近藤勇・流山前後30 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。


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近藤勇助命論は実在したか?

 引き続き谷干城『東征私記』から、近藤勇に対する尋問の場面を見ていきましょう。長々しい注釈が、まだまだ続きます。
遂に御総督府に達す。御総督(岩倉具定)には我輩の論に御同意なれども、伊地知(正治)御総督に迫りて云ふ
「このこと独り我どもの論ばかりにてはこれなく薩州の論なり。この儀を御採用なき時は、兵を率ひ帰る」
 と申すほどの勢い。かつ「これまでの大業は誰の成せしに候や」など申したることも有る由(よし)。御総督様にも、ことのほか心配、我ら輩へ仰せ聞かるるに
「実に心外至極なれど、いま彼の暴威に抗したれば、まったく天朝の御為にもあい成らず、かえって賊勢を長ずるにも至るべし。我ら(岩倉兄弟)成らぬ堪忍するをもって、我らに対して堪忍致すべし」
 と仰せにつき、切歯ながら涙を拭きて黙したり。
 なお、薩州の論は、そのまま京都へ送るの議なり。すこぶる寛大にして、甚だしくては、死をも宥むべきほどのことなり。

『谷干城遺稿』上p100
 とうてい見過ごせない内容が出てきました。谷干城は、薩摩藩が勇の助命を考えていたというのです。結局のところ斬首となっていることは、いまさらいうまでもないことです。そのような結末がわかっているだけに、薩摩藩が勇の助命のために動いたことが意外に思えます。本当に勇が死罪を免れる可能性はあったのでしょうか? それを裏付ける記述が『復古記』のなかにありました。東山道先鋒総督および副総督の連名で、太政官へ宛てて送ろうとされていた建白書です。出典は『香川敬三私記』となっています。
今度、檻送つかまつり候囚人近藤勇、在京中の所業いまさら申すまでもこれなく、東下ののち、私に兵隊を率ひ、甲州へ出張致し、官軍因、土両藩(鳥取藩と土佐藩)の人数と戦争におよび候ところ、敗走して江戸地へ退き、大久保大和に変名し、またぞろ兵を率ひ、器械弾薬などあい備へ、下総国流山と申す駅に屯集致しおり候ところ、当手の人数、不意に押し寄せ召し捕らへ、板橋陣所へ送り越し候に付き、詰問つかまつり候ところ、徳川家来大久保一翁より申しつけられ、鎮撫のため甲州ならびに流山へも出張致し候旨、申し立て候に付き、徳川目付どもを呼び寄せ、大久保大和と申す者はこれあるやと、あい尋ね候ところ、右様の者徳川家中にはこれなき趣きあい答え、また近藤勇と申す者は、いず方にまかりあり候や訊問におよび候ところ、右は疾くより脱走におよび、近来徳川のことに関係致し候儀は少しもこれなき由(よし)に候……
 まだ途中ですが、いったん切ります。冒頭に「檻送」と記されていることで、このときは勇を生きたまま京都へ送ろうとしていたことがわかります。実際には首級だけが送られたわけですから、雲泥の違いです。
 和平の成立にとって肝心な勝沼および流山での鎮撫活動について、勇は「大久保一翁の指令による」と供述したと記されていますが、参考人として事情聴取された徳川家の目付は、それを否定しました。目付からすれば事実を曲げてでも「いっさい徳川家は関与していない」と、そういわねばならない場合でした。
 ついに差し出されなかった幻の建白書の出典は『香川敬三私記』ですから、敬三自身が起案したか、あるいは敬三の考えが色濃く反映された文章だと思われます。その敬三は陸援隊にいたので土佐系に属します。当然、勇のことは憎んでいたでしょう。それと同時に敬三は水戸藩の郷士の家柄に生まれた人なので、なるべくなら徳川家を守りたい気持ちもあったでしょう。そうなると、勝沼での罪は勇ひとりに背負わせることで、徳川家の関与を否定したいはずです。
畢竟、かの者の罪跡は、天下の士民あまねく知るところにて、今度私に兵を率ひ、官軍と戦争におよび候段、慶喜恭順の意にもあいもとり、天地容るべからざるの大罪に候。もっとも、かの者の申し候にも、甲州および流山の義は、なにぶんにも恐れ入り候次第、いかようの御処置仰せつけられ候ても苦しからずと、既に伏罪におよび候。官軍の諸藩士、従来彼が肉を食はんことを欲しおり候につき、一時も早く厳刑に処せらるべき旨、申し出で候へども、なにぶん天下の大罪に候あいだ、京師に於いて市中引き廻しのうえ梟首せしめ、いささか天下義士の心を慰め候様つかまつりたく、懇願奉り候……

『復古記』第十一冊p437-438
 このあと、くどくどと勇に極刑を与えるべきことを主張しているのですが、それは省略しておきます。肝心なことは、そのように念押ししなければ、勇が死罪を免れるかもしれないと、香川が危機感を抱いていたことです。その点からも薩摩藩の助命論が、かなり現実味を帯びていたことが窺えるのです。
 そうした助命論がありながら、勇は四月二十五日に斬首されました。それまでには江戸城の明け渡しと同時に、榎本艦隊の脱走、陸軍の集団脱走、宇都宮の攻防戦など、いくつもの大きな事件がありました。それらのことが勇の命運にも関わってきますので、なぜ処刑されたかについては、いったん結論を保留しておくことにします。それより先に、勝沼の戦いは誰が仕組んだことだったのか、その真相を探ろうと思います。


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