなかった人ほど、その後「他人に認めて欲しい」の承認欲求が強くなると言う。そこから更に「もっと沢山の人に認めて貰いたい」や「誰でもいいから認めて貰いたい」と欲求はエスカレートする。そもそも最初は身近な人間に(親や恋人や仕事関係であったり)自分の価値を認めて貰いたかったのだ。その頃の傷を埋めに戻らないで、この負のスパイラルは止めることは出来ない。人間は大勢の中で人と等しく行動しないと不安になる動物なのだ。「そう言うアナタはやりたい事があり特別だから、そんなことが言える」と身近にいるSNS依存症のかたに言われた。「私にはSNSしかない」とも言われた。しかし人より何かこなせる事があるのは人生に満足していることではない。それが悩みの種ともなりうるのだ。仮にビリヤードの腕前がハスラーみたくなっても満足で幸せと限らない。やりたいことが、どの程度出来て満足してるかは皆それぞれ違うのだ。やりたいことさえ、あれば自分の思う満足(幸せ)が勝ちとれるのか?これは絶対ではない。理想は人それぞれ違うからだ。しかし、やりたいことが、あれば幸せになるチャンスはある。その満足を目指して、それが多少苦難でも面倒くさい事であっても成長している時こそが心の平穏を感じれる時なのだ。安易なものは安易でしかない。それは、まるでパチンコでたまに与えられるドーパミンの虜(トリコ)になったのと同じだ。時間の浪費を繰り返すだけだ。そもそも自分と他人を比較するから、おかしくなりSNS依存症が生まれ元に戻れなくなるのだ。HEART OF GOLD この頃続く。わたくし あの頃 まだまだ 青2才でした。
病気前は音楽出来るなら何処へでも出向き自由な発想を持ち音楽をしていた。いままで何度か紹介したクラブと言うバンドのリーダーがマーサンこと山本正明(令和編40章)。ボーカルがヒロコさん(令和編27章)。ドラムがハービーハンコックのメンバーだったポール・ジャクソンとユニット組んでる僕の高校の後輩小林健治(rock my way プロフィール参照)。ギターに道祖淳平でした。マーサン達はいつも分け隔てなく僕と付き合ってくれた。僕にはフレンドリーそのものでした。しかしバンドは真剣であるほど多少のもめ事はあって当然だ。もめごとがあっても、よそ者であった僕にはわからない。いずれも音楽的な思考の違いが原因らしいが、それがあってこそバンドの発展がある。ドクタービート&クランケの新譜(2020リリース)のレコーディングでその元クラブのヒロコさんに久々に会いいマーサンと彼女が音楽的理由でバンド内で対立し仕事以外で口聞くこともないまま何か月もいた事があると聞いた。そんな話はいくらもありマーサンがクラブ以外の仲さん(rock my wayプロフィール参照)とも仕事で音楽的な対立があり暫くやり合ったりと真剣な部分が、相まみれると火花が散る事もあると聞き納得しました。 彼らの音楽でのそんな真剣な関係を羨ましくも思っていました。アマチュア・ミュージシャンといつしかプレイする機会の少なくなった自分としては、そんな逃げ道のない状況で音楽をしたい願望を持っていたからです。しかしマーサン達は紳士でフレンドリーなので僕が道にはぐれぬ様いつも手心加えて守ってくれているのが贅沢な不満でもあった。しかし一度僕が、ふがいない演奏をした時温厚な仲さんにキリッと一瞥(べつ)された時「それヤ!それ、それを俺は望んでた!」と何か垣根超えていけた気がして嬉しかった。マーサンにそのことを言ったら「へーあの仲さんが・・」と言ってたが、その裏では、マーサンと仲さんでも音楽でガチンコやり合うことがあったのだ。そらそやろ みんな遊び半分でやっていないから。昔マーサン、ヒロコさんと僕と3人で飲みに行った別れ際、ヒロコさんとマーサンが互いに笑いながら頬に軽くキッスする姿を見ててっきりヒロコさんは、マーサンの彼女かと思いきや笑いながらマーサンは「俺たちイトコなんだよ」と教えてくれた。そこんとこお洒落でスマートなマーサンが光っていました。真剣にやりあっても演奏する時はひとつになる。言葉なんかいらない。いつしかまとまってしまう。彼らといると心地よかった。これが自分の望んでいた自由でした。ドクタービート&クランケのひとつ前のレコーディング(グレイトロックシティ2008リリース)では1週間前に渡したデモⅭⅮRがマーサン所有のハードディスク・プレイヤーでかからず1度も音源を聞かず譜面だけの初見でマーサンは演奏し全曲1発OKの天才ぶりを発揮して健在ぶりを見せつけてくれました。マーサンの亡きあと僕の新しいⅭⅮアルバムの中でマーサンに捧げる曲「ギグを聴かせて」を書き下ろした。彼と僕にしか分からぬ暗号じみた言葉が織り込まれてある。お洒落なマーサンが生きていたらニヤニヤ笑って聞いてくれたであろう。この詩の中に潜む2人の酒場にしか持って行けない話は墓場にしか持って行けない話になってしまった。この頃続く。写真をクリックすると追悼ライブ動画見れます。TheCLUB 左上よりマーサン、ヒロコ、左下より小林ケン、道祖。Dr.Beat & Kranke With Sho Amano / ・Tulsa Shuffle
ボビー原さんについてのエピソードは数多くあります。今年でボビーさんが亡くなってもう16年になろうとしています。1972年に僕は学業を選び大阪を離れ長野県塩尻市で下宿生活を始めました。その頃 兄は大滝詠一さんの誘いもあり上京しミュージシャンの道を更に突き進んで行きました。その後兄が演奏していた大阪梅田にあったゴーゴーホール・ジャンボリー「こだま」には兄達に代わるハウスバンドが入ってきました。その内のひとつに「ニューベル」と言うソウルバンドがいました。このバンドのリーダーでありキーボード、ヴォーカルを担当していたのがボビーさんでした。ドラムは当時若干16才の浅川ジュン(令和編48)でした。ボビーさんはその後、バイク事故で指を負傷しキーボードプレイヤーとして2本の指が不自由になりピアノをやめてオルガンプレイに専念しハモンド・オルガンの名手としてその後も活躍されました。事故のあくる日もレコーディングがあったのだが折れた2本の指はギブスをつけたままで参加して何食わぬ顔で演奏したと言う。ボビーさんの知り合いから聞きましたがオルガンに専念したと言えその後に仕事でニーズがあればピアノも何食わぬ顔で弾いていたそうです。「ピアノの腕は、おちていませんでしたか?」と僕が聞いたら「それが結構うまかった。」と言う。以前とどこが違うかも分からなかったそうだ。さすが怪人ボビー原。僕と知り合った頃はミュージシャンだけでなくボビー原ミュージック・スクールの校長先生としても沢山のお弟子さんに囲まれていました。幅広く指導されていて聞くところによるとギターコース志望者にはギターも教えておられたそうで驚きました。およそボビーさんがギター弾いているところなど見たものは、誰もいないからでした(笑)ライブが済んだ後、ライブ出演者の打ち上げ場所を探していたら同じ出演者のボビーさんが「僕のよく知ってるところに行こう」と連れて行ってくれました。店に着き席に通され待っていると奥に暫く消えていたボビーさんがハッピ姿に着替えて戻ってきた。手にはボールペンとメモを持っている。「さあ注文を取るよ。何する?今日のお勧めは~」と言い出した。校長先生は、この居酒屋で夜バイトしていたのだ。こんな風に人を驚かすのが好きなボビーさんだった。ライブ中も曲間のМⅭが長いと黙ってトイレに行ってたりして演奏を始める時に「ボビーさんがいない。」と探しまわることもあったそうだが、その内「いつもの場所だ」と皆が認識するようになったそうだ。ボビーさんのドッキリで手の込んだものでは好きな女性に「俺とつきあって」とお願いしてなかなか首を縦に振って貰えないと「つきあって貰えないなら死んでやる!」と言いながらポケットから睡眠薬の瓶を出して中の錠剤を丸ごと飲んだと言う。驚いた女性が「分かりました!!!」と言うとボビーさんは笑って「瓶の中身は全部太田胃散でした(笑)」とやらかしてくれるのでホントに憎めないオッサンでした。京都磔磔にもマーさん(令和編40)こと山本正明のバックメンバーとしてボビーさんも参加し僕のバンドとジョイントライブ(令和編39)した際に僕の演奏が終わってボビーさんは駆け寄ってくれ「声がシャープしちゃうんだなあ、僕のところに直しに来ればいい」と言ってもらいました。その内その内と思いながらもう会えなくなってしまいました。僕のバンドに参加してもらっているドラマー浅川ジュンが昔ボビーさんとプレイした音源を聞かせてくれた。70年の「こだま」でのライブテープだった。50年の時を経た今そこには、当時20才を出たばかりのボビーさんの若い歌声があった。既に声はいい感じにしゃがれていた。「ミー&ミセス・ジョーンズ」や「ジョージア・オン・マイ・マインド」など渋い選曲や72年としては最新と言える当時ジェームス・テイラーでヒットしたキャロルキング作の「ユーブ・ガットア・フレンド」など演奏している。晩年は大上留利子さんも加入していたボビーさん主催のゴスペル・グループ「スピリチュアル・ボイセス」で被災地でのボランティア活動にボビーさんは積極的に参加されていました。しかし既に癌は身体を蝕んでいたようです。2005年11月。仲さん(rock my way プロフィール参照)からの一報を受け葬儀場に行ってみたらマーさんが先に来ていたので「どうして?」と聞いたら「ボビーさん癌やったんや」と教えてくれました。ボビーさん56才の若さでした。この後、同じ病気でマーさんも後を追うように逝かれてしまいました。自分のバンドに参加しているメンバーを同じ時期に2人も失いました。運命を恨めしく思っていたら、間もなく僕も癌になり「余命いくばくも無い」と主治医に言われました。2008年のことでした。ボビーさんとは初めて1991年、僕のⅭⅮ「ハートリーチプレイス」発売後のライブでマーさんの計らいでステージ上で対面しました。その時何曲か一緒にプレイしました。そしてオルガンだけでなく歌もお願いしたらボビーさんはある曲のイントロをオルガンで弾きだしました。ハモンドの深みある甘い響きのなか、ボビーさんが歌い出したのは「トライア・リトル・テンダネス」でした。この1曲で歌声はタバコの煙がライトで照らし出される会場中を一瞬にして聖なる場所に変えてしまいました。今でもあの歌声が耳に残っています。この頃続く。(注意!ボビーさんの写真押すと追悼ライブ動画見れます。注意!)ボビー原 Dr.Beat & Kranke With Sho Amano
55章でSNS依存症について述べました。自分の大切な人のなかにもSNS依存症となり途中から気付きつつも前に行くも撤退を考えるもストレスを感じておられるようで、どうしたものかと思っています。SNS依存症にのめり込む原因は「承認欲求」これに尽きると思います。誰にでも承認欲求はあり、それにより自分のしている行動が本当にすごいのは問題ないですが、人に認めてもらうために凄いと思わせるための行動や発言を続けて行くことが、他人に認めてもらうために他人に支配され続けることになってしまうのが問題なんです。これがいかに受動的な自信のない他人との比較の日々を繰り返しているかが始めは気づかずやがて依存症へとはまり込んで行く構図なのです。SNSはその点上手く出来ています。「いいね」がつくと承認欲求は更にアップしより多くの「いいね」を欲するようになります。また「いいね」がついてないか、どうか?気になりだし依存症ゆえに仕事中や食事中でもスマホから手が離せなくなります。ツイッターでツイートするとリプライがいつくるか気になります。リプライが来ればリツイートの儀式もしなければ仲間はずれには、なりたくないしバーチャルなスマホの世界で感じいい自分を演じ続けエゴサーチも欠かせなくなってくる。そんな時間が大半埋められていき、やがては膨大な時間を失う事となります。このようにツイッターの刺激は能動的に見えて実は他人からの反応に全て依存してしまっているのです。お金は無くなればまた働けば取り戻せます。しかし時間だけは失くしたものは取り戻せません。特に老年期は残された時間は僅かですから如何にROCKするかは人生最後の節目の最重要課題のはずなのに。他人の反応に振り回されたままなのに1日を短く感じるのを「充実」と勘違いするならば退屈を紛らわせているのに気づかないまま時間を溶かし続けるでしょう。それが本望の人だけSNS中毒でいればいい。65章で言いましたが人は行動するからやる気が出る。生きて行くのはめんどくさいものです。人生の最も盛り上がる肝の部分とは僕は全て「めんどくさいの奥」にあると思っています。本当に楽しいこととは、そんな簡単に楽しいものでありません。テニスの優雅なラリーを見て「あれは面白そう」と思い試してみたことありますか?試してみて楽しかったですか?楽でしたか?おそらく見ると実際やるとでは大違いだったことでしょう。でもやってみてフラフラになり息切らしたなかで「全然思った様にならなかったけどもう1度やりたい」と思ったらそれが素晴らしき「めんどくさい」の始まりなのです。不幸とは他人と比べるところから始まると思います。わびしく切なくなるのは他人との比較からだと思います。そんなことより他人ではなく過去の自分と比較するべきです。これは間違いなく進歩出来ます。SNSの世界も含め他人との比較で振り回されるのはいずれ精神がボロボロに破綻する原因となります。比較を続けたら歳を取るごと耐えきれない孤独がのしかかってきます。それで「人生は寂しいものなんや」とお決まりに気付くよりかより寂しくならぬよう自分の人生を生きるべきと思います。だったらブッダの言った「サイのツノの様にただ1人歩め」孤高を目指せです。孤高と言っても友達大勢いてもいいです。「孤高を目指す」幸せになれる素晴らしき面倒くさいことです。この頃続く。君も幸せに。
今から50年程前大阪梅田の阪急東通り商店街にⅬpコーナーと言う洋盤レコード専門店がありその奥に「ジャンボリーこだま」と言うゴーゴーホールがあった。今は死語となりましたがゴーゴーホールとはダンスホールのことです。僕の兄はそのホールのハウスバンドプレイヤーとしてギターの腕を磨いていました。グラスブレインからごまのはえとバンド名は変わっても演奏曲はダンス客の大半を占めるヤンキーの兄ちゃんが逆立ちしても踊れない曲ばかりでブーイングや時にコーラのビンまでステージ上に飛んできました。ステージ下で当時17才だった僕は(18未満は本当は、入場禁止で干支まで間違えたのに優しいお店の兄さんが入れてくれた)そのコーラ瓶の様子をヒヤヒヤ見ていた。ショッキング・ブルーの「ビーナス」やれ!とか「マシュマ・カーン」やれ!と言われてもどこ吹く風で「ライブアドベンチャー」からマイク・ブルームフィールドのブルースナンバーやザ・バンドの「ロッキー越えて」と自慢のナンバーは続くのだった。ここからやがてオリジナルナンバーも生まれていった。兄達が大滝詠一さんの勧めもあり上京して後にこだまには、マーさんこと山本正明、仲豊夫、浅川ジュン、ボビー原らがプレイヤーとして入って来ている。僕もこの頃は進路を決め長野県の松本歯科大学へと進み兄同様にこの時のこだまに後に集まった関西の凄腕ミュージシャンとは入れ違いで会う事はなかった。しかし卒業後大阪に戻り僕が1988年から3年かけて作ったシティレコードより発売されたⅭⅮ・ハートリーチプレイスでこだまに兄達の後で集まったミュージシャンとも出会え一緒にプレイすることが出来ました。ボビー原さんとは、このアルバム発売後にマーさんの紹介でいきなりステージの上で出会いそのまま一緒に演奏しました。次のアルバム・グレイトロックシティでは全面的に協力して頂き素晴らしいキーボードを披露して頂きました。ボビーさんはお茶目でいたずら好きでエピソードは下ネタ過ぎて言えないもののもあります。酒が入ると相手の後ろにまわり頭頂部に自分のイチモツをピタッと乗せる必殺の「ハイ・チョンマゲ!」はベーシスト三原幸輔がその洗礼を受け「気絶しそうだった」と言う(笑)ボビーさんは音楽スクールの校長なのに都合が悪いと「僕、譜面が読めません」と読めないふりして自分の好きに弾いたりする。そのアドリブもまた良いのだ。たくさん楽しませて頂きました。でも、もっと色々教えていただきたかったです。この頃続く(注意!ボビーさんの写真押すと追悼ライブ動画見れます。注意!)ボビー原 Dr.Beat & Kranke With Sho Amano / I Shot The Sheriff
いろんな人のSNSの投稿を見ると毎日「何を食べた」とか「どこに行った」とかやたら多い。何のためだろうか?結局みんな寂しいのだ。スマホは手っ取り早く孤独な心の穴を埋めてくれる。画期的だが扱い次第で史上最悪な人類を退化に招く乗り物になった。スマホは寂しさを慰め元々何もなかったはずの見せかけのモチベーションのアップに使われる。ラジオネームまでつき仲間が出来てメールのやりとりが始まりその投稿もメールの着信音の度に作りつけの刺激が日常化し、やりかけの仕事は分断され何気ない日常のルーティンを忙しそうな振りだけして寂しさをまぎらわすのだ。オンオフのない生きるのにめんどくさくない安易で結局はより寂しい道を歩んでしまっている。スマホを使うのでなくスマホの垂れ流し情報に使われ依存のみの方向に繋がるのだ。生きるとはめんどくさい事だ。僕は終始一貫そう思ってきた。「サイのツノの様にただ1人歩め」お釈迦様の言葉がずっと好きだった。寂しい時はただ1人最も情熱感じる面倒くさい事に没頭するほどが良かった。寂しい時ほど「孤高」を目指して来た。そんな寂しい時は、したい事を手間暇かけ実行するしかない。でないとめんどくさくない場所に到達出来ない。何もなさないまま面倒くさいままで人生を終わってしまう。孤高に生きぬけるものほど幸せになるチャンスを得る事が出来る。家族や友人に囲まれるのもいいが、それが単に気がまぎれているだけならば「自分の人生を生きていること」にならない。どんなに夫婦や恋人同士が仲良くても人間はみんな孤独であり一緒に死ぬことは出来ない。寿命がどちらか先に訪れ1人になりやがて孤独を強く感じるのだ。それまでは気づかない安易な日常への依存。そうだ。「私をどうにかして…」とかはたまた「僕を…幸せにして…」では駄目だ。年を取れば取るほどより強烈な孤独を味わう事になると覚悟してきた。だからこそ「サイのツノの様にただ1人歩む」のだ。誰かが、いついつこんな食事を家族で食べに行ったと写真入りで投稿する。何気ない日常でも人が孤独を感じるのは他者との付き合いと自分との間に開きを感じる時だ。そういった投稿も1人寂しく読む側だけでなく発信する側も例え家族がいても心の貧しさを感じていくことになる。そんな投稿を常時し続ける必要がどこにあるだろうか?投稿されたものを日課にして見る必要もあるのだろうか?そんなたわいのない日常を毎日毎日晒すほど日本は平和なのか?もう十分ではないか?孤独な心の穴を安易にスマホいじりで埋めすぎてはいないだろうか?邪魔くさくないものに走りその内、全てが邪魔くさくなり年をとり無意識に依存していた相手が年齢と共に自分の周りから消えて行くと今度は飛び切りの耐えられない孤独が訪れることとなる。自分の人生を生きる事は邪魔くさく信念や覚悟を必要とする。人間はそれぞれが孤独であるから孤高を目指すことがいいと分かっている方が幸せになれる。この頃続く。70年代のわたくし。寂しさはチャンスだった。(写真提供 By Keiko)
人生はそれほど高尚で生真面目なものでない。だったら人の模範になろうとも、思わない。神様は気まま放題で不公平な運命も授けてくれる。こちらも物怖じしないで生きるべきだ。お金がなくても幸せな人生を歩める。100円のお金で苦労する人も10億のお金が調達出来ず悩む人も悩みには変わりない。僕の財産を使い切った人はお金は使ったら無くなるものだと知らなかった。今までお金を大して持った事がない人間ほどこうなる。使うほうも使われるほうもアホや(笑)。初歩的なことだ。ない袖ばかり振るメタ認知出来てない奴らは不幸から抜けれない。ステータスを求めなくてもブランド品でなくとも今あるもので幸せになれる。一度しかない人生を失敗のないよう策を立てて情勢ばかり追っている「むっつり助平型」と自分は肌が合わない。行動ありきで生きて行こう。解ってないまま進まないと、解かりえないこともある。恥もかいてやろう。カッコつけないことは、カッコいいことだ。「所詮人間なんか、どいつもこいつも」と思っていると、そんな人しか集まらない。人を信用しない人に人は集まらない。汚く見てる奴の世界は汚い。自分は相手を信用してないのに「俺を信じろ」と言うのはおかしい。ムシが良すぎる。信用して裏切りに合うこともある。しかし信用してその信用が返って来ることもある。そんな時はウキウキする。疑り深く人を見続けても真実は見れない。分からない。騙されても相手が全部悪い訳ではない。半分は自分のせいだ。友達面して詐欺師が混じってきて金品を狙われたとする。しかし振り込んだり判子貸したりしない限りは、深刻な被害になりにくい。経験して分かっている。信用するかしないか好きか嫌いか考えるより善意の事を好きでいたほうが自分がいい奴にも近づけるしいい人に巡り会える。相手を信用しないと相手から信用されない。誰も信用しないと騙しは出来ても信頼関係は生まれない。これは寂しいことだ。人の世だ。出来るだけ寂しくない方がいい。人生は高尚でない。堅苦しく考えていたならそれは大いなる錯覚だ。この頃続く。
お金に興味がないとは言えあまりお金に無頓着にしていると火の粉を浴びてしまう。お金で人生狂ってしまう人を見るとお金が全ての目的でないのは明らかと思います。それより、そこそこのお金と自由な時間があるのが望ましい。以前は仕事にプライベートに忙しくしていた。しかし忙しいのは、あまりカッコいいとは最近思えない。人生を楽しむべきだ。「暇だよ」と言える余裕が有ればいい。少し忙しくても「いや暇だよ」と言えるほうがいい。先日休日に患者さんから「歯が、うずく」と電話があった。聞くと緊急を要するものだった。「次の診療予定日まで我慢する」と言われたが「その日までは痛みが強くなり我慢出来ないだろうから、これから治療しましょう」と言い治療した。患者さんから「忙しいのに申し訳ない」と言われたが「暇だからいいよ」と言ってみた。お金も使い方次第だが随分太っ腹で(笑)人に使いこまれたりしたが、その後は自分で管理してからは綺麗なお金の使い方をしている。お金に固執しないし無駄遣いもしない。人に信用を得るには、例え騙される危険があっても相手を信じること。であればその相手をとことん信用している気持ちは、いずれ相手に通じ絶大なる信用をえることに繋がる。勿論相手を信用してエライ目に会ったことも何度かあるのでリスク承知ですること(笑)。騙されてみると妄信する相手を選ぶ目も向上してきている。お金のない人は信用出来ると、いきなり言っても僕の言う意味が分からないだろう。しかしいつもお金に困り、無いお金ばかりをいつも求めている人は信用ならない。つまりお金のない人とお金に困っている人は違うのだ。この2つは全く違うものだ。相手を信用するなら2度失敗しても3度目良ければそれでいいぐらいに思えるなら貫いたらいいと思う。そのほうが得るところが大きいと思ってる。死んだらお金なんか関係ない。あの世には一銭のお金も持っていけないのだ。生きている間中お金を貯めることにも使うことにも夢中になる必要はない。そこそこのお金と暇があればいいのだ。それが最高の贅沢と思っています。そのうえで、本当にやりたいことがあればいい。いつ死んでもいいと言う感情だがよく年寄りが言う。「わしゃいつ死んでもいい」投げやりにも聞こえないし、このセリフを言う時はどなたもニッコリ笑みを浮かべている。この言葉が自然に出てくる心境は今まで自分には、よく分からなかったが「最近それもいいかも・・・」と思える時がある。昔と比べ自分は恵まれ自分のしたいこともしていて人生も楽しんでいる。幸せなことだ。末期癌からの生還も出来た。おつりの人生を生かされている。有難いことだ。ひとの役に立つことも出来てこれ以上望めばバチが当たると思っている。しかしどんなに人生を楽しんでいても朝決まって起きないといけないし、かと言って何もなければつまらないし、生きていると色んな感情が沸き上がって来るものだ。友人や彼女とか相手がいることで自分の考えも変わるし変えなければならない事もある。そんな時は物事に打ち込み心の均衡を保つ。物事に打ち込むにしても年齢と共に以前取得したものも忘れがちでもう1度復習しなおす場合もある。新たな習得だけではなく過去の技術や知識の抜け落ちを取り戻すためにも人生は一生勉強なのだ。友人や彼女がいて自分の気持ちを押さえたり封印したり変えたりしていると面倒にも感じる。そんな場合は人間は生きるも死ぬも両方の道の中心にいると思える場合がある。人生は素晴らしく死ぬのは、ご褒美か?と思うと楽になることがある。この頃続く。
日曜日は子供の頃、憂鬱だった。父親が家におり殴りに来るからだ。意味もなく殴る。訳、聞こうものなら倍やられる。何年もして1件だけ事情が、分かったのが3つ違いの兄の手先だった僕だが遊び道具を母親がしまう様せかしたのをなかなか兄と僕が聞かなかったと日曜の朝、布団の中で父親にネチネチ吹き付けそれを聞き黙って兄と僕を無制限にぶん殴りに来たのだ。ソレは日曜早朝7時からだろうが何時だろうが突然始まる。子供部屋で寝ている兄と僕にいきなり寝間着のまま親父は小走りで入って来て物言わず突然始まる。母親はそれをとめない。大体親父はどっちが兄だろうが弟だろうが例えば食べ物の好き嫌いがどっちがあるとかないとか特徴など興味もなく子供は利殖のために作るとしか考えは一生変えなかった。区別ない暴力は早朝から始まり時に昼まで続けられ後ろ手に縛り上げられ押し入れの中に閉じ込められた事もある。その犯行中、父は何の言葉も出さない。たまに言葉が出ても「オウー」とか「コノー」とか言うだけだ。平日でも親父が帰って来ると緊張が走り静かにしてないとキャキャはしゃいで様なもんなら「じゃかましい!」と鉄拳が飛んでくる。子供の時の親父の思い出はよく殴られた。サッパリ分からない理由なき暴力が大半だ。親なんか家にいたら何されるか分からなかった。いると気を使いしんどかったです。父と母には「人としてどうあるべきか」いっぺんの言葉さえ教えを乞うた事がない。作法など習った事もない。飯を食べてるさまなど子供から見ても行儀悪い父親でした。自分が狼に育てられた少年みたくなる気がしてやや心配に、なってましたが、案の定未だに礼儀作法は習得中です。後日知りました。両親とも「子供は鬱陶しい。嫌い」と言う点で気が合っていたようです。日頃ビビらされてたのでどこ行っても大人しい子と言われました。僕が大人になりまともに、その野獣と戦える様になった時、野獣は「世の中美味いもん食うてええかっこする。人間それしかない。みんなそう思てるんや」とこれだけは、言うとった。浅はかで、あさましい考えしか出来ない男だった。「画家や音楽家は、そんなことない。好きな事を見つけ理想追及する人は一杯いる」と僕が言うと「そんなことない。あれは強がり言うてるだけ。ホンマは美味いもん食うてパリッとした背広でも着て偉そうにして歩きたい、世の中それだけや」と野獣は言い切りました。手元にあったスポーツ新聞を見て井上バンドに一時的にいた柳ジョージと井上堯之が別々に活動する記事を読み「金で、もめたんやろ。どうせそれしかない」と言いました。「この人らは、そんな事ない」と僕が言っても「世の中、金以外でもめることないわい」「金や、金しかない!」と野獣は言いました。そのくせ字読むのが嫌いで保険診療請求の勉強もせずエライ毎月低点数請求ばかりで家は、いつも慎ましやかな暮らしでした(笑)学校卒業時に大学に残り口腔外科を選び癌及び口腔外科手術の道を将来歩めたらと希望を言ったら反対されました。「儲からんから」と父は言いました。野獣は僕を修行させ手元におき金の実権を握り楽して金儲け図りたかったのです。馬鹿な親なので後で、そんな計画周りにボロボロ言うてます。それで悪い事して金稼いでる悪徳歯科医に就職させるために、僕を知り合いとか言う悪徳歯科医に連れて行ったのです。ぼったくりバーに子供を就職させ楽に稼げる方法学ばせるようなもんです。最低の話です。その勤め先では抜かなくていい歯まで抜いて金にしようとする院長と言い争い辞めました。野獣にも悪徳歯科医の話をしたら「これ以上言うと承知せんからな!」と野獣が、いきり立ったので「昔の様な暴力姿勢で来るなら積年の恨みもあるし来たら骨へし折ったろう」と当時は思いました。家では元嫁に仕事先を変えなければ成らなかった事を「我慢してハイハイやってりゃいいものを」と言われました。その後は大阪歯科大学歯周病科助教授の兄、今井政一先生の歯科医師募集の新聞広告を見つけ面接に行きました。そして気に入って頂き空き家となっていた分院を任される大役を頂きました。野獣との確執を話せば子供の時からとなると本2冊は書けますが話すと更に不快なのでこれくらいにします。親父が亡くなっても未だに夜中になると文句言いたくなっては、イライラしました。おじいちゃんには、会いたくなり夜中に線香あげ、おじいちゃんの霊に語り掛けます。ただ先祖に会うため仏壇に座ると奴が、いつも目障りに思え度々「仏壇に置いてある過去帳の親父のページを破いたろか」と思いつついつもブレーキかけてましたが、子供の時からの虐待や僕の口座からの親父の多額の私的流用(当時金に無頓着な僕は親だからそこまで悪くしないだろうと思い金の管理を父に任せていた)無断の名義すり替え等。後で何千万もバレても悪気もなく1万だけ手を取り僕に握らせ肩を抱き「これでまあまあ」と親しげに近寄られたり「汚らわしいわ!」と毎日思ったりしてる間に遂に過去帳から親父の名前のページを切り取り破り捨てました。衝動にかられてから実行まで何度か咎めた末30年程かかり、したことは良くないが十分我慢したと思います。過去帳から1ページ切り取り過去帳は2部に切断されたのでセロテープで繋ぎました。その後、癌になりましたが、もしバチが当たって僕が死んだならあの世に行ったとき、野獣に会いに行き「たたりなんか、かけて何、考え違いしとるねん!それちょっとおかしんちゃうんか!」と思いっきり文句言ってやる予定でした。僕は2度に渡り死にかけては生かされお釣りの人生を歩んでいる、たたりなど怖くありませんでした。たたりなど恐れ子供の時の様に親にビビらされ生きるのなどまっぴらです。我が子の様に可愛がっているyouちゃんに「もうすっとしたから過去帳に名前もう一回書いといたろか」と言うとyouはバチが当たると心配してたので「うんうん。ソレがいい絶対そのほうが、いい」と喜んでくれました。当時小学生低学年の子に大人が過去帳を切り取り破いて捨てる話など聞かすのも良くないのに・・・・僕は60代にもなり何たる大人だと思った。youちゃんは僕の闘病中心配して何度も神社に僕の「病気が治りますように」と願かけに行ってくれた。子供のそうゆう気持ちは純真で神様にも伝わるような気がする。有難いことです。過去帳には最初に書き込んだ寺の坊主の字でありませんが、ボールペンで親父の名前と半分しか覚えてない戒名を繋いだページに手書きしました。思い出して腹たてて、もう1回しないようにと思っています。この頃続く。
自分が使わなくても管理していないと他人が使うとお金は、なくなる。自分以外の人にお金を任せたら持ち家以外の全ての財産を失くした事がある。それが1度ならず2度ある。2度めは、1度めの経験を生かして通帳、印鑑を自分で持つようにした。その時通帳なるもの、しっかり手に取り初めて見た。どれが出たほうのお金か入ったお金か「知ったことか!」で生きていたので当時は直ぐに分からなかった。以前親父に結婚前お金の管理をずっと頼んでいた頃もその悪どい我が実父に自分の払わねばならぬ物件を僕の名義に替えられ随分金を抜き取られている。1度目の破産させてくれた人に親父の悪事を暴いてもらえて発覚した。1度目の破産から「通帳、印鑑さえ持っていればこれで大丈夫」と思いきや、そのころは既にカードなるものの時代。それを知らず、コテンコテンにやられ2度目の持ち家以外の財産を失くしている。スッカラカンの時 よりによって 悪性リンパ腫4期の末期癌(骨髄転移)となる。金が無くなり保険料が払えず収入保障保険を解約したところで癌になった。よって保険金は一銭も入って来なかった。癌保険は金使ってくれた人が金遣いに忙し過ぎて僕を保険に入れる余裕がなくて入ってなかった。笑うしかない。使い切った人の養老保険なるものを僕が払ってあげていて、それを解約して300万程のお金を得てそれで乗り切った。癌は治った。又働いている。元々お金に興味がない。それを知り親父のような悪い奴が金の臭いを嗅ぎつけやってくる。金沢由紀男と言う偽技工士には30万円を騙し取られそうになった事もある。僕が30万持ってギターアンプを買おうとしたら、それを見て「何にも言わず、その30万自分に預けてくれ、いい買い物にしてみせる」と言う。以前から小物を取られ、すり替えられインチキばかりされてるので断った。自分がそれで「バレていない。上手く生きている」と思っているのが、嘘つき、ペテン師全員の特徴だ。何にしろ末期癌は治った。兄も金に興味がない。兄の話は「今回は話さないで欲しい」らしいからやめとく。親父は悪党で祖父は以前話したように崇高な精神を持ち無報酬で気功による治療を分け隔てなく続け、家はスッテンテンだったが善行積んだ人だった。死んだ親父が僕ら兄弟に「お前ら2人隔世遺伝やな」と言った。金が無いは金に困っているのではない。金が無くて困っているのは不幸な事だ。金のない人と金に困っている人は違う。金の使い方の上手い人は少ない金で多くの利益を生む。1万おごっても、当たり前に受ける人。「もっとないのか?」と不満げな人。千円のおごりでも「美味い、美味い」と上機嫌で食べてくれ「今度給料入ったら自分に任せてくれ」と言ってくれる人と金には反応が様々だ。最も不幸なのは金のない事でない。ない金を求めることだ。これに気づかなければ永遠に幸せはやって来ないと確信している。ご気楽に ご気楽に死の淵で、金のないのをチョットばかりヤケクソではあったが笑えたのは良かった。この頃続く。