食堂へ戻るとマチコが食卓を広げていた。いつも昼はマチコと過ごす。
 徳太郎は両親を知らない。生まれてすぐに相次いで病死したが、その頃のことは記憶があるわけでもなく伝え聞きしただけである。両親の死後は祖父母に育ててもらったが、祖母は先頃急逝し祖父は田舎で一人畑を耕している。徳太郎はマチコを祖母のように慕った。快活な彼女が祖母によく似ていたからである。
 二人で過ごす時が唯一緊張が解れるときだった。育ちがいいわけではない徳太郎はこの家のぴんと張り詰めた空気を息苦しく思っていた。輪をかけて不仲の家庭にやきもきしてしまい徳太郎の拠はマチコだけであった。


夕刻が迫り、茶の稽古からキヨ子が帰宅した。菓子が余ったからと、茶請けの饅頭を一つもらった。そろそろ福美を迎えに行く時間である。
徳太郎はいつもの場所に車を停めた。本来ならば車外に出てお迎えをするべきなのだろうが、それさえ福美が嫌がったからである。
夕日が柔らかく包み込んで、徳太郎は目を瞑っていた。ラジオから西洋の音楽が流れ、それに耳を傾けていた。不意にガラスをつつく音が聞こえ徳太郎は慌ててラジオのスイッチを落とした。
 昼が近くなり、家政婦のマチコが買い物から帰宅した。還暦超えながらなかなかにハキハキと家事をこなす。待つことが嫌いな人美の為にマチコは人美用に手早く昼食を用意した。部屋で食べると言う人美のもとへ食器を運んだのは徳太郎だった。大きな屋敷にたった三人、廊下は冷たく静かであった。
「失礼します」
一言入れて少し戸を開けると人美の部屋の匂いがした。あのきつい香水の匂いが部屋に染み着いているようだ。つんとして徳太郎はそそくさと盆をおいた。
「ありがとう」
「いえ」
やけに声が近いと思ったら人美は徳太郎の目前に立っていた。さっきまで羽織っていたカーディガンは脱がれ、両腕は露わになっていた。
「やだ、そんないやそうな顔しなくても」
人美は微笑しながら徳太郎の腕を撫でた。ゾワゾワと不気味な感覚が腕を伝わった。怪訝そうな顔をしていたのだろう。反射的に少し退くと人美はけらけらと笑って徳太郎を出て行くように促した。
人美は美しい女であるが、開放的すぎるのが徳太郎は苦手であった。徳太郎の女性像は綺麗に整えられているのである。
 徳太郎は帰路を急いだ。窓を開けると金木犀の匂いがした。やはり花の香りであった。
家につくと福美の姉・人美が珍しく家にいた。人美は奔放な性格で家を空けることはままあることだった。どうせ金の無心にでもきたかと徳太郎は気にとめなかった。「あいかわらず愛想がないのね」
「申し訳ありません」
人美が動くときつい香水が匂った。彼女にはお似合いの主張のある香りだった。
「お父様はもう仕事かしら」
「ええ、朝一番でお出かけに」
出かけたのは正確には昨日の夜だ。帰ってこないだけである。
 人美がいるということは、奥様はいないということである。奥様は自ら外出なさったか―。今日は茶の稽古だと言っていたが、もう一人で行かれたのか。急いだ甲斐もなく徳太郎は家へ戻った。
人美は決して悪女ではない。妾の子としてこの家にいるから、身の振る舞いがわからないだけだと徳太郎は思っている。それはふとしたときに見せる彼女の素振りがそう思わせるからだ。
「紅茶くらい、飲むでしょう」
「ありがたく頂戴します」
「別に堅苦しい言葉遣いはいいわよ、私はあなたのご主人じゃないし」

 人美の義母であるキヨ子は、表向きは物腰こそ柔らかだが、妾の子である人美や妹の冨美をこれでもかというほど毛嫌いしていた。今でこそお互いに関わらないようにしているが、前は見ていられぬほどだった、と聞いている。ある夜に錯乱を起こし幼い福美を抱えて遥か遠い実家へ帰るため街中を彷徨ったこともあったらしい。徳太郎はその頃をしらないのだが。