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昭和だった

昭和の最後、まだ私は小学生でした。
今思い返すと、おおらかな時代だったな、と思います。
その時代を思い返しながら、きっと今も、もっとおおらかな育児でも子どもはすくすく育つんじゃないかな、と思いながら書いていきたいです。

「ハッピークラスにしましょう。」と三木美紀子先生の第一声で幕を開けた3年生だった。

三木美紀子って、すごい名前!って思ったら、結婚して、三木美紀子に変わったのだそうだ。

口が大きくて、赤い口紅をつけた三木美紀子先生は、30代半ばで、子供が女の子ばかり3人いる、ということを知った。


初日こそ、ワクワクドキドキしたけれど、それからしばらくして、私とえりちゃんとの間では、三木美紀子先生への期待は急降下していった。


三木美紀子先生には、1.2年の担任だった20代のゆり先生のようなおしとやかさがまるでないのだ。


えりちゃんが庭に咲いている水仙を教室に飾るために持っていったら、給食のジャムが入っていたブリキ缶に水仙をかざったので、えりちゃんは憤慨していた。えりちゃんの前の担任の先生はちゃんと花瓶に飾ってくれたのだそうだ。


体育のあと、水を飲みに行ってもいいかとえりちゃんも私が三木美紀子先生に聞くと、

(信じられないことに当時学校に水筒は持って行ってはだめだった。水道の水を飲んでいた。琵琶湖からひっぱってこられる京都の水は臭かった。)

「そんなこと聞いてくるなんて、あなたたちおもしろいわね。飲みなさい。飲みなさい。死んじゃうくらい飲んできなさい!」

とワハハと笑顔で返された。


先生が死んじゃうくらい飲みなさいって、そんなこと言うなんて信じられない!と、わたしもえりちゃんもプンスカしていた。


きっと、名前が面白くなるから、三木さんって人を探して旦那さんにしたんだろう、そんな感じがする!とえりちゃんと私は三木美紀子先生の陰口をたたいた。


私は1.2年の時のゆり先生が恋しくてしかたなかった。