戦国に生きる:魏国興亡史・シニア徒然ブログ | シニア徒然ブログ

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鬼谷の教え:この作品は史実をモチーフとしたフィクションです。

鬼谷きこくとは江南の陳国に生まれた人物で、弁論の術を学問として体系化
し、それを書物に著したのだという。

智者は自らの悪い部分を用いず、かえって愚者の良いところを用いるものだ。
自分の下手な部分を用いず、かえって愚者のうまいところを用いるものだ。だ
からこそ智者は困ることがないのである。

それが利益になると主張する者は、そのうまみを吸おうとしているのであり、
それが害になるという者は、悪い部分を避けようとしているのだ。

殻を持った生物の強みは、その殻の厚さによっているし、毒虫の動きは、必ず
その毒という強みによっているのである。

獣はその強みを用いることを知っており、人と話す者もまたそれを知って、用
いるべきなのである……「鬼谷子」



(攻防)


大梁では、公叔痤の葬儀が執り行われようとしていた。その最期は穏やか
なもので、苦しむことなく、眠るように息を引き取ったという。

その人生で権力争いや、若いときは戦いの中で捕虜となる苦しみも経験し
てきたという老人にとって、冥界の門をくぐることは幸福を意味すること
ではないか……そう考える娟であった。

先代君主である武侯の姉であった妻は早逝している。その後に後妻や側室
を設けず、ひとりで過ごしてきた公叔にとって、大事なものは自分であっ
たのだということに気付いたとき、すでに娟は大人であった。

幼いころからその気持ちをわかっていれば、より孝行ができたものを、な
どと後悔するばかりである。しかも公叔は、あまりにも静かに息を引き取
ったため、最期に何も言い残すことが無かった。

龐涓が邯鄲包囲に出撃したことに満足していたかどうか、それさえも娟は
確信が持てなかったのである。

葬儀は家宰である衛鞅が取り仕切っていたが、彼女はそれさえも不満であ
った。いやしくも国の宰相であった公叔の葬儀である。より身分の高い人
物がそれを行うことこそ故人に対する礼儀ではないか。しかも魏公罃は参
列こそしたものの、涙も見せずに立ち去ってしまった。娟にとっては、国
に対する不信しか残らない葬儀であった。

「長いようでいて、あっという間にお別れのときが来たように思えます。
それにしても将軍がお戻りになる前に逝ってしまわれたことは、残念とし
か言いようがありません」旦は、おそらく娟も同じ気持ちだろうと思い、
そのように述べた。「そうよね」とか、「ほんとうに」とか言ってもらえ
るだろう、と踏んでの発言である。だが、このときの娟は、そのような軽
い反応を示さなかった。

「私は、今この場にいる人たちを許せないわ。公叔さまはあんなに年老い
てまで戦地に赴かなければならなかったし、その苦労が原因でお亡くなり
になったのよ。将軍はお世話になった公叔さまの葬儀にも出られず、戦地
で苦しんでいるわ」

「それは……仕方の無いことだと僕は思いますが」

「本当にそう思うの? 私はこれは誰かの陰謀だと思うわ。公叔さまがい
よいよ危ないという時期を選んで将軍が出兵せざるを得ない状況を……誰
かが作り出したのよ」

「それは、斉や秦などの……いわゆる敵国の仕業ですよ」「それはそうだけ
ど、私は魏の情報を誰かが横流ししていると思うの。それが誰かはまったく
想像もつかないけど……このことは将軍も疑っておいでだったわ」「確かに
そうでしたね。そう考えると僕も不安になってきました」

「このままいくと、……おそらく将軍は戻ってこれないわ。旦、早く手を打
たないと」娟は息巻いたが、旦は呆然とするばかりであった。自分は年端も
いかない子供であり、娟はうら若き婦人である。策謀渦巻く天下を相手に、
どう戦おうというのか。

「いまならまだ間に合うわ。将軍に連絡を取って邯鄲から撤兵してもらうのよ。
情報が筒抜けになっている状態で、主力が国内に不在だなんて危なすぎます。
衛鞅さまに話を持ちかけてみましょう」

衛鞅は黙々と葬儀を取り仕切り、その手際には非の打ちどころが無かった。だ
が、そのことを評価する者など、魏にはいない。公叔が生きていれば彼のこと
を褒めたであろうが、その公叔も既にいない。

衛鞅はこのことを以前から予測しており、今後の身の振り方を考えていたよう
であった。が、それを他人に悟られるような不手際をまったく見せなかった。
感情が少ないのか、それともそれを必死に押し殺しているのか、娟の目から見
てもそれは明らかではない。そのことが長い付き合いであるにもかかわらず、
彼女が心を寄せる気にならなかった原因であったと言えよう。

このため娟は衛鞅に相談することを若干躊躇ったが、ことは急を要するため、
背に腹は代えられなかった。

「公主の言いたいことはわかっているつもりです」衛鞅は娟がひとことも口
にしないうちに、そう言った。「龐涓将軍のことが心配なのでしょう。……
悪いことは言わない。諦めるのだ」

「……なんですって?」

このときの衛鞅はどこか憑き物が取れたように飄々としていて、常になく表
情も明るかった。それだけに娟には気になることが多い。ましてこの発言で
ある。彼女は衛鞅の真意を質さずにはいられなかった。

「魏の覇権は近いうちに終わりを迎えることとなります。それに伴って国内
は大きく乱れ、他国からも軍事的な干渉を受けることとなりましょう。龐涓
将軍も戦いに敗れて帰らず、このままでは公主もつらい人生をお過ごしにな
る」

「あなたにどうしてそのようなことがわかるのです。そもそもそんなことを
言って、公叔さまに申し訳ないとは思わないのですか」

「無論公叔さまにお世話になったことは感謝していますよ。よって、私は義
理を果たしたのです。あの方が亡くなられるまで、こうして大梁にとどまっ
ていたことは、その意識の表れです。その気持ちに嘘はございません」

「ということは、本心では他の意志があるということね。あなたの心はすで
に魏国にはなく、他のどこかの国にある、と」衛鞅はまるで居直ったかのよ
うな態度で、これに応じた。

「それのどこがいけないのですか。魏公は私を受け入れようとはしてくれま
せんでした。ならば、私としてはどこかに自分の居場所を求めるしかない。
生きていくためには、当然のことではないですか」

「魏公には確かに人を見る目はないかもしれません。それであなたが魏を見
限ることも自然なことかもしれない。でも、だからといって魏国が覇権を失
うことにはならないわ。ましてや、将軍が敗れることなど……。いまあなた
がここからいなくなったからといって、戦場には何も影響がないでしょう」

衛鞅は意味ありげな微笑を浮かべ、つと視線を外した。娟は貶められたよう
な気分になり、面白くなかった。

「公主はわかっておらぬようですな。戦場というものは、情報によっていく
らでも左右できるものです。龐涓将軍は、邯鄲包囲に先立って衛を攻めた。
濮陽を占領しておけば諸国に対する牽制となると信じて行動した。太子も邯
鄲を包囲していて大梁にはろくな軍隊がいない。こうした情報を斉軍が得て
いれば、どの様に動くか。そのことを考えてみたことがありますか」

「どうせ斉軍はそのことを知らないわ。誰かが教えない限り……。いえ、ち
ょっと待って。もしかしたら……」

「そうだ。私が教えた」

衛鞅の言葉に娟は慄然とした。目の前の男は、自分の栄達と引き換えに国を窮
地に立たせようとしているのだ。

許せることではない。「あなたが!……その情報を餌に、斉へ身を売るつもり
なの? なんてひどい人。そんな人だとは思わなかった」

「斉に行くつもりはない。秦の孝公は人材を捜し求めていると聞いているので、
私は秦に赴くつもりだ。私が行くからには、秦を次の覇者にしてみせる。……
そこで、どうだ。公主よ、共に秦へ赴かないか」

娟は驚きのあまり絶句したが、それも一瞬のことだった。「将軍はきっとあな
たの策謀を見抜いて斉軍を蹴散らすわ! そうに決まってる。どうして私があ
なたなどと一緒に……」

「龐涓はもう二度と公主の前に姿を現すことはない。その事実を受け止めるの
だ。私と一緒に来い。寂しい思いはさせぬ」

「……いやよ!」

「わからぬのか。……好いているのだ。昔、公主がこの邸に来てから、ずっと
な」「そんな! でも……いやなものはいやです。止めはしません。どうぞひ
とりで行ってらっしゃい」

衛鞅はそれを受け、背を向けて立ち去った。その場には彼が育てた柳の木が風
に揺られ、切なげな音を奏でていた。本来ならば水辺に自生する柳を、公叔の
庭に植えて育てたのは衛鞅その人である。

彼は、一見不可能なことを長い時間をかけて形にすることを得意とし、公叔痤
もその能力を珍重したのだった。しかし、彼が密かに魏の転覆を願って行動し
ていたことに、誰も気付く者はなかったのである。…

















私にその当時の記憶は殆ど無く、お父さんが居ないことを気にした覚えも
ありませんでした。 小学生に上がる頃に母が再婚し義理の父が本当の父
親だと思っていました。

そのうち私の下に妹ができ、私には幸せな家庭であると思えていました。
しかしその幸せも長くは続かず、両親は頻繁に喧嘩するようになりました。

私はただただ声を荒げる両親が恐く、首の座らない幼い妹を抱え、廊下で
泣くこともありました。 私なりに、 『妹に両親の喧嘩を聞かせては駄目』
と考えたのか、必死に妹を抱え、両親の居ない所へ行った覚えがあります。

兄が居る時は必ず私と妹を連れ出し、私を宥め、妹を寝かしつけ、「大丈
夫だから、何も心配は要らないから」 と何度も言ってくれていました。

そんな月日が続き、元々若くして兄を生んだ母はまだ20代半ば、母は朝帰
りをし始め、育児を放棄。 離婚は時間の問題でしたが、当時の私は離婚と
いう言葉も意味も勿論解りません。

人一倍お母さんっ子だった私は、 『お母さんが家になかなか帰って来ない、
寂しい』 そんな感覚しか無く、両親や親族達がこれから何を考えているか
も全く知らなかった頃、その日はやって来ました。



夜、珍しく両親と両親の親がテーブルを囲んでいて、小学2年生の私にも
解る明らかに不穏な空気。 何を聞いた訳でもないのに、私は母親にしが
みつきました。「お母さんと一緒におる!みんなあっち行って」 そう言
い続けた記憶ははっきり残っています。

「大丈夫」「早く寝なさい」「お母さんはどこにも行かないよ」 そう言
う大人達の言葉が嘘だと何故か解ったんです。子供は大人が思うよりも
深く勘付くものなのでしょうか。 「嫌!絶対嫌。お母さんと一緒におる」
そう言い放つと、祖母がこう言いました。

「お母さんは病気になったのよ。入院するだけだから」 するとそれに合
わせるように、「そうだよ、すぐ戻って来るよ」 と、その場凌ぎに大人
達が口を揃えて言います。

事さらに信じれるはずもなく、私は 「ぜったいうそだ!おばあちゃんも
おじいちゃんも、みんな嫌い。お母さんはずっと一緒におるの!」 そう
言って泣き崩れると、私を宥めに来たのは兄でした。

「○○(私の名)大丈夫、大丈夫だから一緒に寝よう」

当時、不仲な両親の元で私をいつも励ましてくれた兄は、私の中のヒーロ
ー的な存在でした。 その兄が言うならと、グズりながらも私は兄と子供
部屋に戻りました。

部屋に戻ってからも、兄は 「大丈夫」 と言い続けてくれました。 泣き
疲れた私は、 『寝ては駄目、お母さんが居なくなっちゃう』 と思いな
がらも、眠りに就いたのです。

翌朝、母の姿は何処にもありませんでした。 誰に聞いても入院している
の一点張り。 父も祖父母も兄さえも、何も無かったかのようにいつも通
り 「おはよう」 と言う違和感。

母が居なくなった悲しみから、兄に 「嘘つき!お兄ちゃんのバカ!」 と
罵ったこともありました。



それからすぐ私と兄は母方の祖父母に引き取られ、妹は父親に。 母親
の失踪理由、父親だと思っていた相手が義父であったことなど…。思春
期を迎えた頃に全てを把握した私が、真っ直ぐに育つ訳も無く。 反抗
期には相当の苦労を祖父母、兄に掛けましたが月日は経ちどうにかこ
うにか成人を迎えました。

その頃には、離婚を期に祖父母から勘当されていた母とも、いつでも連
絡が取れて会える環境になっており、成人を迎えたことを区切りに聞き
たかったことを母に問いました。

「何故、妹や私達を置いて出たのか」 母親が姿を消したのはとてもショ
ックな出来事でしたが、当時まだ一歳くらいだった妹を置いて出たことが、
私はずっと気になっていました。

自ら置いて出て行ったのであれば赦せない。母親とはもう会わない。そ
の気持ちで聞きました。

「せめて○○(妹の名前)ちゃんだけでも連れて行かせてくれと何度も
頼んだけど、お父さん達が許してくれなかった」 母親の返事はこうで
した。

兄と私のことも連れて行く意思を見せたが、祖父母に独りで家を出ろと
強く言われたとも言っており、後に父と祖父母にも確認しました。

妹を捨てたのではなかった。私も捨てられた訳ではなかった。そう思う
と涙が出そうでした。 その時、母親が涙を流しながら言いました。

「お兄ちゃん(兄のこと)には本当に…」 言葉が詰まり泣く母が何を言
いたいのか解らず、 「何? お兄ちゃんがどうかしたの?」 と聞くと、
ようやく話し出した母の言葉は、私にとって衝撃的でした。

「あの日、お母さんが家を出たのは、夜中の3時過ぎだったと思う。

玄関で靴を履き、誰にも会わず、物音も立てずに出て行けと言われ、そ
の通りに出ようとしたその時…。 お兄ちゃんが玄関に来て、泣きなが
らお母さんにこう言って来たのよ」

「お母さん、出て行かないで。○○(私)が泣くからここに居て。○○
(妹)はまだ赤ちゃんだよ。○○(私)もお母さんが居ないと駄目だか
ら…。 僕がちゃんと妹の面倒見るから居なくならないで、お願い」 涙
が出ました。

兄とは言え、当時小学6年生です。 あの出来事の翌朝、私にどんな気持
ちで 「おはよう」 と声を掛けたのかと思うと、涙は止まることはなく。
自分ばかりが辛い、そう思っていた自分の愚かさが悔しかった。

全てを理解していた兄が辛くないはずが無かったのに、兄はその姿を私
には見せなかった。 妹の父親と血の繋がりが無いと知った時も、祖父母
はただ写真を出し、 「これが本当の父親だ」 と言うだけで、何も説明
してくれなかった。

その時も兄が、私に兄が知る範囲の父親の話をしてくれた。 家庭のこと
でとにかく素行を悪くした私が祖父母と大喧嘩した時も、ただ叱るだけ
ではなく、話を聞いてやって欲しいと祖父母に頼んでくれたのも兄。 全
てに於いて兄だけだった。



色々な出来事を経験し、大人になった現在、こうして生きているのは兄
のお陰だと私は思っています。大袈裟と思われるでしょうが。 勿論、色
々ありましたが育ててくれた祖父母、義理の父、母親にも感謝はしてい
ます。 ですが、私は兄が居たからこその私だと思うので…。ブラコンで
すかね(笑)。 妹も今では成人し、両親のことも兄のことも知っていま
す。 妹もとても辛い時期があったのですが、それを踏まえても 「お兄
ちゃんが一番辛かったと思う。お兄ちゃんが私たちのお兄ちゃんで良か
った。自慢のお兄ちゃんだよ」 と言っていました。



兄は既に小学生の子供を持つ父親です。 父親としては少し頼りないよう
で、子供の頃に甘えられなかったせいでしょうか…。 奥さんに甘えっき
りで、義理の姉には申し訳ないですが、私達妹としては多少のことは大目
に見てあげて欲しかったりもします(笑)。

この兄の話を思い出す度に、子供は解っていないようで全てを理解して
いるし見ているとしみじみ思います。 大人の都合で子供を振り回すのは、
出来るだけ回避して欲しいと切に思います。

※ 兄への感謝を込めて。 お兄ちゃん、本当にありがとう! 。 …