わからないことは、わからないことだけではなく、わからないことの全般がつかめていないからであることを、国語学の本を読んで基本に戻った。学術的に古い本を読んでおくといいことは、現在の同じ分野の本を読むと、え?と記憶したことと違うところで止まることがある。記憶違いではないかと確認のために古い本を読むと、やはりその考え方が古くなっていることがわかる。この作業で、ようやくその分野の概念を知るに近づく。こういうことを「よくやるなー」と言う人が多いが最初から新しいことを学ぶことよりも理解は格段と違う。わかるはわけるであり、古い考え方と現在の考え方がつながっていることがわかると、知識がよく理解できる。別にそれで仕事に役に立つとか考えていないので、時に二度手間三度手間になることもあるけど、いいのである。最近の研究者は、文科省が研究予算を減らすことしかしないことと成果を求めるようでーその事自体は、衰退国家に進んでいる事実を考慮すれば致し方ないこともわからないではないー私のような効率などどうでもよく、頭の程度に合わせて学ぶ者からすると、手頃な学術書が消えていく方向になっていくのだろうなーという心配しかない。古い本で現在の本と違うのは、どこか余裕とこれでおわりではないという意思がある。著者のまだまだやることは残されているという気持ちが書いているものに投影されているようで、高校の頃、西田幾多郎の京都大学での講義録「哲学概論」岩波書店1953を読んでからそういう感想をもつようになった。思い返せば、要領が悪く、およそ頭が悪いものが四苦八苦して知りたいことを続けてきた。まるでそれは水平線をみるように道遠しである。