今日はバスケ
ネタ
自分が入っていた、埼玉県の社会人クラブチームの
中川クラブ(中川カラーの黄緑で)
中川クラブのブログ
ぜひどうぞ埼玉県ではある程度、名前が売れてる??チームです
アメブロを見ていたら、ブログがあったので懐かしくなって、
をしたら返信が
片岡君ありがとう
今でも昔に在籍していたチームが関東大会目指して、
本気系で頑張っているようで嬉しい限りです

自分が中川クラブに入団したのは19歳の時でちょうど世代交代の時期でした
当時バスケに燃えていたので、埼玉県で一番強いチームに入ろうとしたけれど
身長もそんな高くなく(177センチ)、大学の体育会でやっていたわけでもなく、
あっさり断られ

知り合いの先生の、つて で中川クラブを紹介してもらい、
何の審査も無しに、快く無名選手の自分を拾ってもらいました

当時の中川クラブは、おじさん集団が頭を使った 玄人受けする『うまいバスケ』の
おやじ集団でした
みんな大学とかで、かなりやってた人達でかなりレベルが高いバスケをしますが
頭を使うバスケなので、チーム・マイナス6%ばりの省エネ集団

入団した、その年にあれよあれよと何と埼玉県準優勝して関東大会へ

その県大会決勝戦は、青桐クラブ
一回戦から、若くて体力があるという理由だけでスタメンで奴隷のように使って頂けまして
マークをしたのは何と相手のエースで当時埼玉県でNo,1プレーヤーのボス秋
さん喧嘩腰でガチンコで挑みましたが完膚なきまでにやられて

おやじ軍団も体力切れで完敗

ですが、試合後に知ったんですが、実は中川クラブの関東大会初出場

もちろん試合後は大宴会
入団の初年度が、このおやじ軍団のピーク時でもありチームの低迷期の始まりでもあり、
変革期のスタートでした
みんな、それぞれ仕事を抱えて、家族サービスなどでチームとしてなかなか練習も出来ない
状態が続き、試合も勝ったり負けたりの時代でもありました
佐藤ボス、市川のぶボス、横田師匠などなど、本当にこの時期はしごかれた時代でも
ありました
特に横田師匠のサッカーの中田バリのキラーパスは自分を成長させてもらいましたし、
最高のガードプレーヤーとコンビを組めたのは運が良かったです
当時、おやじ軍団は10人くらいだったけど、みんなが目をかけてくれて、
マインドや技術面/バスケットとはなんぞや など本当に色々根気良く
指導してもらえました
自分も置いてかれたくない、早くみんなに追いつきたい、チームに貢献したい、
勝ちたい、おやじ達の期待に応えたい と思って、本当にバスケに全力を注いでました
生活もすべてバスケバスケバスケ 仕事よりもバスケバスケバスケ の生活
当時のNBAで表現すると、師匠=ストックトン 自分=ピッペン(怒られますが)
のようなイメージではなかったかと・・・
1~2年、勝てない時期が続き、メンバーも中々揃わない状態が続き・・・・・
ここから中川クラブの変革期がスタートします
忘れてたらごめんなさい
確か、はげ山 クマ が練習に参加し始め、当時高校3年だったかと、
そこに、タニ(今は教師らしい)、ゴリ三ヶ島、小沢兄弟、
キャイーンのうど日向、青木、ノグ、イケテナい和気、
たまに日体大のミノワ、などなど飲ませ食わせの強引なリクルートも含めて、
メンバーが揃っていった記憶が(忘れてる人がいたらごめん)
ここら辺から新しいチーム作りがスタートした時期でした
メンバーの集まり方は今最高に熱いマンガの ↓ ↓

ウイニングチケット のようなイメージ(ここまで熱くないかもしれないけど)です
バスケに挫折した奴、遊んでた奴、アホな奴らばかり集まってきましたが・・・
勝ちたい熱い想いの仲間が徐々に入団してきました
無名な普通の奴らばっかりだっけど、勝ちたい/関東大会に出たいという目標に向かって
スタートしました
エリートではなく、バスケにしては身長も小さく、何も無い雑草の集団です
ただ勝ちたいという想いだけ
ここからスクールウオーズのように7年戦争がスタートです

非常に長文になったので、そのうち第2幕を頑張ります