近藤勇・流山前後32 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
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戦いを望んだのは

 板橋での近藤勇の供述を、谷干城は「汝云ふところ、みな嘘なり」と断じています。誰しも自分にとって都合の悪いことはいいたくないわけで、いまの刑事裁判には黙秘権があります。それがなかった当時は、拷問で自白を強要することもありました。薩摩藩の思惑から、勇は拷問こそ免れましたが、肩の傷が悪化しているのに容赦なく尋問されています。苦し紛れに事実と異なる供述をしたとしても仕方ないところですが、はたして供述の全部がデタラメなのでしょうか? ここでは、あえて勇の供述の一部を信じてみようと思います。
 私が気になるのは、勝沼の戦いは勇が望んだことだったかどうかです。たとえ勇にとって望まぬ戦いだったとしても、宮様お二人の歴史的な和平会談を決裂させてしまった結果の重大性からすると、勇の監督責任は問われてしかるべきです。ただ、勇はことあるごとに「尽忠報国」の四字を持ち出していました。そんな勇が主君たる徳川慶喜の恭順の大方針に背いた不忠者だったと、私には思えないのです。
 新政府軍への抗戦など毛頭考えていなかったという勇は「会津の脱走者だんだん加はり、自然暴論を唱へ」と、供述しています。まずは会津の脱走者が勝沼の戦いに加わっていたかどうかですが、会津藩の戦死者を記録した『戊辰殉難名簿』に一人だけですが、勝沼の戦いでの戦死者の名が掲載されています。
新撰組参加 三月六日甲州勝沼 山崎壮助

『戊辰殉難名簿』p54
 また、柏尾古戦場の近くに戦死した会津藩士柴田八郎を葬ったと伝えられている墓碑があります。それはこちらのサイトで紹介されています。
 前述したとおり会津藩士が勝沼の戦いに加わっていたことは会津側も認めていることでもあります。いまでは会津藩が無抵抗で恭順していたのに薩長から無理矢理に攻撃されたというようなシナリオで「会津の悲劇」が語られることが多いのですが、そういった歴史ドラマが完成する以前には、ひたすら戦いを求めた会津の姿が世の人に受け入れられていたことを想像させられます。この『戊辰殉難名簿』が刊行されたのは昭和十二年で、軍国日本と呼ばれた時代のことでしたから、戦うことこそ美しいという世相だったのです。
 このほか、会津人である山川健次郎が監修した『会津戊辰戦史』は、結城騒動で会津藩士の田中左内と井深恒五郎の率いた部隊が参戦した様子を「我が兵三十人城の側面より入城」」したと伝えています。

『会津戊辰戦史』p219
 また、同書によると梁田の戦いにも会津藩士が参戦しています。古屋作左衛門指揮下の軍監として柳田勝太郎の名を掲げ「按ずるに勝太郎は理記と称し、このころ古屋隊幹部に於ける我が藩士の一人なり」と紹介しているのです。
『会津戊辰戦史』p222
 勝沼の戦いに関しては、干城の『東征私記』に甲府で会津藩士の大崎壮助を捕縛したのち斬首したことが出てきますが、『戊辰殉難名簿』に見られる山崎壮助とは一字違いですから同一人物かもしれず、この人はカウントしないでおきます。
『谷干城遺稿』上p85
 このように、多くの会津藩士が和平を妨害すべく活動していましたが、それらの人々が脱藩したのであれば会津藩には責任が及びません。そうなると、近田勇平という謎の人物も、あるいは会津藩士の変名ではなかったかと勘ぐりたくなります。この名前は、勝沼の戦いに参戦した幕臣で天然理心流の門人だった福田平馬という人と、近藤勇の名前を足して二で割ったようで、どうやら誰かの変名だと思われます。そうなると「近田勇平と云ふ者、暴露して官軍に抗拒し奉れり」という勇の供述も、干城がいうような命惜しさの逃げ口上ではなく、むしろ真実味を帯びてきます。

 会津のみならず、抗戦派の人々からすれば、江戸開城で和平が成立して終戦というのでは、薩長を中心とする新政府側の勝ち逃げと思わせられたことでしょう。そうした政治的な思惑は抜きで、こらえきれない口惜しさから抗戦を挑む人も少なくなかったようです。それは、およそ理性的とはいいがたい感情の暴走ですけれども、いつの世も庶民は理屈抜きでわかりやすい方を好みますので、そんな脱走者たちも江戸っ子には贔屓されていたようです。
 それに引き替え、戦わないことで忠義を尽くそうとした勇の姿勢は、世間には理解されがたいものかもしれません。



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