ときどき、

ほっぺたを包む優しい手のひらを感じたくてここを訪れる。

 

ほらね。

安心する。

 

それはぼくの、都合の良い愛の解釈かもしれないけれど。

にっこり微笑って、

「いつでもいいよ」

そう、言ってる。

気がしている。

 

陽射しみたいにあたたかく、やさしい手のひらのぬくもり。

生きているひとの、確かなぬくもり。

今日も、いてくれてありがとう。

 

きみの顔はとても小さかったことを、

ぼくの手のひらが覚えている。

 

 

ときどき、

死に際をおもう。

昔の人が、死に際に詠んだ辞世の句ってやつは、

どのタイミングで詠んだのか?とか。

間もなく「死ぬ」と、死に直面したひとの心持ちとはどんなだろうか。とか。

実際に直面したこともないし、

きっと死んだら何も残らない(無に帰す)と、基本的におもっているぼくは、

想像するに乏しい。

 

自我は消えてしまうだろうけども、

でもきっと、

いのちの跡みたいなものは残るんだろうな―、ともおもっていて、

だからそれは、こどもたちが生きているから、

ずーっと繋がって、脈々と続いていく、いのちのリレーみたいなやつで、

ひとつひとつの始まりと終わりには、あまり意味などなくて、

ただ、ただ、続いていくっていう―。

自分も、自然の一部なんだとおもえば、

この世の中で手に入れるべきものなど、無いに等しくって。

 

もう、すでに手にしていたし、

バトンはつないだ。

今すぐ、お役目御免なんてわけにはいかないけれど。

 

 

 

こんなことをふいにおもった。

ぼくが死ぬときには、

きみは気が付くだろうか―。と。

 

それはでも、なんとなく。

気が付くだろうな。

そう、おもった。

 

そして、自分の死を、

ただ直感として、

遠くにいても感覚として、

気付いてくれるだろうひとと出会えたことは、

奇跡以外なにものでもない。

 

だからこそ。

気付かないでほしい。

そう、おもう。

 

 

 

ときどき、

きみと細い空のあいだを横切る、

まつ毛を揺らす程度の風であれば良いのに、とおもう。

 

きみが安らげるように。

見上げれば、いつものように陽射しがあたたかいことを教えられるように。

死に、気付かないように。

 

 

そしてぼくはときどき、

ここを訪れる。

何も言わなくても、見えなくても、

ほっぺたを包むぬくもりが、生きていることを安心させてくれる。

 

「そのままで、いいよ」

そう、言っている。

気がしている。

 

すっかり安心して、

ぼくはまた、生きていける。