危険な食卓。
「食の安全・安心」なんて、もううんざりなんだな。
第一、「安全」と「安心」をひと括りにするなよな。
「安全という状態」と「安心という感情」は、まったく別の問題でしょ。「安全」な食べ物だって、それでほんとに「安心」できるかどうかはわからない。だって、感情の問題だもの。
あんまりにも空っぽで商業的すぎる言葉の使い方に、呆然としてしまう(高橋知事が、「安全・安心な北海道産品を!」なんて言うのは、いったいどこまで本気なんだろう?)けど、まあ、農「業」は産業であって経済活動だから、大事なのはイメージだけなんだろうけどね。
♪イメージがあればいい~♪、ってね。
そもそも、だ。
食に「安全」とか「安心」なんてあんのかな?
生きてるモノにとって、「喰う」ってことは、本来、常に「危険」と隣り合わせの行為じゃなかったの?
「安心して喰う」なんてことをさも当たり前とする感覚こそ、ズレちゃってるんじゃないのかな?
「喰う」ってのは、自分が生き延びるために相手を殺すこと。
そして、体内に異物を入れること。
それは決して「安全」でも「安心」でもないキワドイ行為じゃないのかい?
もともと生き物には、「喰えない危険=飢え」だって大いにあるはずなんだし。
狩猟・採取・栽培・飼育、そして加工、保存。
それらは必ずしも、「安全・安心」な行為じゃない。それらを経て体内に取り入れるコトもまた、本当は決して油断してはいけない。
だから、僕らは少しでも危険を減らすべく、知恵を働かせなきゃならない。
それが人間だったはず。
添加物がいや?農薬がいや?
本来やるべき「喰う」為の前段行為をぜーんぶ他人まかせにしといて、「安全」や「安心」を求めるなよ、と思ってしまう(同時に強く自戒する)。
それは「生きてる」ことを他人まかせにしてることじゃないか(同時に他者に「死」を委ねてることでもあるだろう)。
不可欠な、当り前の、日常の風景。
「喰う」ことの「危険」を思い出したい。
それは自分の手を知恵を感性をフルに使うことであり、命に向き合うことだ(そして、だからこそオモシロいんだ)。
自分を完全に家畜化してしまう前に、手放しちゃった「危険な食卓」を取り戻していこう。
